麦が死んでも、葬式ひらかなくていいよ。だって高いし。ていうかいやだな、死んでまで生きてるだれかと会いたくないし、高いの申し訳ないなって思いながら焼かれるしって考えたら。海にでもまいてほしい。……違法じゃなかったらよかったなあ。
そんなことを、信号待ちの車の中、助手席で話したことがあった。わたしは彼女のことを母と呼んでいた。親しみを込めてというか、なんだかんだいってこういう硬そうな呼び方が丸みを帯びた音になる気がしていて。そんな母のまえではどうしても、一人称が昔から変わらなかった。母は、
やだよ、葬式はひらく。麦のためじゃなくて、生きてるあたしのために。
なんて、言った。そののちわらいながらに青信号を見てアクセルを踏んで、
でもあたしが死んだら葬式はひらかなくていいよ。高いもん。少しだけ海にもまいちゃおっか。
と、さらにわらった。おんなじじゃんと返したわたしは、顔をあげることができなかった。
どこまで本気で思っていたのか、どこまで本気だと思われていたのか、わかんないけど、明日信号無視の車がいたらその車の前にとびだしてやろうかな、くらいのことを思いながらおやすみと伝えると、あたまをぐっしゃぐしゃにかき混ぜてからまた明日の夜にね、って言われたような、ほんとう、そういうどうということのないだろう日々とか言動とかで救われてるとこがあったと思う。
仕事で朝早い母と、のんびり起き始めるわたしとでは、会うのは夜と休日の外出ばかりだった。
死ぬなら、珍しく早起きして、嫌いだったのうそくらいついてからがいい。