「明日も会いに来てね、胡桃」
桃弥はどこか寂しそうに言う。
教室のドアを挟み、私達は立っていた。
「はい。今度からは桃弥に助けられなくても、数学の問題に答えられるように勉強してきます」
やっぱり真面目だね、と桃弥は楽しそうに笑った。
大丈夫だ、と確信する。
この笑顔が隣にある限り、私は強くいられる。
「……ちなみに、出ようとするとどうなるんですか?」
興味本位で聞いてみた。
「なんかね、こう、バンッ! て見えない壁に当たって遮られる感じ」
必死に身振り手振りをして説明する桃弥。けど、全然ピンと来ない。
見てみる? と聞かれたので、こくん、と頷いておく。
「いくよ。――ほら」
桃弥は緊張した面持ちで一歩を踏み出す。
と、普通に教室から出た。
「あれ?」
何故か自分の両手をまじまじと見て、何度も教室を振り返る桃弥。
「俺、今出てるよね?」
「はい」
「どうにもなってないよね?」
「はい」
ぎゅっと抱きつかれた。
けど、当然すり抜けていく。
桃弥は盛大に転け、そのまま大の字になり、「うわーめっちゃ嬉しい! 久しぶりの廊下だー!」と叫んだ。その場をゴロゴロと転がりだし、まるで高級絨毯の上にいるかのように頬を綻ばせる。
初めて見る光景に、冷ややかな目線を送ってしまった。
「……桃弥の勘違いだったということですか?」
「いや、胡桃のおかげだよ。ほら、華井さんと仲良くなってたじゃん。それで、俺の未練解消に一歩近づけて地縛霊となる道から逸れることが出来たんだよ。ありがとう! 胡桃」
うわーい! と初めて雪が降り積もるのを見た犬のようにその場を駆け回る。
も、突然、ブォンッと音が鳴った。桃弥は見えない壁に押されたように尻もちをつく。
えっ。と呆けた声を出し、ゆっくりと立ち上がる桃弥。もう一度歩を進めるも、またブォンッと音が鳴り、同じく見えない壁に阻まれた。思いっきり突進するも見事に跳ね返される。
肩を落として私の方を振り返る。
垂れ下がった犬の耳と尻尾が見えた気がした。
「……胡桃。もうちょっとこっち来てみて」
言われた通りに近づくと、桃弥はまた歩いていき、二メートルほど離れたところでブォンッと壁に阻まれる。
「……なるほど。そういうことか」
どうやら桃弥は、私の半径二メートル以内にいるなら、何処へでもいけるらしい。
「では、このまま外に出掛けましょう」
言うと、「え……でも」と困惑する桃弥。
「? 嫌なんですか?」
「いや、全然。めちゃくちゃ嬉しいよ。でも、その……帰りはまた学校に寄らなくちゃいけないから、そのうち夜になっちゃうかも知れないよ?」
帰り?
あぁ、そうか。
桃弥が私の半径二メール以内にいなくても自由に行動できるところは、教室しかないんだ。
「家に来たら良いじゃないですか。私にしか見えないから、ずっと居ても問題ないですよ」
「えぇっ! それは……」
 桃弥は何故か頬を赤らめた。
「遠慮しなくて良いですよ」
「いや、でも、お風呂とかどうするの?」
サッと私は胸の辺りを手で隠す。
「……桃弥って、そんなこと考える人なんですね」
「いやいやいや、違うって! だから聞いてるんじゃん」
酷く焦り、手を大きく振って弁解する桃弥。その様子が可笑しくて、ふっ、と息を漏らして笑ってしまう。
「うちのお風呂、狭いので。桃弥は扉の向こうにいられると思います」
言うと、桃弥は少し顔を背けて頭を搔く。
「そっ、か。それなら、胡桃がいいなら、良いんだけども」
「私は、桃弥と一緒に外を歩きたいです」
ピタ、と桃弥は頭を掻く手を止め、数秒黙ってこちらを見つめてくる。
そして、
「ありがとう。胡桃」
と笑った。今日見た中で、一番澄んでいた。

「門限には気をつけてね」
校門を出たところで、桃弥が言う。校舎の時計を見ると、十七時を指していた。
「大丈夫ですよ。お父さんは、私がいつ帰って来ようがどうでもいいと思っていますから」
言うと、桃弥は黙ってしまった。
返す言葉に困ってしまったのだろうか。
いつもの帰り道を、桃弥と歩く。
坂道の脇に生い茂る樹。錆れたガードレール。ふかして走っていくトラックの排気ガスの匂い。カラスに荒されたのか、袋から散乱するゴミ。
見慣れた、お世辞にも綺麗とはいえない景色が、今日は何だか鮮やかに色付いて見えた。
おかしいな、とも、当然だな、とも思う。
桃弥が隣にいるなら、私は何処へだって行けそうな気がする。
背中に羽が生えたみたいだ。

「ラーメン!?」
 私が入りたい店を指差すと、桃弥は大きな声を上げた。
 そう。ずっと行きたかったのだ。
私の高校の周りには、何故かラーメン屋が乱立していた。真っすぐ最寄り駅に向かうまでに、五つは見かける程。どれも店の前を通る度に美味しそうな匂いが漂ってきていて、気になってしょうがなかったのだ。同じ高校の人達が店に吸い込まれていくのを見る度、羨ましいと思っていた。
「なかなか、一人で入るのは勇気が出なくて……」
「傍から見ると女の子一人でラーメン啜ってることになるけど、大丈夫?」
「はい。こういうのは、気持ちの問題なので」
話していると、視線を感じてハッとした。
私、今、一人で喋ってるみたいになってた……。
こちらを怪訝な表情で見ている人達がいた。けど、少しだけだった。そんなには目立っていないようだ。ワイヤレスイヤホンで電話してるんじゃない? という声が聞こえてくる。なるほど……最近はそういうものがあるのか。そういうことにしておこう。
 一度、桃弥の顔を見る。うん、大丈夫。実質ひとりじゃない。そう自分に言い聞かせると、豚骨の香りがする店に入っていった。
 店員さんに、二人席に案内される。丁度良かったね、と桃弥は向かいの席に座ってくれた。
すぐ横の席に、同じ制服を着た人が何人かいた。けど、できるだけ視界に入らないようにして気にしないことにする。どうせ私を知らない人だろうし。
と、思いたかったのけど……聞き覚えのある声が耳に入ってきた。
「あれ、燦美野じゃない?」
 チラッと横目で見る。
同じクラスの……ええっと、たぶん狩南(かりな)さんがいた。トイレに行くと十中八九鏡の前で談笑している人だ。今日もきっちりと高い位置でポニーテールを作っている。
「えっ、誰?」
「ほら、今朝あんたの手鏡拾ってたじゃん。トイレで」
 狩南さんの隣に座っている知らない女子は、あー! とやたらと大きな声を上げ、「貞子ね。思い出した」と言った。というか、あのとき狩南さんもいたのか。前髪をなおすのに急いでいたし、俯き過ぎていたせいか気付かなかった。ほんといつもトイレにいるんだな。
「一人で食べに来てんの?」
 狩南さんは、相変わらず甲高い声をこちらに向ける。……別に良いじゃないか。放っておいて欲しい。
「マジで? めっちゃ面白いじゃん」
 低い、嘲るような笑い声がする。これも聞いたことがあるような……。
「てか西田、昼休みに華井と燦美野となんか話してたよね?」
 狩南さんが、向かいの席に座る男子に話しかける。……西田くんもいたのか。もうひとり男子が座っていたけど、それは知らない人だった。
たままた入ったラーメン屋に二人も同じクラスの人がいるなんて……ツイてないな。
「いや、燦美野とは話してないから」
「へー、そうなんだ。華井と何話してたの?」
「何でもいいだろ、別に」
 西田くんがそっけなく言うと、狩南さんは黙っていた。すると、知らない女子が楽しそうに言う。
「西田って華井のことめっちゃ好きだよね」
「は? そんなんじゃねーし」
「うっわ。分かりやすー」
 ふと見ると、狩南さんの表情が酷く歪んでいた。ゾッとする。隣にいる幽霊よりも怖い。……そうか。狩南さんは西田くんのことが好きなんだな。でも、西田くんは華井さんのことが好き? 三角関係だ。
華井さんは、昼休みに話していたのを見る限り、西田くんに特別な感情を抱いているようには見えないな。悲しい。けど、私には関係のない話だ。
ズズ、と濃い味の染みた中太麺を啜る。美味しいけど、期待していた程ではないな、と思った。すぐに胃もたれしそうだから、一杯で十分だ。

「美味しかった?」
 外に出ると、桃弥が少し心配そうな顔で覗き込んでくる。
私は、小さく頷いた。
それから片手を耳に当てて見せる。
「こうしたら、ワイヤレスイヤホンとやらで電話してるように見えますかね……?」
おぉ、と桃弥は明るい声を上げた。
「見える、見える」
ふっと頬が緩んだ。これから外で話すときは、こうしておこう。
「今度、ラーメン屋に行くなら……誰もいなさそうな時間に行きたいです。閉店間際とか」
「それは危ないよ」
 食い気味で言う桃弥。過保護の親みたいだ、とか思ってしまった。
小さく息を漏らして笑うと、なんで笑ってるのかと驚かれる。けど、いえ、と首を横に振っておいた。
あぁ、空気が美味しいな、と初めて思う。
さっきのラーメン屋にいるときよりも、確実に。
「次、タピオカというのを飲んでみたいです」
「まだ行くの? って、飲んだことなかったんだ! 大分前に流行ったのに!」
「うるさいです。桃弥」
あはははっ、ごめん。と桃弥は全く悪びれもせずに両手を合わせた。
「まだ売ってるのかな?」
「はい。生き残りの店を知っています」
生き残りて、と桃弥は腹を抱えて笑う。桃弥がいるなら、何を言ってもすべらなさそうだな。と真顔で安心感を抱きながら数分ほど歩くと、噂のタピオカ店に着いた。も、思わず眉を顰めてしまう。
「どうしたの? 胡桃」
「……また、同じ制服を来た人がいます」
「それは仕方ないよ。通学路なんだから」
 桃弥は苦笑し、あっ、と前方を指差した。
「華井さんじゃない?」
 見ると、店の前に出来た数人の列の最後尾に、明るい茶色の巻き髪をした女子がいた。誰か知らない男子といる。近づくと話し声が聞こえてきて、それで確信した。
華井さんだ!
ぱあっと気持ちが明るくなるも、話しかける勇気は出ずに、そのまま静かに華井さん達の後ろに並ぶ。そんな私を、桃弥はとりあえず黙って見守ることにしたようだった。
華井さんは、隣にいる男子を見上げて笑いかけている。
「でぇ~、なんかその子見えてるっぽいの。幽霊? みたいな。貞子みたいな髪してるからかなぁ」
 ……あれ、これってもしかして、私の話?
「ん? 霊感ある子なの?」
「そうなの~。あっ、もしかしてそれであんなに前髪長くしてるのかなぁ? 見え過ぎると嫌だから、みたいな~。うーん、気になるぅ」
 胸の奥に、少しずつ鉛が流れ込んでくるようだった。
今、ちょっと傷ついてる? 私……。
 貞子みたいって、事実なのに。
 いや……違う。
これは、不安なんだ。
華井さんに、人の目を見るのが怖いなんて言えないからだ。もし、いつか聞かれたら……私は何て答えたらいいんだろう?
 正直に言っても、友達だと言ってくれるだろうか。……お父さんの話は、出来ないな。
 あれ? そもそも、華井さんはどうして私と仲良くしようとしてくれているんだろう?
ぐるぐると、幾つもの疑問が、浮かんでは消えていく。答え合わせをした方がいいのか、私には分からない。
唐突に、暗い迷宮路に一人ぼっちにされた気分になっていた。
 頭が重くなり、少しずつ俯いていってしまう。
「あれっ? くるみんだ~!」
 ハッとして顔を上げると、華井さんがこちらを見ていた。いやに心臓が大きく鳴る。
「くるみん?」
「そう~。あ、今ちょうど話してた子だよぉ。もしかして聞いちゃってた? くるみん」
私は全力で首を横に振り、「今来たところです」と言った。特に疑われないから、私は相当影が薄いようだ。華井さんは隣にいる人を仲の良い先輩だと紹介した。一個上の二年生らしい。
その人が、何やら微笑んで言う。
「麗葉、女の子の友達が出来そうで嬉しい~って話してたんだよ」
「ちょっとやめてよぉ~、なんか恥ずかしいじゃん~」
華井さんは二年生の人の腕を掴んで笑う。付き合っていてもおかしくない距離感だ。
……さっきのは、そんな話だったのか。一気に高揚感が高まってくる。
私はぎゅっと拳を握り締め、華井さんの顔を見る。
教室では上手く言えなかったから、リベンジだ。
「あ、あの、私で良ければ、お友達になりたい、です……」
すると、華井さんは数秒固まったあと、ぶわっと満開の桜が咲き誇ったような笑みを浮かべた。私に抱きつき、頬をぴったりとくっつけてくる。
「嬉しい~! もう友達だよぉ」
ふんわりとしたフローラルな香りに包まれるなか、私は声にならない声を上げる。
やった……! ついに、私にもちゃんと友達が出来た……!
頭に温もりがあった。隣を見ると、桃弥が優しく目を細めていた。ポンポン、と私の頭を撫でてくれている。
どうしよう。私、今もの凄く幸せだ。
こんなに、ここに居ていいんだ、って思ったのは初めてだ。
「良かった。麗葉にも女友達が出来て。こう見えてけっこう繊細なところあるからさ、色々と気にしてるんだよ。だからこれからも仲良くしてやって」
二年生の人が言うと、えへへ、と華井さんは嬉しそうに笑った。今まで見たなかで一番可愛い笑顔だと思った。
ふと、さっきラーメン屋で会った西田くんを思い出す。
……この先輩には、勝てないな。
そんなことを思っていると、空気を切り裂くような声が聞こえてくる。
「何あれ。完全に引き立て役じゃん」
ぱっと声のする方を見ると、少し先に、狩南さん達がいた。こちらを見て嘲るように笑い、通り過ぎて行く。西田くんは真顔でどこか違う方向を見ていて、華井さんに話しかける気はないようだった。
今のって……私のこと、だよね?
聞き間違いかな。そう思いたいのに。
――完全に引き立て役じゃん。
頭にずっとこびりついて、離れない。
華井さんを見ると、二年生の人と楽しそうに話していて何も気付いていないようだった。
改めて実感する。
華井さんは、私とは違う世界にいる人だ。
そんな人が、私と仲良くしてくれる理由って――。
「胡桃?」
 桃弥が眉を下げ、「大丈夫? 顔色悪いけど……」と窺ってくる。私は、こくんと頷いておいた。
 駄目だ。私、今凄く最低な人になっている。
 こんな自分、嫌だ。
 
 駅に着くまでに、何とかタピオカミルクティーを飲み干した。タピオカが予想以上にモチモチとしていて中々噛み砕けず、口のなかに残り続ける。華井さんがタピオカ抜きで注文していたのを不思議に思っていたけど、邪魔だったのか、と納得する。きっと、この店は単純に飲み物が美味しくて流行っているんだ。
新鮮な噛みごたえを味わいながら華井さんのことを思い出す。
私は、いつか、華井さんに〝邪魔だ〟って思われないだろうか。
もう飽きたと、用済みだと言わんばかりに。
そんな一時的な、薄い関係値なんじゃないだろうか。
「……」
分からない。何も……私には。
ただ、自分が無力ということだけは分かって、嫌になるばかりだ。