急いで賑わう教室に入ると、俯きながら人の間を縫って自席に向かう。
人だらけの教室は苦手だけど、今の席はとても気に入っている。席替えは月単位で行われるから、どうにかして三十日以上に延ばせないかな、とか本気で思うくらいには。窓際だし前から二番目で黒板も見やすいし、それに――。
「胡桃ちゃん、おはよ~」
この教室で、というか多分、この学校で唯一私に話しかけてくれる人が、前の席に座っているから。
華井麗葉さん。名前に負けず劣らず、身も心も美しいお方だ。
この人だけはきちんとフルネームで覚えている。漢字も書ける。
「おはよう、ございます」
私はしっかりと頭を下げて挨拶を返す。
「はぁー。どっかにイケメン落ちてないかなぁ」
華井さんは両拳の上に顎を乗せ、伏し目がちにボソッと呟いた。
「……イケメン」
「やばっ。私、今口に出してた?」
パッチリとした目を更に開け、見上げてくる。つい目を逸らしてしまった。けど、長いまつ毛が今日もよく上がっているのが見えた。きゃるんっ、という音が鳴ったような気もする。……華井さんは、上目遣いの練習でもしているのだろうか。私がしたら怨めしい幽霊そのものになるんだろうな。
机の横に鞄を掛けると、ピッと姿勢を正して座り、私は返答した。
「はい。ガッツリと」
「あはは、ガッツリって! 胡桃ちゃん面白いねぇ」
何が面白いのだろう? と疑問に思ったけど、華井さんが笑ってくれているのが嬉しいから全然気にしないことにした。
「実は彼氏にフラれたばっかでぇ、めっちゃ病んでるの。早く次の恋にいきたいんだよねぇ」
明るい茶色の巻き髪の先を人差し指でくるくると回し、はぁー、と口に出す華井さん。なるほど。それは大変だ。由々しき事態だ。私は急遽イケメンを探すべく、とりあえず辺りを見回してみる。
と、思いのほかすぐに発見出来た。
華井さんのすぐ前にいるのだ。
その人は、ひとり窓縁に肘をつき、外を眺めていた。透き通るような肌にしっかりとした輪郭、軽くて柔らかそうな黒髪で物思いにふける様は、とても絵になっている。
その人にバレないようにこっそりと指を差すと、小さな声で華井さんに報告する。
「あの、その人はどうですか……? なかなかイケてると思うのですが」
「えっ。誰だれ~? どの人?」
「? そこで窓を眺めてる人です。緑のネクタイをしてるので、一個上の二年生ですね」
あれ、でも、どうして二年生の人がこの教室にいるのだろう。誰も何も言わないのも、よく考えたら変だ。……私がおかしいのかな?
華井さんは、どう思っているのだろう。
私が指差す方を見た華井さんは、んん? と小首をかしげる。
そして、何故かキョロキョロと辺りを見回し始めた。
「どこの窓~?」
予想外の質問をされた私は酷く戸惑い、もう、ガッツリと指差した。
「いや、そこの、華井さんのすぐ前にある窓です」
「えっ?」
華井さんは驚いて振り返り、その人を見た。
確かに、視界に入っている筈なのに。
何も言わずに数秒間見つめたあと、私の方に振り返ると、とても不安げな表情をする。
「さっきから何言ってるの? 胡桃ちゃん。誰もいないよ~?」
――誰もいない?
いや、そんな筈は……。華井さんこそ、何を言っているのだろう。
心臓が早鐘を打ち、ごくり、と唾を飲んだ。一筋の汗が背中を伝っていく。
「だからあの、そこに……」
すると、私がずっと指差していた二年生の人がこちらを見る。
ばっちりと目が合ってしまったから、反射的に顔を背けた。
「胡桃ちゃん?」
「いえ、あの……すみません。何でもないです」
「えぇ~?」
何が起こっているのだろう? 分からないまま、軽快なチャイムが鳴り響き、みんなそれぞれの席に着き始める。一時間目の数学の先生が入って来たので、華井さんは不審そうにしつつも一旦前を向いてくれた。私も、とりあえず授業の準備をしようと鞄から教科書とノートを取り出す。
けど、すぐに言葉を失ってしまった。
まだ居たから。
二年生の人は私の席の横に来て、にっこりと柔らかく明るい笑みを浮かべる。
誰も、何も言わない。
そこにいないかのように、反応しない。
「俺のこと、見えてるよね? 見えてたら、頭を搔いて」
思わず口を半開きにし、ボーッと見つめてしまう。
もう、分かっているけど、分かりたくないような。でも、その答えを確かめるべく、私は言われた通りに頭を搔いた。
すると、二年生の人は更に頬を上げた。長い前髪越しに、少しだけ顔全体を見る。くりっとした目は垂れていて可愛らしく、実年齢よりも幼い印象を受けた。犬みたいだな、と思う。
「嬉しいよ。凄い久しぶりだから、俺のことが見える人に会ったの。……何年ぶりだろ」
指を四本折り、「あぁ、そうか。もうそんなに経ったのか」と呟く。
それから開いた右手を私の方に向け、さらりと言った。
「初めまして。五年前に死んだ、仙二桃弥です」
ドクンと心臓が大きく鳴り、脇汗が垂れていった。
よく見ると、仙二さんは少し透けていた。仙二さんの後ろにいる人が見える。顔はよく分からないけど、動いたら分かるくらいには……。絶対にあり得ない現象が目の前で起きている。
――本当に、幽霊なんだ。
いつの間に霊感なんか持っていたんだろう、と妙に冷静になる自分もいた。
あんぐりとして見つめていると、仙二さんが私の机の上を覗き込んでくる。
「これ、何て読むの?」
そう言って仙二さんが指差す先には、ノートの表紙に書いてある私の名前があった。
燦美野胡桃。
あぁ、よく聞かれる。確かにこの苗字は読みにくいから。
「アザミノです」
瞬間、教室がザワッとする。みんなが私のことを見ていた。いきなり大多数から視線を向けられ、上手く息が吸えなくなる。も、すぐに自分のしてしまったことを理解した。
そうか。仙二さんは、みんなに見えていないんだ。幽霊だから。
「燦美野、なんか言ったか?」
先生が真顔で聞いてくる。……いっつも薄笑いしているのに、珍しいな。って当たり前か。私は今、いきなり空虚を見つめて名乗った生徒となっているのだから。
「い、いえ。何でも、ないです」
先生は眉を顰め、けど、すぐに瞳に嘲りの色をたっぷりと含んで口角を上げると、黒板に振り返って授業を再開した。教室のどこからか、クスクスと小さな笑い声が聞こえてくる。やってしまった……完全に頭のおかしい人認定だ。まぁ、もとから印象は良くないだろうし……変わらない筈だ、うん。と、何度も自分に言い聞かせて慰める。それはそれで、どうかとも思うけど。
「ごめんね。迷惑かけて」
仙二さんは両手を合わせ、心底申し訳なさそうに表情を歪める。また、つい反応してしまいそうになった。寸分迷った末、ぺこり、と少しだけ頭を下げることにしておく。
「あとで、ゆっくりと話そうか。色々聞きたいこともあるだろうし」
授業中は邪魔したくないから、とだけ言い、仙二さんは、すーっとスライドするように私から離れていった。目で追いたくなる気持ちを抑え、 一度、大きく深呼吸をする。バックバックと鳴り続けていた心臓が少しは落ち着き、何とか授業に集中しようと教科書を開いた。
けど、頭の中はどうしても仙二さんのことで一杯になる。
聞きたいこと……。それは、山ほどある。どうして私だけに見えるのか、とか。どうして急に見えるようになったのか、とか。
どうして、仙二さんは――。
あれ、今どこのページをやっているんだっけ? 全く分からなくなってしまった。いつの間にか数十分も経っていたのに、先生の話なんて一切聞いていなかったのだ。先週の数学は二日連続で休んでしまっていたし、検討もつかない。
おろおろとして冷や汗をかいていると、先生がこちらを見る。
すぐに、どこか愉悦そうな声を出した。
「じゃあ燦美野、問三の答えは?」
まただ。また始まった、と思う。
私は静かに立ち上がり、そのまま押し黙ってしまう。
「なんだ、先週解いてくるように言ったのに、やっていないのか?」
教壇に両手をつき、こちらに向かって大きなため息を吐く。
……私が休んでいたのは、知っている癖に。
俯きながら唇の裏を強く噛みしめ、私は小さく言う。
「休んでました」
「じゃあ、今から解け。こんな簡単な問題すぐに出来るだろ」
教室の空気がピリッとする。
この先生は、ろくに解説していない応用問題をわざと数学の苦手な生徒に当て、怒るのが趣味なのだ。ひと月前までは違う人がターゲットだったのだけど、その人が休みがちになってからは私がよく当てられるようになった。
それからはもう同じパターンだ。
分かりませんと言ったら数十分は説教され、みんなの授業時間を奪っているんだぞ、と責められる。悔しさから勉強に励むも、やっぱり分からなくて、気軽に聞ける友達もいないし先生には会いたくないしで、私も次第に休むようになってしまった。今日も来たくなかったのだけど……テストで良い点は取れる気がしないし、出席点を稼ぐしかない、と考えると仕方がなかったのだ。
前に、休んだ次の日は当てられなかったからといって、油断してしまっていた。
あーあ。私って、本当に惨めで情けないな。
目頭にぷくりと涙が浮かんでくる。
こんなところ、来なければよかった。
今日もこれから説教されて責められる流れか、と諦めて突っ立っていた――その時、耳元でふわりと落ち着いた声がする。
「a≦0,a≦8、だよ」
隣を見ると、いつの間にか仙二さんが立っていた。
へへっと柔らかく笑い、「お詫び」と言って私の頭を撫でる。
「みんなのノート見たら大体そう書いてたから、合ってると思う」
何の、感触もないのに。
頭から胸の奥までじんわりと温かくなっていく。
すぐに指の腹で涙を拭い、睨むように顔を上げると、大きな声で解答した。
「a≦0,a≦8、です」
おお、とみんなの声が聞こえた気がした。先生は虚をつかれた顔をし、教壇についていた両手をパッと離す。それから「なっ、なんだやっていたのか。じゃあ早く言え。……ったく」と頭を掻きむしりながら黒板に向き、何事もなかったかのように授業を再開した。
空気が抜けたように肩が軽くなり、ぺたん、と腰を下ろす。
仙二さんに、助けて貰っちゃった。
今すぐお礼を言いたいけど、口にすることは出来ないから。また、みんなに気付かれない程度に頭を下げることにしよう。
そう思った途端、上から、ハッと冷笑する声が聞こえる。
「この先生まだいたんだ」
見上げると、無表情の仙二さんがいた。何もかも、全てを諦めたような。あまりに第一印象からかけ離れた様子に、思わず釘付けになってしまう。
長い前髪越しに見る仙二さんの目は、真っ暗な世界しか映っていないように濁っていた。
「ほんとに変わらないよね、人って。――まぁ、俺もそうなんだけど」
こちらを見て、にっこりと笑いかける犬みたいな顔に。
初めて親近感を抱いた。
人だらけの教室は苦手だけど、今の席はとても気に入っている。席替えは月単位で行われるから、どうにかして三十日以上に延ばせないかな、とか本気で思うくらいには。窓際だし前から二番目で黒板も見やすいし、それに――。
「胡桃ちゃん、おはよ~」
この教室で、というか多分、この学校で唯一私に話しかけてくれる人が、前の席に座っているから。
華井麗葉さん。名前に負けず劣らず、身も心も美しいお方だ。
この人だけはきちんとフルネームで覚えている。漢字も書ける。
「おはよう、ございます」
私はしっかりと頭を下げて挨拶を返す。
「はぁー。どっかにイケメン落ちてないかなぁ」
華井さんは両拳の上に顎を乗せ、伏し目がちにボソッと呟いた。
「……イケメン」
「やばっ。私、今口に出してた?」
パッチリとした目を更に開け、見上げてくる。つい目を逸らしてしまった。けど、長いまつ毛が今日もよく上がっているのが見えた。きゃるんっ、という音が鳴ったような気もする。……華井さんは、上目遣いの練習でもしているのだろうか。私がしたら怨めしい幽霊そのものになるんだろうな。
机の横に鞄を掛けると、ピッと姿勢を正して座り、私は返答した。
「はい。ガッツリと」
「あはは、ガッツリって! 胡桃ちゃん面白いねぇ」
何が面白いのだろう? と疑問に思ったけど、華井さんが笑ってくれているのが嬉しいから全然気にしないことにした。
「実は彼氏にフラれたばっかでぇ、めっちゃ病んでるの。早く次の恋にいきたいんだよねぇ」
明るい茶色の巻き髪の先を人差し指でくるくると回し、はぁー、と口に出す華井さん。なるほど。それは大変だ。由々しき事態だ。私は急遽イケメンを探すべく、とりあえず辺りを見回してみる。
と、思いのほかすぐに発見出来た。
華井さんのすぐ前にいるのだ。
その人は、ひとり窓縁に肘をつき、外を眺めていた。透き通るような肌にしっかりとした輪郭、軽くて柔らかそうな黒髪で物思いにふける様は、とても絵になっている。
その人にバレないようにこっそりと指を差すと、小さな声で華井さんに報告する。
「あの、その人はどうですか……? なかなかイケてると思うのですが」
「えっ。誰だれ~? どの人?」
「? そこで窓を眺めてる人です。緑のネクタイをしてるので、一個上の二年生ですね」
あれ、でも、どうして二年生の人がこの教室にいるのだろう。誰も何も言わないのも、よく考えたら変だ。……私がおかしいのかな?
華井さんは、どう思っているのだろう。
私が指差す方を見た華井さんは、んん? と小首をかしげる。
そして、何故かキョロキョロと辺りを見回し始めた。
「どこの窓~?」
予想外の質問をされた私は酷く戸惑い、もう、ガッツリと指差した。
「いや、そこの、華井さんのすぐ前にある窓です」
「えっ?」
華井さんは驚いて振り返り、その人を見た。
確かに、視界に入っている筈なのに。
何も言わずに数秒間見つめたあと、私の方に振り返ると、とても不安げな表情をする。
「さっきから何言ってるの? 胡桃ちゃん。誰もいないよ~?」
――誰もいない?
いや、そんな筈は……。華井さんこそ、何を言っているのだろう。
心臓が早鐘を打ち、ごくり、と唾を飲んだ。一筋の汗が背中を伝っていく。
「だからあの、そこに……」
すると、私がずっと指差していた二年生の人がこちらを見る。
ばっちりと目が合ってしまったから、反射的に顔を背けた。
「胡桃ちゃん?」
「いえ、あの……すみません。何でもないです」
「えぇ~?」
何が起こっているのだろう? 分からないまま、軽快なチャイムが鳴り響き、みんなそれぞれの席に着き始める。一時間目の数学の先生が入って来たので、華井さんは不審そうにしつつも一旦前を向いてくれた。私も、とりあえず授業の準備をしようと鞄から教科書とノートを取り出す。
けど、すぐに言葉を失ってしまった。
まだ居たから。
二年生の人は私の席の横に来て、にっこりと柔らかく明るい笑みを浮かべる。
誰も、何も言わない。
そこにいないかのように、反応しない。
「俺のこと、見えてるよね? 見えてたら、頭を搔いて」
思わず口を半開きにし、ボーッと見つめてしまう。
もう、分かっているけど、分かりたくないような。でも、その答えを確かめるべく、私は言われた通りに頭を搔いた。
すると、二年生の人は更に頬を上げた。長い前髪越しに、少しだけ顔全体を見る。くりっとした目は垂れていて可愛らしく、実年齢よりも幼い印象を受けた。犬みたいだな、と思う。
「嬉しいよ。凄い久しぶりだから、俺のことが見える人に会ったの。……何年ぶりだろ」
指を四本折り、「あぁ、そうか。もうそんなに経ったのか」と呟く。
それから開いた右手を私の方に向け、さらりと言った。
「初めまして。五年前に死んだ、仙二桃弥です」
ドクンと心臓が大きく鳴り、脇汗が垂れていった。
よく見ると、仙二さんは少し透けていた。仙二さんの後ろにいる人が見える。顔はよく分からないけど、動いたら分かるくらいには……。絶対にあり得ない現象が目の前で起きている。
――本当に、幽霊なんだ。
いつの間に霊感なんか持っていたんだろう、と妙に冷静になる自分もいた。
あんぐりとして見つめていると、仙二さんが私の机の上を覗き込んでくる。
「これ、何て読むの?」
そう言って仙二さんが指差す先には、ノートの表紙に書いてある私の名前があった。
燦美野胡桃。
あぁ、よく聞かれる。確かにこの苗字は読みにくいから。
「アザミノです」
瞬間、教室がザワッとする。みんなが私のことを見ていた。いきなり大多数から視線を向けられ、上手く息が吸えなくなる。も、すぐに自分のしてしまったことを理解した。
そうか。仙二さんは、みんなに見えていないんだ。幽霊だから。
「燦美野、なんか言ったか?」
先生が真顔で聞いてくる。……いっつも薄笑いしているのに、珍しいな。って当たり前か。私は今、いきなり空虚を見つめて名乗った生徒となっているのだから。
「い、いえ。何でも、ないです」
先生は眉を顰め、けど、すぐに瞳に嘲りの色をたっぷりと含んで口角を上げると、黒板に振り返って授業を再開した。教室のどこからか、クスクスと小さな笑い声が聞こえてくる。やってしまった……完全に頭のおかしい人認定だ。まぁ、もとから印象は良くないだろうし……変わらない筈だ、うん。と、何度も自分に言い聞かせて慰める。それはそれで、どうかとも思うけど。
「ごめんね。迷惑かけて」
仙二さんは両手を合わせ、心底申し訳なさそうに表情を歪める。また、つい反応してしまいそうになった。寸分迷った末、ぺこり、と少しだけ頭を下げることにしておく。
「あとで、ゆっくりと話そうか。色々聞きたいこともあるだろうし」
授業中は邪魔したくないから、とだけ言い、仙二さんは、すーっとスライドするように私から離れていった。目で追いたくなる気持ちを抑え、 一度、大きく深呼吸をする。バックバックと鳴り続けていた心臓が少しは落ち着き、何とか授業に集中しようと教科書を開いた。
けど、頭の中はどうしても仙二さんのことで一杯になる。
聞きたいこと……。それは、山ほどある。どうして私だけに見えるのか、とか。どうして急に見えるようになったのか、とか。
どうして、仙二さんは――。
あれ、今どこのページをやっているんだっけ? 全く分からなくなってしまった。いつの間にか数十分も経っていたのに、先生の話なんて一切聞いていなかったのだ。先週の数学は二日連続で休んでしまっていたし、検討もつかない。
おろおろとして冷や汗をかいていると、先生がこちらを見る。
すぐに、どこか愉悦そうな声を出した。
「じゃあ燦美野、問三の答えは?」
まただ。また始まった、と思う。
私は静かに立ち上がり、そのまま押し黙ってしまう。
「なんだ、先週解いてくるように言ったのに、やっていないのか?」
教壇に両手をつき、こちらに向かって大きなため息を吐く。
……私が休んでいたのは、知っている癖に。
俯きながら唇の裏を強く噛みしめ、私は小さく言う。
「休んでました」
「じゃあ、今から解け。こんな簡単な問題すぐに出来るだろ」
教室の空気がピリッとする。
この先生は、ろくに解説していない応用問題をわざと数学の苦手な生徒に当て、怒るのが趣味なのだ。ひと月前までは違う人がターゲットだったのだけど、その人が休みがちになってからは私がよく当てられるようになった。
それからはもう同じパターンだ。
分かりませんと言ったら数十分は説教され、みんなの授業時間を奪っているんだぞ、と責められる。悔しさから勉強に励むも、やっぱり分からなくて、気軽に聞ける友達もいないし先生には会いたくないしで、私も次第に休むようになってしまった。今日も来たくなかったのだけど……テストで良い点は取れる気がしないし、出席点を稼ぐしかない、と考えると仕方がなかったのだ。
前に、休んだ次の日は当てられなかったからといって、油断してしまっていた。
あーあ。私って、本当に惨めで情けないな。
目頭にぷくりと涙が浮かんでくる。
こんなところ、来なければよかった。
今日もこれから説教されて責められる流れか、と諦めて突っ立っていた――その時、耳元でふわりと落ち着いた声がする。
「a≦0,a≦8、だよ」
隣を見ると、いつの間にか仙二さんが立っていた。
へへっと柔らかく笑い、「お詫び」と言って私の頭を撫でる。
「みんなのノート見たら大体そう書いてたから、合ってると思う」
何の、感触もないのに。
頭から胸の奥までじんわりと温かくなっていく。
すぐに指の腹で涙を拭い、睨むように顔を上げると、大きな声で解答した。
「a≦0,a≦8、です」
おお、とみんなの声が聞こえた気がした。先生は虚をつかれた顔をし、教壇についていた両手をパッと離す。それから「なっ、なんだやっていたのか。じゃあ早く言え。……ったく」と頭を掻きむしりながら黒板に向き、何事もなかったかのように授業を再開した。
空気が抜けたように肩が軽くなり、ぺたん、と腰を下ろす。
仙二さんに、助けて貰っちゃった。
今すぐお礼を言いたいけど、口にすることは出来ないから。また、みんなに気付かれない程度に頭を下げることにしよう。
そう思った途端、上から、ハッと冷笑する声が聞こえる。
「この先生まだいたんだ」
見上げると、無表情の仙二さんがいた。何もかも、全てを諦めたような。あまりに第一印象からかけ離れた様子に、思わず釘付けになってしまう。
長い前髪越しに見る仙二さんの目は、真っ暗な世界しか映っていないように濁っていた。
「ほんとに変わらないよね、人って。――まぁ、俺もそうなんだけど」
こちらを見て、にっこりと笑いかける犬みたいな顔に。
初めて親近感を抱いた。