桃弥がいなくなった翌日、お風呂上がりに部屋でドライヤーをしていると、鏡に映った自分とパチリと目が合う。
あぁ、私だ。なんて当たり前のことを思いながら、何となしに見つめ合っていた。
それから、もうこの世界から完全に消えてしまった彼のことを、彼が残していった言葉の数々を、そして最大の願いを、ただただ反芻していた。
――自分を否定するのはいいけど、それで生きた気にならないでください。
――どうか勇気を持って、自分のことを好きになってください。
考えれば考えるほど、胸が苦しくなっていった。
私には、到底出来そうもない、と思ってしまうから。もちろん、私は桃弥と出会う前よりも、確実に自分のことが好きになった。だけど、まだ足りないんじゃないだろうか? そもそも、自分を丸ごと肯定するだなんて、私にとっては雲を掴むよりも難しいことだ。
もう、背中を押してくれる桃弥はいない。だけどこうして、何時でも思い出すことが出来る。だから大丈夫。そう、信じ切っていたのに――。
私は、いつまでも霧のなかを必死に掻き分け、光を探し彷徨っているようだった。
溜息を吐き、ドライヤーの電源を落とすと、部屋に静寂が訪れた。集中して鏡のなかの自分と向き合って前髪を整えていると、コンコン、と扉を叩く音がする。お父さんだ。
「これ、さっき届いたんだが……胡桃のか?」
私宛ての荷物……? 不思議に思いつつ近づいて見ると、それは、赤いリボンでラッピングされた小さくて平らなダンボール箱だった。お洒落なロゴがデザインされているのを見て、すぐに思い当る。
ついこの前、桃弥とショッピングモールに行ったときに選んで貰った財布だ。
「わっ、あ、そうです! ありがとうございます!」
慌てて受け取り、扉を閉めてしまった。
――恥ずかしい。
中には、自分で〝Dear:燦美野胡桃 From:仙二桃弥〟と書いた、宛名が入っているだろうから……。
おかしな態度を取ってしまったかな……と思ったけど、お父さんは「そうか、良かった」とだけ言って階段を下りていった。私は、ほっと胸を撫で下ろす。
包装を開けると、一番上に自分の書いた宛名が入っていて、その下から財布が出てきた。くすんだピンク色の、大人っぽい長財布だ。
確かに、あの日、桃弥に選んで貰ったものだ。
間違いない。
けれど私は――それを見て、複雑な気持ちになってしまった。
仙二桃弥という、自分の筆跡で書かれた送り主。私の周りにいる人は、誰も知らない、見ることすら敵わなかった存在。私が思い出すことでしか――。
桃弥は、本当に居たんだよね?
ハァーっと深く長い溜息を吐き、染みのついた天井を見上げる。
私、すごく脆くて面倒臭い女だな。
あれだけ、桃弥は私のなかにいて、消えないって言ったのに……。ちょっと時間が経てば、信じられないくらいの不安に押しつぶされそうになる。胸のなかに、大きなブラックホールが出来たみたいだ。自分で作り出したのに、飲み込まれないようにするので精一杯だ。
分かっている。
桃弥は、私の妄想なんかじゃない。確かにこの世に存在していた人だ。
けど――隣に居たという、証拠はない。
「あぁああっ、駄目だぁ……」
低い唸り声を上げ、ベッドにダイブする。
なんでこんなに弱い人間なんだろう、とつい嫌になってしまう。
いなくなって寂しいのは分かるけど、しっかりと前を向かなきゃ。
そう、自分に言い聞かせる。
「…………」
ふと、考えてみた。
もしも、桃弥が生きていた人だったら。
私はどうしていただろう。
写真を見返したりして、思い出に浸ったりしたのかな。
好き合った人が、突然、いなくなってしまったら。
人はどうやって前に進んでいくんだろう?
暫くして、あっ、と私は身体を起こした。
お父さんに聞いてみよう。
リビングに入ると、お父さんはうどんを茹でているところだった。こちらに気が付くと、「胡桃も食べるか?」と聞いてくる。私は、はい、と頷いておいた。
ふたり向き合って座り、ネギが少しだけ入った熱々のうどんを啜る。
因みに、昨日は一緒にスーパーの弁当を食べていた。これからは自炊するようにしよう、と二人で話していた。カレーとか肉じゃがくらいなら作れるから、と。それから、敬語はやめてくれ、と言われたけど、癖だから気にしないで欲しい、徐々になおしていく、と言って、納得して貰った。
話し出すタイミングを窺う。
いきなり、お母さんが亡くなった時のことを聞くのもなぁ……と渋っていた。すると、お父さんはそんな私をチラッと見て、話しかけてくれる。
「最近、学校はどうだ?」
何気なく聞いているようで、その声にはどこか不安が混じっているように感じた。
だから私は、微笑んで答える。
「楽しいですよ」
「そうか」
ほっと息をつくように言い、勢いよくうどんを啜るお父さん。
暫く沈黙が続いたから、もう少し付け足すことにした。
「前までは、辛いこともありましたけど……今は、凄く大事な友達がいるんです」
ほぉ、とお父さんは声を出し、どんな子なんだ? と聞いてくる。私は、華井さんの顔を浮かべ、思いやりがあって可愛い人です、と言った。お父さんは、嬉しそうに頷いていた。
それから、深く息を吐き出し、どこか遠くを見つめながら言う。
「人生は、辛いことの方が多いからなぁ。……父さんの場合だけど」
お母さんのことを言っているのかな、と思った。
「……辛いことがあったときは、どうしてますか?」
聞くと、お父さんは微笑む。
「ある言葉を思い出すんだ」
「言葉?」
「そう。かの有名な哲学者、ニーチェの名言だ」
目を伏せ、すらすらと言い始める。
「『生きることは苦しむことであり、くじけずに生き残ることは、その苦しみに何らかの意味を見いだすことである』ってな」
それから、私の顔を見る。
「この言葉を聞いただけで、抱えている問題が全て解決した訳ではないんだが……一瞬でも、確かに心が軽くなったんだ。とりあえず、偉人の言うことを正解にしといてやろう、って頑張ってみたよ」
晴れやかに言うから、私の口元も緩んだ。
「それで、意味というのは見つかったんですか?」
お父さんは、私の目を真っ直ぐに見て言う。
「こうして胡桃と話せていることが、その答えだよ」
少しだけ黙って見つめ合い、どちらからともなく息を漏らし、笑った。
身体がぽかぽかと温かくなり、どこか冷静に今の状況を見ている自分がいて、凄いな、良かったな、と泣きそうになる。
食器を洗い場に持っていったところで、私はようやく聞くことが出来た。
「お母さんと話したいなって思う時は……どうしてますか?」
お父さんは、一瞬戸惑った顔をしたけど、すぐに答えてくれた。
「昔の写真を見返したり、お墓参りに行く、かな」
……そうか。
お墓参り。
桃弥も、生きていたんだから、どこかにある筈だ。
私は、布団にくるまって考える。
行きたい、と思った。桃弥のところへ、話しに行きたい。
それに。
桃弥のお墓を見たら、確かにこの世に生きていたんだ、と安心出来るような気がした。
けど……と思う。
そんな自己中心的な理由で、行っても良いのだろうか。生前、知り合いでもなかった私が……。桃弥がそんなことを望んでいるかは分からないし、何処にあるかも分からない。そもそも作られていない、という可能性もある。
固く目を閉じても、なかなか寝つけなかった。
私はどうするべきなんだろう。
寝不足のまま、学校に行くことになってしまった。教室に入ると、「あっ元貞子だ!」と陽気な男子達に弄られる。「はい。燦美野です」とだけ返事すると、何故か楽しそうにみんなで笑い合っていた。
がやがやとしている教室のなかを、真っ直ぐ前を見て歩く。
自分の席に近づくと、隣に座っている華井さんと目が合った。席替えしたけど、奇跡的にまた近くになったのだ。
「おはようございます、華井さん」
「おはよ~、くるみん」
華井さんは、笑顔で手をひらひらと振ってくれる。
「くるみん、やっぱめっちゃ可愛いよぉ。前髪切って正解!」
「あ、ありがとう、ございます」
私も振り返そうかと思ったけど何もせず、席に着こうとした。
その時、華井さんが明るい声を上げる。
「わぁ! その財布めっちゃ可愛い~!」
私の腰辺りを指差し、目を輝かせていた。
スカートのポケットから、桃弥に選んで貰った財布がはみ出していたのだ。……今朝、家を出る時はちゃんとしまえていたのに。肌身離さず持っておきたいけど、今度からは鞄に入れるようにしよう。落としてしまったら最悪だ。
「どこで買ったの~?」
「ええ、っと……」
私は財布を手に持ち、戸惑ってしまう。店のロゴマークがお洒落にデザインされていて、なんと読めばいいのか分からない。
そのうち、華井さんが立ち上がって財布を覗き込む。
「pioni-じゃん~! それっぽいな、って思ってたんだぁ。この店めっちゃ可愛いの売ってるよねぇ。私けっこう行くよぉ。くるみんもそうだったりするの~?」
「あ……えっと」
嘘は、吐きたくないな、と思った。
だから、正直に言うことにした。
「実は、これ……好きな人から貰ったんです」
「ええぇ~!?」
華井さんは大きな目を丸くし、誰だれぇ? と顔を近づけて何度も聞いてきた。私は、「お、幼なじみです……」と目を逸らして言った。嘘を吐いてしまった。まさか、幽霊だなんて言えないし。
……好きな人から、は余計だったな。とすぐに思い直す。
女の子がする普通の恋愛話に、憧れていたのかも知れない。
「へぇ~めっちゃ良いじゃん~! 詳しく聞かせてよぉ。……あっ、そうだ!」
華井さんは、やたら頬を上げ、スマホを弄り出す。
それから、きゃーっ、とひとりで甲高い声を上げた。
「見てみてぇ、これ~」こちらにスマホ画面を向ける。「財布のプレゼントの意味だよぉ」
――いつも貴方のそばに居たい。
シンプルに書かれた一文を見て、私はボッと火照る。
……偶然、だよね。桃弥は、知らなかったと思う。知ってたら、かなり面倒な人だから。あれだけ、俺のことは忘れてって散々言ってたんだもん。
ふふっ、と声を出して笑ってしまう。
やっぱり、少しだけでも話しに行きたいなぁ。
それから、華井さんに聞かれるがまま、桃弥の話をしていた。写真は見せられなかったけど、華井さんは私の話を聞くだけで楽しそうにしてくれていた。
そのうち、話題が切り替わる。
「もうすぐ夏休みだね~」
どこに遊びに行く? と盛り上がっていると、授業開始のチャイムが鳴った。
私は、ずっと上の空で先生の話を聞いていた。
……桃弥のことなら、この学校に、五年、いや六年以上務めている先生に聞けば、何か分かるかも知れない。 どこに住んでいたとかが分かれば、その近くの墓地に行けばいい。六年前に半年程しか通っていない生徒だから、先生が覚えているかは分からないけど……。
それでも、曖昧な情報でも良いから、何か欲しい。
よし。と、ひとりで拳を固く握り締める。
夏休みになる前に、聞き回らないと。
休み時間をぜんぶ費やして、校内を歩き回った。
知らない先生でも、ベテランっぽかったらとりあえず話しかけた。
けど、誰も、桃弥の名前にピンとくる人はいなかった。
とぼとぼと、静かな廊下を一人で歩く。
昼休み、華井さんと一緒に食べるのを断ってまで探しているのに……。
重い溜息を吐き、俯いてしまう。
すると、何やら鋭い視線を感じた。
前を見ると、少し先に狩南さんが立っていた。
「ねぇ」
こちらを睨みながら、ずんずんと近付いてくる。
「は、はい……」
前髪なしで見る狩南さんは、より迫力がある。けど、私はなんとか目を逸らさずに耐えた。
「一人で食べるのに、良い場所知らない?」
そう言って、私の顔の前に、片手で弁当箱を提げて見せる。
「一人で、ですか」
「そう」
私は少し迷ってから答える。
「教室じゃ、駄目なんですか?」
「……もういいわ」
狩南さんは、冷めた声で呟き、通り過ぎて行った。
その背中を見て、思い出す。
一昨日。私と華井さんが仲直りした日の放課後、狩南さんは、教室で友達に問い詰められていた。「狩南、西田に告って振られたから華井に嫌がらせしてたってホント?」「てか何で貞子まで巻き込んでたの?」面白がって聞く友達に、狩南さんは、冷たく言い放った。
「もういいわ。なんか、あんたらと居てもつまんないし」
素っ気ない態度で帰っていくと、すぐに狩南さんの悪口大会が始まっていた。
どうして、あんなことを言ったんだろう?
疑問に思いつつも、まぁ私が気にすることでもないか、と歩き出そうとした瞬間、狩南さんが足を止める。
「……あんたってさ、ほんと雑草みたいよね」
「へ?」
よく分からないことを言われ、呆けた声を出してしまう。
狩南さんは、ゆっくりとこちらを振り返った。
「踏みつけても踏みつけても、萎れないから。……つい最近まで、そこら辺の地面にも生えてなかった癖にさ。急に、分厚いコンクリートから顔出してきて……本当に、ウザイ」
最後の方は、何だか弱々しい声になっていた。
……。雑草、か。
私は、少し間を空けてから、静かに口を開く。
「けっこう、萎れてましたよ」
狩南さんの目を真っ直ぐに見る。
「分厚いコンクリートから、顔を出せたのも……萎れて、萎れて、それでも上を向いて生えることが出来たのも、全部――心から大切な人が、いたからです」
桃弥の笑顔を思い出し、頬が上がった。
「その人がいなかったら、私は……一生、陽の光を浴びることはなかったと、自信持って言えます」
狩南さんは、怪訝そうに眉を顰めた。
「え、何。うちのクラスの人?」
「いや……あの、お、幼なじみ、です」
「幼なじみ?」
「は、はい……」
他に何か聞かれるかと思ったけど、狩南さんは「ふうん」とだけ言い、目を逸らした。
それから、大きく長い溜息を吐く。
「……私、華井だけじゃなくて、あんたにも恋愛で負けてるのね」
低い声で呟き、自嘲した。
「いや、友情も負けてるか」
俯き加減の姿勢になる狩南さん。
凄く、萎れている……。
何だか、西田くんに振られた時以上に落ち込んでいるように見えた。
「良かったら、話聞きますけど」
「うるさいのよ」
「あ、はい。すみません……」
強い口調に気圧され、つい謝ってしまった。
もう、話は終わったのかな……。去って行こうとした時、また、狩南さんに呼び止められる。
「ねぇ」
狩南さんは、こちらを見ようとしなかった。
「どうしたら……あんた達みたいになれる?」
私は、数秒間も固まってしまった。
「……私達……?」
聞き返すと、キッと睨みつけられる。けど、全然、怖くなかった。
「もういいわ」
吐き捨てるように言い、狩南さんは今度こそ去って行く。
どういう、意味だろう……?
歩き出し、考えてみる。
華井さんじゃなくて、華井さんと私みたいになりたい……?
思わず唸る。
やがて、ピンときた。
狩南さんは……もしかして、誰かの特別になりたかったんじゃないだろうか。
人なんて結局みんな表面的なところしか見てないし、ちょっとした切っ掛けで離れていくもの。以前、そう言い切っていた。
けど、本当は、ただ諦めているだけで。
好きな人が華井さんを見ているのも、華井さんについての嘘の噂に惑わされない私も、私の為に一緒に苛められる、とまで言った華井さんも、その関係が全部――理想的だった。
「どうしたらなれる、か……」
暫く考えてみるけど、なかなか答えは見つからなかった。
色々と思い悩んでいるのは私だけじゃないんだなぁ、と変に安心してしまう。
そのうち、私はまた桃弥について考え始めていた。
放課後。華井さんに一緒に帰ろうと言われたのも断って、数学の先生を探し回っていた。桃弥は数学の先生を知っているみたいだったから、先生も覚えているといいんだけど……。
夏休みまでに数学の授業はもうない。休み時間に、何回か職員室や数学科の教室に行ったけど、運悪くすれ違いになって会えなかった。
もう一度職員室に行ってから居ないのを確認し、数学科の教室に向かう。
すると、私の探していた先生は、ちょうど教室に入るところだった。
「あの、先生……っ」
日当たりの悪い廊下に、私の足音だけが響く。
「なんだ。質問があるなら授業中にしろって言ってるだろ」
「いや、違うんです」
先生は、無言でこちらを見つめていた。心底面倒くさそうな顔をしている。やっぱり、この先生は苦手だな……と思いつつ、私はゆっくりと口を開いた。
「仙二桃弥という生徒を、知っていますか?」
聞くと、先生は目を大きく丸くし、身体を固めた。
「仙二って……」
「五、六年前にこの学校にいた人です」
先生はあからさまに気まずそうな顔をした。
あぁ、良かった。この人は覚えているんだ。
「大丈夫です。亡くなっているのも、知っています」
言うと、先生は思いっきり眉間に皺を寄せる。何が聞きたいんだ、と顔に書いてあった。
私は、深く頭を下げる。
「お願いします……っ、どこに住んでいたとか、うろ覚えでもいいので、教えて欲しいんです」
先生の後ずさる足音がした。
「どうして、そんなことを……」咳払いをし、「悪いが、何も知らん」ピシャリ、と扉を閉められてしまう。呼び止める暇もなかった。
途方に暮れ、その場に立ち尽くす。
もう、諦めた方がいいのかな。
そう思い、踵を返した途端、私は足を止めた。
狩南さんが、立っていたから。
「もう亡くなっているって、どういうこと?」
狩南さんは、腕を組み、静かにこちらを見つめていた。
「……どうして、ここに……」
「別に。ホームルーム終わったあと一人で教室出てったから、ちょっと、話でも聞いてもらおうかと思っただけよ」
それで、ついてきていたの……? もっと早く声を掛けてくれれば良かったのに。
「凄い必死になって誰か探してるようだったからさ、邪魔しちゃ悪いってタイミング窺ってたのよ。盗み聞きする気なんてなかったからね」
狩南さんが私に気を遣っていたんだ、という衝撃的な事実に呆然としていると、「それより」と強い口調で睨まれる。
「せんじももや? って人、あんたが言ってた、心から大切な人のことよね?」
「…………そう、ですけど」
「最近会った人じゃないの? あんたが変わったのって、最近でしょ?」
俯き、胃の辺りを手で押さえる。
どうしよう。こんなの、どう、説明したらいいの……? 幽霊だなんて、言っても……。
眉を顰めて考えていると、バタバタバタ、と勢いよく走る音がこちらに近付いてくる。
「ちょっと~~!!!」
顔を上げて見ると、華井さんが、凄い形相で鞄を掲げて来ていた。
「なに苛めてんのよぉ!! ほら、シッシぃ!!」
私の前に立ち、狩南さんの方に鞄をブンブンと縦に振る華井さん。
狩南さんは後退りながらも、思い切りガンを飛ばしていた。
「は? 何。苛めてないんだけど」
「嘘吐くなぁ~!! くるみん困ってるじゃん~!!」
華井さんは、ぎゅうっと私を横から抱き締める。少し、手が震えていた。
「あの、華井さん……どうして」
「くるみん、今日は何だか休み時間とか昼休みもどっかに行ってたしぃ、放課後も一人で帰るっていうから、心配して来てみたのよ~。そしたらこれよ! もぉ!!」
ぷくぅ、と頬を膨らませ、狩南さんを睨みつける華井さん。けど、上目遣いをしているようにしか見えなくて、全然怖くなかった。
「いや、今は、苛められてないです……」
「ええっ。本当~?」
「今は、って言うの止めてくんない? もう苛めてないし」
「……あ、そうですね。すみません」
目を逸らし、謝ってしまう。
「んん~? じゃあ何でぇ、二人一緒にいたの?」
華井さんは私と狩南さんを交互に見る。
私は、口を噤んでしまった。狩南さんも、何も言わなかった。その様子を見て、華井さんは余計に困った表情になっていく。
……もう、正直に言ってしまった方がいいかな。華井さんにも、心配させてしまったし……。
私は、重い口を開いた。
「実は……」
大まかに、事の経緯を話した。
幽霊、という単語を出すと、二人ともあからさまに動揺していた。
それはそうだ。変な人だ、って思われても仕方がない。けど、話し出すと、止まらなくて。桃弥がいなくなったところまで話した時には、涙が一筋流れていた。
華井さんは、ゆっくりと背中を摩ってくれていた。
胸のなかに立ち込めていた霧が、一気に晴れていくようだった。
本当は、こうして、誰かに打ち明けたかったのかも知れない。
どうしようもない人だと思う。
話し終えると、二人とも、暫く何も言わなかった。
時間が止まったように、しんとしていた。
「……困りますよね。いきなり、こんな話されても……」
言うと、華井さんは更に私を抱き締める力を強くした。華井さんは俯いていて、表情はよく見えない。けど、身体の芯から温まっていって、華井さんの思いが伝わってくるようだった。
「私はぜんぶ信じるよぉ、友達だもん」
目頭が、熱くなる。
「……信じて、くれるんですか?」
「うん! 今朝、桃弥くんのことを話していた時もぉ、すっごい楽しそうだったもん。私も好きな人いるからぁ、なんとなく嘘じゃないって分かるよ~」
「華井さん……」
すると、狩南さんが短く言った。
「私も信じるけど」
私と華井さんは、同時に狩南さんを見る。
信じられないくらい、柔らかい表情をしていた。
「あんたは、私と違って嘘吐かないでしょ」
こうして、三人で桃弥のお墓を探すことになった。
華井さんと狩南さんは、早速スマホで知り合いの上級生に連絡を取ってくれる。その上級生の先輩に桃弥のことを知っているか聞いて貰う、というやり方で情報収集をすることにしたのだ。
「ん~でもこれだと時間かかっちゃうねぇ」
華井さんが、スマホで文字を打ちながら溜息を吐く。
「いや、全然、大丈夫です! ありがとうございます」
頭を下げていると、少し離れたところで電話している狩南さんが戻って来た。
「てか、思ったんだけどさ。うちらで探しに行けば良くない?」
「えっ……」
「探すってぇ?」
「この辺りの墓地に片っ端から行けば、見つかるでしょ。うちの高校の近くに住んでいた可能性の方が高いし。なかったらまぁ、そん時で」
私は慌てて両手を顔の前で振った。
「いやいや、そこまでして貰うのは流石に……」
「何。じゃあ、諦めんの?」
思わず口を噤んでしまう。すると、ぷっ、と華井さんが吹き出した。
「どうしたのぉ、狩南。キャラ変~?」
おちょくるように言う華井さんに、狩南さんは深く眉間に皺を寄せると、目を逸らす。
「別に……」
それから、蚊の鳴くような声で言った。
「悪かったわよ。今まで」
私と華井さんは、目を合わせる。
あはははっ、と同時に声が上がった。
「人って変わるもんねぇ~」
そして、夏休みが始まる。
私達は、毎日のように青空の下を自転車を漕いで探し回った。私は自転車を持っていなかったから、華井さんと狩南さんの後ろに交互に乗せてもらっていた。罪悪感はあったけど、そのうち、楽しさが上回った。
眩し過ぎるくらいの太陽の光が、いつでも私達を照らしていた。
何度も何度も、同じ道を行ったり来たりする。
坂道を上り、下って砂利道を進み、いつの間にか道が逸れていて、引き返す。目的地に着いても、探していたものはない。そんなことを繰り返していた。
そのうち、自転車の荷台に乗せてもらうばかりでは申し訳ないと、走って着いていく。
けど、足元に転がっていた石で派手に転んでしまい、膝が擦りむけてしまう。本当に情けなくなるも、華井さんの手を取って立ち上がり、近くの公園に行って水道で洗ってから、狩南さんに貰った絆創膏を傷口に当てる。すぐに血が滲んできていた。
もう諦めようかという雰囲気が漂う。
三人の汗が、地面を濡らしていた。
私が止めようと言えばそれでいいような気がした。
けれど、その時。私は桃弥の言葉を思い出していた。縋るように、彼の柔らかな笑顔を、声色を、脳内で再現していた。
――胡桃は、ちょっと勇気を出せば何でも出来るんだから。
――俺の人生全部、胡桃に出逢えたことで救われたよ。胡桃は、神様からの最高のプレゼントだね。
すると、ふっ、と全身が軽くなり、負の感情が見事に吹き飛んでいく。
身体の底から、無限に力が湧いてくるようだった。
思わず笑みを零す。
私は、この先、ずっとこうして生きていくんだと思った。
どんなに打ちのめされても、限界が訪れても、桃弥の言葉を思い出し、前を向く。そうして何とか一歩を踏み出して、生きていくのだと。
頭を下げてまだ探したいと言うと、二人とも笑って背中や肩を叩いてくれた。
数日後、狩南さんが連絡を取ってくれた先輩から折り返しがきて、桃弥のお葬式に出たことのある人が見つかったとのことだった。その人は、直後にお墓参りに行ったことがあって、大体の場所を聞くことが出来た。
そしてついに――
「あった!!!!」
桃弥のお墓を、見つけた。
仙二桃弥、と名前がしっかりと刻まれていた。
他のお墓と比べると一回り小さく、誰も手入れしていないようだった。雑草が好き放題生えていて、泥がこびりついている。酷い有様だった。
私達はすぐ近くにあった大型スーパーに行き、バケツや雑巾などの掃除道具、ロウソク、ライター、花を割り勘して買った。
みんなでお墓を綺麗にし、ロウソクを立てる。
相変わらず、太陽が燦々と降り注いでいた。
私は、沢山の向日葵を花瓶に差す。
これが、あなたに一番似合う花だと思ったんだ。
華井さんと狩南さんは、待ってるから、と少し離れたところに行き、私を一人にしてくれた。
光を反射して輝くお墓の前に座り、静かに手を合わせる。
桃弥。
私、今、凄く幸せだよ。
あなたに貰った温かさを、一生忘れません。
今、私の周りには、私を思ってくれる人達が確かにいます。
その人達がずっと笑顔でいれるよう、精一杯、胸を張って生きていきます。
あなたに貰った勇気で、それだけは、諦めません。
ふっ、と頬を緩め、仙二桃弥、と刻まれた名前を見る。
汗ばんだ両手で、前髪をかき上げた。
「愛してます」
それだけ言うと、私は、笑顔で待ってくれている二人の元へ駆け寄っていった。
了
あぁ、私だ。なんて当たり前のことを思いながら、何となしに見つめ合っていた。
それから、もうこの世界から完全に消えてしまった彼のことを、彼が残していった言葉の数々を、そして最大の願いを、ただただ反芻していた。
――自分を否定するのはいいけど、それで生きた気にならないでください。
――どうか勇気を持って、自分のことを好きになってください。
考えれば考えるほど、胸が苦しくなっていった。
私には、到底出来そうもない、と思ってしまうから。もちろん、私は桃弥と出会う前よりも、確実に自分のことが好きになった。だけど、まだ足りないんじゃないだろうか? そもそも、自分を丸ごと肯定するだなんて、私にとっては雲を掴むよりも難しいことだ。
もう、背中を押してくれる桃弥はいない。だけどこうして、何時でも思い出すことが出来る。だから大丈夫。そう、信じ切っていたのに――。
私は、いつまでも霧のなかを必死に掻き分け、光を探し彷徨っているようだった。
溜息を吐き、ドライヤーの電源を落とすと、部屋に静寂が訪れた。集中して鏡のなかの自分と向き合って前髪を整えていると、コンコン、と扉を叩く音がする。お父さんだ。
「これ、さっき届いたんだが……胡桃のか?」
私宛ての荷物……? 不思議に思いつつ近づいて見ると、それは、赤いリボンでラッピングされた小さくて平らなダンボール箱だった。お洒落なロゴがデザインされているのを見て、すぐに思い当る。
ついこの前、桃弥とショッピングモールに行ったときに選んで貰った財布だ。
「わっ、あ、そうです! ありがとうございます!」
慌てて受け取り、扉を閉めてしまった。
――恥ずかしい。
中には、自分で〝Dear:燦美野胡桃 From:仙二桃弥〟と書いた、宛名が入っているだろうから……。
おかしな態度を取ってしまったかな……と思ったけど、お父さんは「そうか、良かった」とだけ言って階段を下りていった。私は、ほっと胸を撫で下ろす。
包装を開けると、一番上に自分の書いた宛名が入っていて、その下から財布が出てきた。くすんだピンク色の、大人っぽい長財布だ。
確かに、あの日、桃弥に選んで貰ったものだ。
間違いない。
けれど私は――それを見て、複雑な気持ちになってしまった。
仙二桃弥という、自分の筆跡で書かれた送り主。私の周りにいる人は、誰も知らない、見ることすら敵わなかった存在。私が思い出すことでしか――。
桃弥は、本当に居たんだよね?
ハァーっと深く長い溜息を吐き、染みのついた天井を見上げる。
私、すごく脆くて面倒臭い女だな。
あれだけ、桃弥は私のなかにいて、消えないって言ったのに……。ちょっと時間が経てば、信じられないくらいの不安に押しつぶされそうになる。胸のなかに、大きなブラックホールが出来たみたいだ。自分で作り出したのに、飲み込まれないようにするので精一杯だ。
分かっている。
桃弥は、私の妄想なんかじゃない。確かにこの世に存在していた人だ。
けど――隣に居たという、証拠はない。
「あぁああっ、駄目だぁ……」
低い唸り声を上げ、ベッドにダイブする。
なんでこんなに弱い人間なんだろう、とつい嫌になってしまう。
いなくなって寂しいのは分かるけど、しっかりと前を向かなきゃ。
そう、自分に言い聞かせる。
「…………」
ふと、考えてみた。
もしも、桃弥が生きていた人だったら。
私はどうしていただろう。
写真を見返したりして、思い出に浸ったりしたのかな。
好き合った人が、突然、いなくなってしまったら。
人はどうやって前に進んでいくんだろう?
暫くして、あっ、と私は身体を起こした。
お父さんに聞いてみよう。
リビングに入ると、お父さんはうどんを茹でているところだった。こちらに気が付くと、「胡桃も食べるか?」と聞いてくる。私は、はい、と頷いておいた。
ふたり向き合って座り、ネギが少しだけ入った熱々のうどんを啜る。
因みに、昨日は一緒にスーパーの弁当を食べていた。これからは自炊するようにしよう、と二人で話していた。カレーとか肉じゃがくらいなら作れるから、と。それから、敬語はやめてくれ、と言われたけど、癖だから気にしないで欲しい、徐々になおしていく、と言って、納得して貰った。
話し出すタイミングを窺う。
いきなり、お母さんが亡くなった時のことを聞くのもなぁ……と渋っていた。すると、お父さんはそんな私をチラッと見て、話しかけてくれる。
「最近、学校はどうだ?」
何気なく聞いているようで、その声にはどこか不安が混じっているように感じた。
だから私は、微笑んで答える。
「楽しいですよ」
「そうか」
ほっと息をつくように言い、勢いよくうどんを啜るお父さん。
暫く沈黙が続いたから、もう少し付け足すことにした。
「前までは、辛いこともありましたけど……今は、凄く大事な友達がいるんです」
ほぉ、とお父さんは声を出し、どんな子なんだ? と聞いてくる。私は、華井さんの顔を浮かべ、思いやりがあって可愛い人です、と言った。お父さんは、嬉しそうに頷いていた。
それから、深く息を吐き出し、どこか遠くを見つめながら言う。
「人生は、辛いことの方が多いからなぁ。……父さんの場合だけど」
お母さんのことを言っているのかな、と思った。
「……辛いことがあったときは、どうしてますか?」
聞くと、お父さんは微笑む。
「ある言葉を思い出すんだ」
「言葉?」
「そう。かの有名な哲学者、ニーチェの名言だ」
目を伏せ、すらすらと言い始める。
「『生きることは苦しむことであり、くじけずに生き残ることは、その苦しみに何らかの意味を見いだすことである』ってな」
それから、私の顔を見る。
「この言葉を聞いただけで、抱えている問題が全て解決した訳ではないんだが……一瞬でも、確かに心が軽くなったんだ。とりあえず、偉人の言うことを正解にしといてやろう、って頑張ってみたよ」
晴れやかに言うから、私の口元も緩んだ。
「それで、意味というのは見つかったんですか?」
お父さんは、私の目を真っ直ぐに見て言う。
「こうして胡桃と話せていることが、その答えだよ」
少しだけ黙って見つめ合い、どちらからともなく息を漏らし、笑った。
身体がぽかぽかと温かくなり、どこか冷静に今の状況を見ている自分がいて、凄いな、良かったな、と泣きそうになる。
食器を洗い場に持っていったところで、私はようやく聞くことが出来た。
「お母さんと話したいなって思う時は……どうしてますか?」
お父さんは、一瞬戸惑った顔をしたけど、すぐに答えてくれた。
「昔の写真を見返したり、お墓参りに行く、かな」
……そうか。
お墓参り。
桃弥も、生きていたんだから、どこかにある筈だ。
私は、布団にくるまって考える。
行きたい、と思った。桃弥のところへ、話しに行きたい。
それに。
桃弥のお墓を見たら、確かにこの世に生きていたんだ、と安心出来るような気がした。
けど……と思う。
そんな自己中心的な理由で、行っても良いのだろうか。生前、知り合いでもなかった私が……。桃弥がそんなことを望んでいるかは分からないし、何処にあるかも分からない。そもそも作られていない、という可能性もある。
固く目を閉じても、なかなか寝つけなかった。
私はどうするべきなんだろう。
寝不足のまま、学校に行くことになってしまった。教室に入ると、「あっ元貞子だ!」と陽気な男子達に弄られる。「はい。燦美野です」とだけ返事すると、何故か楽しそうにみんなで笑い合っていた。
がやがやとしている教室のなかを、真っ直ぐ前を見て歩く。
自分の席に近づくと、隣に座っている華井さんと目が合った。席替えしたけど、奇跡的にまた近くになったのだ。
「おはようございます、華井さん」
「おはよ~、くるみん」
華井さんは、笑顔で手をひらひらと振ってくれる。
「くるみん、やっぱめっちゃ可愛いよぉ。前髪切って正解!」
「あ、ありがとう、ございます」
私も振り返そうかと思ったけど何もせず、席に着こうとした。
その時、華井さんが明るい声を上げる。
「わぁ! その財布めっちゃ可愛い~!」
私の腰辺りを指差し、目を輝かせていた。
スカートのポケットから、桃弥に選んで貰った財布がはみ出していたのだ。……今朝、家を出る時はちゃんとしまえていたのに。肌身離さず持っておきたいけど、今度からは鞄に入れるようにしよう。落としてしまったら最悪だ。
「どこで買ったの~?」
「ええ、っと……」
私は財布を手に持ち、戸惑ってしまう。店のロゴマークがお洒落にデザインされていて、なんと読めばいいのか分からない。
そのうち、華井さんが立ち上がって財布を覗き込む。
「pioni-じゃん~! それっぽいな、って思ってたんだぁ。この店めっちゃ可愛いの売ってるよねぇ。私けっこう行くよぉ。くるみんもそうだったりするの~?」
「あ……えっと」
嘘は、吐きたくないな、と思った。
だから、正直に言うことにした。
「実は、これ……好きな人から貰ったんです」
「ええぇ~!?」
華井さんは大きな目を丸くし、誰だれぇ? と顔を近づけて何度も聞いてきた。私は、「お、幼なじみです……」と目を逸らして言った。嘘を吐いてしまった。まさか、幽霊だなんて言えないし。
……好きな人から、は余計だったな。とすぐに思い直す。
女の子がする普通の恋愛話に、憧れていたのかも知れない。
「へぇ~めっちゃ良いじゃん~! 詳しく聞かせてよぉ。……あっ、そうだ!」
華井さんは、やたら頬を上げ、スマホを弄り出す。
それから、きゃーっ、とひとりで甲高い声を上げた。
「見てみてぇ、これ~」こちらにスマホ画面を向ける。「財布のプレゼントの意味だよぉ」
――いつも貴方のそばに居たい。
シンプルに書かれた一文を見て、私はボッと火照る。
……偶然、だよね。桃弥は、知らなかったと思う。知ってたら、かなり面倒な人だから。あれだけ、俺のことは忘れてって散々言ってたんだもん。
ふふっ、と声を出して笑ってしまう。
やっぱり、少しだけでも話しに行きたいなぁ。
それから、華井さんに聞かれるがまま、桃弥の話をしていた。写真は見せられなかったけど、華井さんは私の話を聞くだけで楽しそうにしてくれていた。
そのうち、話題が切り替わる。
「もうすぐ夏休みだね~」
どこに遊びに行く? と盛り上がっていると、授業開始のチャイムが鳴った。
私は、ずっと上の空で先生の話を聞いていた。
……桃弥のことなら、この学校に、五年、いや六年以上務めている先生に聞けば、何か分かるかも知れない。 どこに住んでいたとかが分かれば、その近くの墓地に行けばいい。六年前に半年程しか通っていない生徒だから、先生が覚えているかは分からないけど……。
それでも、曖昧な情報でも良いから、何か欲しい。
よし。と、ひとりで拳を固く握り締める。
夏休みになる前に、聞き回らないと。
休み時間をぜんぶ費やして、校内を歩き回った。
知らない先生でも、ベテランっぽかったらとりあえず話しかけた。
けど、誰も、桃弥の名前にピンとくる人はいなかった。
とぼとぼと、静かな廊下を一人で歩く。
昼休み、華井さんと一緒に食べるのを断ってまで探しているのに……。
重い溜息を吐き、俯いてしまう。
すると、何やら鋭い視線を感じた。
前を見ると、少し先に狩南さんが立っていた。
「ねぇ」
こちらを睨みながら、ずんずんと近付いてくる。
「は、はい……」
前髪なしで見る狩南さんは、より迫力がある。けど、私はなんとか目を逸らさずに耐えた。
「一人で食べるのに、良い場所知らない?」
そう言って、私の顔の前に、片手で弁当箱を提げて見せる。
「一人で、ですか」
「そう」
私は少し迷ってから答える。
「教室じゃ、駄目なんですか?」
「……もういいわ」
狩南さんは、冷めた声で呟き、通り過ぎて行った。
その背中を見て、思い出す。
一昨日。私と華井さんが仲直りした日の放課後、狩南さんは、教室で友達に問い詰められていた。「狩南、西田に告って振られたから華井に嫌がらせしてたってホント?」「てか何で貞子まで巻き込んでたの?」面白がって聞く友達に、狩南さんは、冷たく言い放った。
「もういいわ。なんか、あんたらと居てもつまんないし」
素っ気ない態度で帰っていくと、すぐに狩南さんの悪口大会が始まっていた。
どうして、あんなことを言ったんだろう?
疑問に思いつつも、まぁ私が気にすることでもないか、と歩き出そうとした瞬間、狩南さんが足を止める。
「……あんたってさ、ほんと雑草みたいよね」
「へ?」
よく分からないことを言われ、呆けた声を出してしまう。
狩南さんは、ゆっくりとこちらを振り返った。
「踏みつけても踏みつけても、萎れないから。……つい最近まで、そこら辺の地面にも生えてなかった癖にさ。急に、分厚いコンクリートから顔出してきて……本当に、ウザイ」
最後の方は、何だか弱々しい声になっていた。
……。雑草、か。
私は、少し間を空けてから、静かに口を開く。
「けっこう、萎れてましたよ」
狩南さんの目を真っ直ぐに見る。
「分厚いコンクリートから、顔を出せたのも……萎れて、萎れて、それでも上を向いて生えることが出来たのも、全部――心から大切な人が、いたからです」
桃弥の笑顔を思い出し、頬が上がった。
「その人がいなかったら、私は……一生、陽の光を浴びることはなかったと、自信持って言えます」
狩南さんは、怪訝そうに眉を顰めた。
「え、何。うちのクラスの人?」
「いや……あの、お、幼なじみ、です」
「幼なじみ?」
「は、はい……」
他に何か聞かれるかと思ったけど、狩南さんは「ふうん」とだけ言い、目を逸らした。
それから、大きく長い溜息を吐く。
「……私、華井だけじゃなくて、あんたにも恋愛で負けてるのね」
低い声で呟き、自嘲した。
「いや、友情も負けてるか」
俯き加減の姿勢になる狩南さん。
凄く、萎れている……。
何だか、西田くんに振られた時以上に落ち込んでいるように見えた。
「良かったら、話聞きますけど」
「うるさいのよ」
「あ、はい。すみません……」
強い口調に気圧され、つい謝ってしまった。
もう、話は終わったのかな……。去って行こうとした時、また、狩南さんに呼び止められる。
「ねぇ」
狩南さんは、こちらを見ようとしなかった。
「どうしたら……あんた達みたいになれる?」
私は、数秒間も固まってしまった。
「……私達……?」
聞き返すと、キッと睨みつけられる。けど、全然、怖くなかった。
「もういいわ」
吐き捨てるように言い、狩南さんは今度こそ去って行く。
どういう、意味だろう……?
歩き出し、考えてみる。
華井さんじゃなくて、華井さんと私みたいになりたい……?
思わず唸る。
やがて、ピンときた。
狩南さんは……もしかして、誰かの特別になりたかったんじゃないだろうか。
人なんて結局みんな表面的なところしか見てないし、ちょっとした切っ掛けで離れていくもの。以前、そう言い切っていた。
けど、本当は、ただ諦めているだけで。
好きな人が華井さんを見ているのも、華井さんについての嘘の噂に惑わされない私も、私の為に一緒に苛められる、とまで言った華井さんも、その関係が全部――理想的だった。
「どうしたらなれる、か……」
暫く考えてみるけど、なかなか答えは見つからなかった。
色々と思い悩んでいるのは私だけじゃないんだなぁ、と変に安心してしまう。
そのうち、私はまた桃弥について考え始めていた。
放課後。華井さんに一緒に帰ろうと言われたのも断って、数学の先生を探し回っていた。桃弥は数学の先生を知っているみたいだったから、先生も覚えているといいんだけど……。
夏休みまでに数学の授業はもうない。休み時間に、何回か職員室や数学科の教室に行ったけど、運悪くすれ違いになって会えなかった。
もう一度職員室に行ってから居ないのを確認し、数学科の教室に向かう。
すると、私の探していた先生は、ちょうど教室に入るところだった。
「あの、先生……っ」
日当たりの悪い廊下に、私の足音だけが響く。
「なんだ。質問があるなら授業中にしろって言ってるだろ」
「いや、違うんです」
先生は、無言でこちらを見つめていた。心底面倒くさそうな顔をしている。やっぱり、この先生は苦手だな……と思いつつ、私はゆっくりと口を開いた。
「仙二桃弥という生徒を、知っていますか?」
聞くと、先生は目を大きく丸くし、身体を固めた。
「仙二って……」
「五、六年前にこの学校にいた人です」
先生はあからさまに気まずそうな顔をした。
あぁ、良かった。この人は覚えているんだ。
「大丈夫です。亡くなっているのも、知っています」
言うと、先生は思いっきり眉間に皺を寄せる。何が聞きたいんだ、と顔に書いてあった。
私は、深く頭を下げる。
「お願いします……っ、どこに住んでいたとか、うろ覚えでもいいので、教えて欲しいんです」
先生の後ずさる足音がした。
「どうして、そんなことを……」咳払いをし、「悪いが、何も知らん」ピシャリ、と扉を閉められてしまう。呼び止める暇もなかった。
途方に暮れ、その場に立ち尽くす。
もう、諦めた方がいいのかな。
そう思い、踵を返した途端、私は足を止めた。
狩南さんが、立っていたから。
「もう亡くなっているって、どういうこと?」
狩南さんは、腕を組み、静かにこちらを見つめていた。
「……どうして、ここに……」
「別に。ホームルーム終わったあと一人で教室出てったから、ちょっと、話でも聞いてもらおうかと思っただけよ」
それで、ついてきていたの……? もっと早く声を掛けてくれれば良かったのに。
「凄い必死になって誰か探してるようだったからさ、邪魔しちゃ悪いってタイミング窺ってたのよ。盗み聞きする気なんてなかったからね」
狩南さんが私に気を遣っていたんだ、という衝撃的な事実に呆然としていると、「それより」と強い口調で睨まれる。
「せんじももや? って人、あんたが言ってた、心から大切な人のことよね?」
「…………そう、ですけど」
「最近会った人じゃないの? あんたが変わったのって、最近でしょ?」
俯き、胃の辺りを手で押さえる。
どうしよう。こんなの、どう、説明したらいいの……? 幽霊だなんて、言っても……。
眉を顰めて考えていると、バタバタバタ、と勢いよく走る音がこちらに近付いてくる。
「ちょっと~~!!!」
顔を上げて見ると、華井さんが、凄い形相で鞄を掲げて来ていた。
「なに苛めてんのよぉ!! ほら、シッシぃ!!」
私の前に立ち、狩南さんの方に鞄をブンブンと縦に振る華井さん。
狩南さんは後退りながらも、思い切りガンを飛ばしていた。
「は? 何。苛めてないんだけど」
「嘘吐くなぁ~!! くるみん困ってるじゃん~!!」
華井さんは、ぎゅうっと私を横から抱き締める。少し、手が震えていた。
「あの、華井さん……どうして」
「くるみん、今日は何だか休み時間とか昼休みもどっかに行ってたしぃ、放課後も一人で帰るっていうから、心配して来てみたのよ~。そしたらこれよ! もぉ!!」
ぷくぅ、と頬を膨らませ、狩南さんを睨みつける華井さん。けど、上目遣いをしているようにしか見えなくて、全然怖くなかった。
「いや、今は、苛められてないです……」
「ええっ。本当~?」
「今は、って言うの止めてくんない? もう苛めてないし」
「……あ、そうですね。すみません」
目を逸らし、謝ってしまう。
「んん~? じゃあ何でぇ、二人一緒にいたの?」
華井さんは私と狩南さんを交互に見る。
私は、口を噤んでしまった。狩南さんも、何も言わなかった。その様子を見て、華井さんは余計に困った表情になっていく。
……もう、正直に言ってしまった方がいいかな。華井さんにも、心配させてしまったし……。
私は、重い口を開いた。
「実は……」
大まかに、事の経緯を話した。
幽霊、という単語を出すと、二人ともあからさまに動揺していた。
それはそうだ。変な人だ、って思われても仕方がない。けど、話し出すと、止まらなくて。桃弥がいなくなったところまで話した時には、涙が一筋流れていた。
華井さんは、ゆっくりと背中を摩ってくれていた。
胸のなかに立ち込めていた霧が、一気に晴れていくようだった。
本当は、こうして、誰かに打ち明けたかったのかも知れない。
どうしようもない人だと思う。
話し終えると、二人とも、暫く何も言わなかった。
時間が止まったように、しんとしていた。
「……困りますよね。いきなり、こんな話されても……」
言うと、華井さんは更に私を抱き締める力を強くした。華井さんは俯いていて、表情はよく見えない。けど、身体の芯から温まっていって、華井さんの思いが伝わってくるようだった。
「私はぜんぶ信じるよぉ、友達だもん」
目頭が、熱くなる。
「……信じて、くれるんですか?」
「うん! 今朝、桃弥くんのことを話していた時もぉ、すっごい楽しそうだったもん。私も好きな人いるからぁ、なんとなく嘘じゃないって分かるよ~」
「華井さん……」
すると、狩南さんが短く言った。
「私も信じるけど」
私と華井さんは、同時に狩南さんを見る。
信じられないくらい、柔らかい表情をしていた。
「あんたは、私と違って嘘吐かないでしょ」
こうして、三人で桃弥のお墓を探すことになった。
華井さんと狩南さんは、早速スマホで知り合いの上級生に連絡を取ってくれる。その上級生の先輩に桃弥のことを知っているか聞いて貰う、というやり方で情報収集をすることにしたのだ。
「ん~でもこれだと時間かかっちゃうねぇ」
華井さんが、スマホで文字を打ちながら溜息を吐く。
「いや、全然、大丈夫です! ありがとうございます」
頭を下げていると、少し離れたところで電話している狩南さんが戻って来た。
「てか、思ったんだけどさ。うちらで探しに行けば良くない?」
「えっ……」
「探すってぇ?」
「この辺りの墓地に片っ端から行けば、見つかるでしょ。うちの高校の近くに住んでいた可能性の方が高いし。なかったらまぁ、そん時で」
私は慌てて両手を顔の前で振った。
「いやいや、そこまでして貰うのは流石に……」
「何。じゃあ、諦めんの?」
思わず口を噤んでしまう。すると、ぷっ、と華井さんが吹き出した。
「どうしたのぉ、狩南。キャラ変~?」
おちょくるように言う華井さんに、狩南さんは深く眉間に皺を寄せると、目を逸らす。
「別に……」
それから、蚊の鳴くような声で言った。
「悪かったわよ。今まで」
私と華井さんは、目を合わせる。
あはははっ、と同時に声が上がった。
「人って変わるもんねぇ~」
そして、夏休みが始まる。
私達は、毎日のように青空の下を自転車を漕いで探し回った。私は自転車を持っていなかったから、華井さんと狩南さんの後ろに交互に乗せてもらっていた。罪悪感はあったけど、そのうち、楽しさが上回った。
眩し過ぎるくらいの太陽の光が、いつでも私達を照らしていた。
何度も何度も、同じ道を行ったり来たりする。
坂道を上り、下って砂利道を進み、いつの間にか道が逸れていて、引き返す。目的地に着いても、探していたものはない。そんなことを繰り返していた。
そのうち、自転車の荷台に乗せてもらうばかりでは申し訳ないと、走って着いていく。
けど、足元に転がっていた石で派手に転んでしまい、膝が擦りむけてしまう。本当に情けなくなるも、華井さんの手を取って立ち上がり、近くの公園に行って水道で洗ってから、狩南さんに貰った絆創膏を傷口に当てる。すぐに血が滲んできていた。
もう諦めようかという雰囲気が漂う。
三人の汗が、地面を濡らしていた。
私が止めようと言えばそれでいいような気がした。
けれど、その時。私は桃弥の言葉を思い出していた。縋るように、彼の柔らかな笑顔を、声色を、脳内で再現していた。
――胡桃は、ちょっと勇気を出せば何でも出来るんだから。
――俺の人生全部、胡桃に出逢えたことで救われたよ。胡桃は、神様からの最高のプレゼントだね。
すると、ふっ、と全身が軽くなり、負の感情が見事に吹き飛んでいく。
身体の底から、無限に力が湧いてくるようだった。
思わず笑みを零す。
私は、この先、ずっとこうして生きていくんだと思った。
どんなに打ちのめされても、限界が訪れても、桃弥の言葉を思い出し、前を向く。そうして何とか一歩を踏み出して、生きていくのだと。
頭を下げてまだ探したいと言うと、二人とも笑って背中や肩を叩いてくれた。
数日後、狩南さんが連絡を取ってくれた先輩から折り返しがきて、桃弥のお葬式に出たことのある人が見つかったとのことだった。その人は、直後にお墓参りに行ったことがあって、大体の場所を聞くことが出来た。
そしてついに――
「あった!!!!」
桃弥のお墓を、見つけた。
仙二桃弥、と名前がしっかりと刻まれていた。
他のお墓と比べると一回り小さく、誰も手入れしていないようだった。雑草が好き放題生えていて、泥がこびりついている。酷い有様だった。
私達はすぐ近くにあった大型スーパーに行き、バケツや雑巾などの掃除道具、ロウソク、ライター、花を割り勘して買った。
みんなでお墓を綺麗にし、ロウソクを立てる。
相変わらず、太陽が燦々と降り注いでいた。
私は、沢山の向日葵を花瓶に差す。
これが、あなたに一番似合う花だと思ったんだ。
華井さんと狩南さんは、待ってるから、と少し離れたところに行き、私を一人にしてくれた。
光を反射して輝くお墓の前に座り、静かに手を合わせる。
桃弥。
私、今、凄く幸せだよ。
あなたに貰った温かさを、一生忘れません。
今、私の周りには、私を思ってくれる人達が確かにいます。
その人達がずっと笑顔でいれるよう、精一杯、胸を張って生きていきます。
あなたに貰った勇気で、それだけは、諦めません。
ふっ、と頬を緩め、仙二桃弥、と刻まれた名前を見る。
汗ばんだ両手で、前髪をかき上げた。
「愛してます」
それだけ言うと、私は、笑顔で待ってくれている二人の元へ駆け寄っていった。
了