165cmの自分の身長より少し小さい、155cmの姿鏡を前に、肩甲骨までの長さかつ艶がある黒髪に手櫛を入れた。
 決して、私が私のために手入れをしたものではないし、そもそもこの身体の所有権は私にはない。

 時計は15時を指していた。
 外では、小学校から帰宅する子どもたちの安全を守るための防災無線が鳴り響いていた。

 出勤前の日常だ。

 今は、幼いころから住み続けている実家で、1人暮らしをしている。

 両親も兄もいなくなった。
 私が幼い頃、殺めてしまったのだ。
 表面上は事故死。
 当時の報道でも、そう表現されていた。

 幸い、この家から私が出ていくことはなかった。
 それは、親戚が一緒に住んで、私が20歳になるまで、養ってくれていたから。

 その親戚から、去年、20歳の誕生日を迎える日までずっと、「嘘つき人間」と呼ばれて育った。
 嘘つき人間。私の名前はそれだった。

 本名は、塩澤胡桃(しおざわ くるみ)。大好きな亡き両親がつけてくれた、最初で最後の私へのプレゼント。

 そして、世界一嫌いな名前。

 両親のお葬式が始まるとき、隣に座っていた親戚が「胡桃なんて名前、こんな嘘つき人間には似合わない。あの2人、何も考えずにつけたのね。」と言い放った。

 その言葉は、生まれてから僅か7年しか経っていなかった私でさえ、理解できるものだった。

 7歳の誕生日、私は両親と兄を、私がついた嘘で殺めた。
 あの日からずっと、私は世界の時間を止めている。それに抗うかのように、世界は今も命を絶やさない。


 私が、今の私になる前の話。


 珍しく、いつも仕事で忙しかった両親と、サッカーの強豪校で部活動エースだった兄が久々に家にいた。
 それが私の7回目の誕生日だった。

 普段なら、部活動で忙しい兄は朝6時には学校へ行き、朝練に励んでいたし、両親は朝の支度と私の世話で忙しかった。
 だから、家族全員が揃う珍しさに心を躍らせた私は、かまってほしくてたまらなくなった。
 両親と兄に嘘をついた。


 「私、みんなでおでかけしたい!」


 外出したい理由なんて無くて、ただ、家族全員が"私のため"に何かしてくれることを求めていただけだった。


 だから、私は、嘘をついた。


 私の希望通り、家族全員で遠くへドライブをした。


 その帰り道、父は顔を真っ青にしながら、母と話していた。
 母は険しい顔だったけれど、鏡越しに私と兄に「海、綺麗だったわね!また4人で来ようね!」と言って聞かせた。



 それから、ほんの少しの間があったと思う。



 目が覚めたら、黒い粒がたくさん張り付いた天井と、鼻につくアルコール消毒液の香りが私を包んでいた。

 すぐそばで、医師だと名乗る人物と、看護師がベッドのそばで暗い表情で深刻そうに何かを話していた。


 しばらくしてから起き上がると、面会に来たのであろう親戚たちがいた。
 個室だったからだろう。
 普通ならありえない人数で私のベッドを囲んでいた。


 その頃の私はまだ、両親や兄がどんな状態なのかだけが気になっていて、自分のおかした過ちを理解していなかった。


 普段から仲の良かったいとこから、突然、「胡桃のママとパパ、りゅう兄ちゃん、死んだ。」と打ち明けられた。

 あまりにも淡々と打ち明けられたからだろうか。
 叔母さんはいとこを少し睨んだ後、いとこを部屋から出した。

 叔父さんはため息をつきながら、「胡桃ちゃん、そういうことなんだ。これからお父さんとお母さん、龍くんとお別れしなくちゃいけない。ただ……普通のお別れはできないから、覚悟しておいてほしい。」と言い放った。

 私は幼いながら、死というものが何か、理解していたつもりだった。
 けれど、「普通のお別れはできない」という意味を理解できず、叔父を問い詰めた。


 「胡桃ちゃんは、これから、叔父さんたちの家族と胡桃ちゃんの家で生活するんだよ。胡桃ちゃんが20歳になるまで、という期限付きになるが…。」

 「叔父さんたちと過ごせるなら楽しくなるね!家族が増えるね!」

 「あぁ、そうだと、いいな。」


 口だけで笑いながら、叔父さんは私の頭をゆっくり一度だけ撫でた。
 
 死を理解していても、その実感なんてわくわけがなかった。