隣の部屋には、壁一面が本棚になっている部分があった。
立ち止まって本棚を見てみると、哲学書や化学の専門書など、古くて分厚い本がたくさん並んでいる。
難しい本ばかりだと思って眺めていたら、下の方には漫画や私の知っているライトノベル小説、そして隅っこの方には絵本も数冊あった。今度ゆっくり見せてもらおうかな。
玄関の鍵はかけないこの家だけど、さすがに脱衣所の鍵はきちんと使えるようになっていた。
脱衣所の中には洗面台が併設されていた。
うちの脱衣所には大きな鏡がいつも私の全身を写すから、嫌でも自分の姿を見てしまうのだけれど、この洗面台に備え付けられているものはせいぜい顔くらいの大きさだった。自分の身体を見なくて済むのは好都合だ。
自分の家ではないところで服を脱ぐことに少し抵抗を感じたけど、一度脱いでしまうと、意外にもすぐに慣れた。
今日は炎天下の中たくさん歩いたし、バーベキューで煙も浴びたから、身体を洗い流せるのは嬉しい。
タイル張りの浴室をひたひたと歩き、シャワーの蛇口の前でしゃがみ込んで、お湯を出そうと試みる。
浴室の蛇口にはお湯と水の両方のハンドルが付いていて、丁度良いお湯加減にするには、両方の栓を少しずつ開きながら調整する必要があった。
……あれ?
お湯が、出ない。
間違ってないよね。
赤いマークがついているハンドルを捻ればお湯が出てくるはずなのだけれど、出てこない。時間がかかるのだろうか。
しばらく手に持っているシャワーのヘッドから出てくる水がお湯に変わるのを待っていたけれど、一向にお湯が出てくる気配はない。
今度はハンドルを捻り足してみたり、反対のハンドルを捻ってみたりしたけれど、どれも結果は同じだった。
……どうしよう。
今の季節だと、最悪冷水シャワーでも何とかなるけど……やっぱり温かいお湯で身体を洗い流したい。
しばらくハンドルをいじっていると、ようやく給湯器の電源が入っていないのではという結論に至った。
脱衣所に戻り、部屋全体を隈無く見渡してみたけれど、給湯スイッチらしきものはどこにも見当たらない。もしかして、隣の部屋にあるのだろうか。
隣の部屋には誰かがいる気配がなかったし、わざわざ服を着直すのも面倒だったから、私は脱衣所の扉を少し開け、隙間から顔を出してみる。
辺りを見回してみたけれど、やっぱり給湯器のスイッチは見つからなかった。
隣で仕事をしている茂さんに「すみませーん!お湯が出ませーん!」と言えばすぐに解決するだろう。
鎮まりきったこの家だったらさほど声を荒げなくても良いはずだ。
でも、今まで大声で人を呼んだことすらなかったから、そんなことすら躊躇してしまう。
面倒だけれど、最低限の恥ずかしくない格好をして外に出るのが賢明な判断だろう。
なんて思っていたら、突然向こう側の扉が開いた。
「……何してるの?」
まやくんと目が合った。
手には分厚い本を持っていた。きっとこの部屋に本を戻しに来たのだろう。
扉から顔を出したままの私と目が合ったまやくんは、しばらくポカンとして固まってから、すぐにやってしまったという表情をした。
「え、へへ……お湯が、出なくて」
どうして笑ったんだろう、私。
「だよね!……ごめん!ちょっと待ってて!」
脱衣所の外の方かららブォーという音が聞こえてからすぐに「スイッチ入れたよ!」という声が聞こえてきた。
「あ、ありがとうございまーす!」
って、あれ?
ついさっきまであんなに躊躇っていたのに、まやくんにつられたら、意外とあっけなく声が出た。
よそ行きの声とでも言うのだろうか、いつもより少しだけ高い声。
私ってこんなに声が出せるんだ。
その後すぐに恥ずかしさと、達成感がごちゃ混ぜになったような感覚が押し寄せてきた。
再びお湯のハンドルを捻って無事にお湯が出ることを確認したら、いつもよりぬるめの温度に調整する。
恥ずかしさを洗い流すかのようにシャワーから出てくるお湯を頭からかぶる。
さすがにもうこんなに大きな声を出す場面には出くわさないだろう。
なんて思っていたのだけれど、すぐにその場面は訪れた。
入る前に気が付けばよかったのに、よりによってお風呂を出てからバスタオルを忘れるという失態を犯してしまった。何やってんだろう。
いつも通り大きな溜息を吐いてから、浴室の中で頭や手足を全力で振って水滴を飛ばそうと試みる。お風呂上がりの犬がよくやるあれだ。
でもやっぱり私は犬じゃないので気休め程度にしかならない。
……何やってんだろう。
ようやく観念した私は、囲炉裏部屋にいる茂さんやまやくんを呼ぶことを決心した。
さっき声を出せたからきっと大丈夫。
別に叫ぶまでしなくても、茂さんやまやくんに聞こえる程度の声を出せば良いだけだ。
精一杯自分で自分を勇気付けてから、再び洗面所の扉から顔だけ出し、茂さんやまやくんを呼ぼうと試みる。
「っ……あっ……の」
でも、どう頑張っても喉の奥がつっかえたようになってしまって声が出ない。
声を出そうと思えば思うほど余計に吃ってしまう。いつもより少しだけ出せば良いだけなのに、どうしてこんなに簡単なことができないのだろう。
苦し紛れに「すみません」とか「誰か」とか、ほかの言葉を選んでみたけれど、どれも結果は同じだった。
濡れた髪から雫がポタポタと滴り落ちる。
さっきのようにまやくんが入って来ないかな。
でも、来るかどうかわからないものを待ち続けるわけにはいかないから、嫌だったけど、私は濡れたまま着替えを着て外に出ることにした。
パジャマ代わりに持って来た長ジャージのズボンをそのまま履いて、パーカーを羽織る。
そろりと囲炉裏部屋へと続く扉を開ける。
この無防備な格好はどうなのかと思ったけれど、今は緊急事態だから仕方ない。
隠せるところを隠せればそれで良しとしよう。
「沙希さん、どうしたんですか?」
茂さんの向かいで分厚い本を広げていまやくんが顔を上げる。
まやくんの頭が動くのが視界に入ったのか、イヤホンをしてキーボードを叩いていた茂さんも私に気付いて振り向いた。う……二人してそんなに見ないでください。
「ご、ごめんなさい。バスタオルを貸してもらえますか」
「了解、ちょっと待ってて」
まやくんはそう言ってすくっと立ち上がると、広げられた本のページがぱらぱらと捲れてしまった。
申し訳ないと思ったけれど、当の本人はそんなことはお構いなしといった感じで奥の部屋からバスタオルを持って戻ってきた。しかも、厚めのものを二枚。
「ありがとう……ございます」
柔軟剤がたくさん使われているのか、私がいつも使っているものより随分ふわりとしている。
「服、濡れちゃったね」
まやくんが私の全身を見渡して、これはまずいと思った。
結構な無防備状態だから、できればそんなに見ないでくださると助かります。
「だ、大丈夫です。ドライヤーで乾かせば何とかなるし」
私は自分がした苦渋の決断を正当化するために、苦し紛れに浮かんだ解決策を伝える。自分でも変な案だとは思う。
「そっか。でも今度忘れたら脱衣所から呼んで。扉の前に置くようにするから」
苦し紛れに思い付いたドライヤー案は、やんわりと却下されてしまった。やっぱりそうなりますよね。
「あ、それかドアををバンバン叩いたらいいよ」
「いや、さすがにそれは……」
叩くって、機嫌を損ねた小さい子供じゃあるまいし。でもまやくんは、
「この家は音が響くからすぐに気付けるし……緊急事態っぽいし。うん、やっぱ叩く方がいいかも」
なんて言いながら、真面目な顔して扉を小突いている。
「ふふ……」
彼なりのジョークなのかと思ったけれど、至って本気のようだったから、私は思わず吹き出してしまった。
「ま、まあどっちでもいいよ。さ、早く頭拭いて」
そう言って、まやくんはもう一枚のバスタオルを私の頭に被せ、早々に扉を閉めてしまった。
「……ありがとう」
閉まった扉に向かってポツリと呟く。
何に対してのお礼だろう。
でも、このありがとうは、きちんと相手に伝えなければいけないことではないだろうか。
次は、もう少しだけ勇気を出してみよう。
立ち止まって本棚を見てみると、哲学書や化学の専門書など、古くて分厚い本がたくさん並んでいる。
難しい本ばかりだと思って眺めていたら、下の方には漫画や私の知っているライトノベル小説、そして隅っこの方には絵本も数冊あった。今度ゆっくり見せてもらおうかな。
玄関の鍵はかけないこの家だけど、さすがに脱衣所の鍵はきちんと使えるようになっていた。
脱衣所の中には洗面台が併設されていた。
うちの脱衣所には大きな鏡がいつも私の全身を写すから、嫌でも自分の姿を見てしまうのだけれど、この洗面台に備え付けられているものはせいぜい顔くらいの大きさだった。自分の身体を見なくて済むのは好都合だ。
自分の家ではないところで服を脱ぐことに少し抵抗を感じたけど、一度脱いでしまうと、意外にもすぐに慣れた。
今日は炎天下の中たくさん歩いたし、バーベキューで煙も浴びたから、身体を洗い流せるのは嬉しい。
タイル張りの浴室をひたひたと歩き、シャワーの蛇口の前でしゃがみ込んで、お湯を出そうと試みる。
浴室の蛇口にはお湯と水の両方のハンドルが付いていて、丁度良いお湯加減にするには、両方の栓を少しずつ開きながら調整する必要があった。
……あれ?
お湯が、出ない。
間違ってないよね。
赤いマークがついているハンドルを捻ればお湯が出てくるはずなのだけれど、出てこない。時間がかかるのだろうか。
しばらく手に持っているシャワーのヘッドから出てくる水がお湯に変わるのを待っていたけれど、一向にお湯が出てくる気配はない。
今度はハンドルを捻り足してみたり、反対のハンドルを捻ってみたりしたけれど、どれも結果は同じだった。
……どうしよう。
今の季節だと、最悪冷水シャワーでも何とかなるけど……やっぱり温かいお湯で身体を洗い流したい。
しばらくハンドルをいじっていると、ようやく給湯器の電源が入っていないのではという結論に至った。
脱衣所に戻り、部屋全体を隈無く見渡してみたけれど、給湯スイッチらしきものはどこにも見当たらない。もしかして、隣の部屋にあるのだろうか。
隣の部屋には誰かがいる気配がなかったし、わざわざ服を着直すのも面倒だったから、私は脱衣所の扉を少し開け、隙間から顔を出してみる。
辺りを見回してみたけれど、やっぱり給湯器のスイッチは見つからなかった。
隣で仕事をしている茂さんに「すみませーん!お湯が出ませーん!」と言えばすぐに解決するだろう。
鎮まりきったこの家だったらさほど声を荒げなくても良いはずだ。
でも、今まで大声で人を呼んだことすらなかったから、そんなことすら躊躇してしまう。
面倒だけれど、最低限の恥ずかしくない格好をして外に出るのが賢明な判断だろう。
なんて思っていたら、突然向こう側の扉が開いた。
「……何してるの?」
まやくんと目が合った。
手には分厚い本を持っていた。きっとこの部屋に本を戻しに来たのだろう。
扉から顔を出したままの私と目が合ったまやくんは、しばらくポカンとして固まってから、すぐにやってしまったという表情をした。
「え、へへ……お湯が、出なくて」
どうして笑ったんだろう、私。
「だよね!……ごめん!ちょっと待ってて!」
脱衣所の外の方かららブォーという音が聞こえてからすぐに「スイッチ入れたよ!」という声が聞こえてきた。
「あ、ありがとうございまーす!」
って、あれ?
ついさっきまであんなに躊躇っていたのに、まやくんにつられたら、意外とあっけなく声が出た。
よそ行きの声とでも言うのだろうか、いつもより少しだけ高い声。
私ってこんなに声が出せるんだ。
その後すぐに恥ずかしさと、達成感がごちゃ混ぜになったような感覚が押し寄せてきた。
再びお湯のハンドルを捻って無事にお湯が出ることを確認したら、いつもよりぬるめの温度に調整する。
恥ずかしさを洗い流すかのようにシャワーから出てくるお湯を頭からかぶる。
さすがにもうこんなに大きな声を出す場面には出くわさないだろう。
なんて思っていたのだけれど、すぐにその場面は訪れた。
入る前に気が付けばよかったのに、よりによってお風呂を出てからバスタオルを忘れるという失態を犯してしまった。何やってんだろう。
いつも通り大きな溜息を吐いてから、浴室の中で頭や手足を全力で振って水滴を飛ばそうと試みる。お風呂上がりの犬がよくやるあれだ。
でもやっぱり私は犬じゃないので気休め程度にしかならない。
……何やってんだろう。
ようやく観念した私は、囲炉裏部屋にいる茂さんやまやくんを呼ぶことを決心した。
さっき声を出せたからきっと大丈夫。
別に叫ぶまでしなくても、茂さんやまやくんに聞こえる程度の声を出せば良いだけだ。
精一杯自分で自分を勇気付けてから、再び洗面所の扉から顔だけ出し、茂さんやまやくんを呼ぼうと試みる。
「っ……あっ……の」
でも、どう頑張っても喉の奥がつっかえたようになってしまって声が出ない。
声を出そうと思えば思うほど余計に吃ってしまう。いつもより少しだけ出せば良いだけなのに、どうしてこんなに簡単なことができないのだろう。
苦し紛れに「すみません」とか「誰か」とか、ほかの言葉を選んでみたけれど、どれも結果は同じだった。
濡れた髪から雫がポタポタと滴り落ちる。
さっきのようにまやくんが入って来ないかな。
でも、来るかどうかわからないものを待ち続けるわけにはいかないから、嫌だったけど、私は濡れたまま着替えを着て外に出ることにした。
パジャマ代わりに持って来た長ジャージのズボンをそのまま履いて、パーカーを羽織る。
そろりと囲炉裏部屋へと続く扉を開ける。
この無防備な格好はどうなのかと思ったけれど、今は緊急事態だから仕方ない。
隠せるところを隠せればそれで良しとしよう。
「沙希さん、どうしたんですか?」
茂さんの向かいで分厚い本を広げていまやくんが顔を上げる。
まやくんの頭が動くのが視界に入ったのか、イヤホンをしてキーボードを叩いていた茂さんも私に気付いて振り向いた。う……二人してそんなに見ないでください。
「ご、ごめんなさい。バスタオルを貸してもらえますか」
「了解、ちょっと待ってて」
まやくんはそう言ってすくっと立ち上がると、広げられた本のページがぱらぱらと捲れてしまった。
申し訳ないと思ったけれど、当の本人はそんなことはお構いなしといった感じで奥の部屋からバスタオルを持って戻ってきた。しかも、厚めのものを二枚。
「ありがとう……ございます」
柔軟剤がたくさん使われているのか、私がいつも使っているものより随分ふわりとしている。
「服、濡れちゃったね」
まやくんが私の全身を見渡して、これはまずいと思った。
結構な無防備状態だから、できればそんなに見ないでくださると助かります。
「だ、大丈夫です。ドライヤーで乾かせば何とかなるし」
私は自分がした苦渋の決断を正当化するために、苦し紛れに浮かんだ解決策を伝える。自分でも変な案だとは思う。
「そっか。でも今度忘れたら脱衣所から呼んで。扉の前に置くようにするから」
苦し紛れに思い付いたドライヤー案は、やんわりと却下されてしまった。やっぱりそうなりますよね。
「あ、それかドアををバンバン叩いたらいいよ」
「いや、さすがにそれは……」
叩くって、機嫌を損ねた小さい子供じゃあるまいし。でもまやくんは、
「この家は音が響くからすぐに気付けるし……緊急事態っぽいし。うん、やっぱ叩く方がいいかも」
なんて言いながら、真面目な顔して扉を小突いている。
「ふふ……」
彼なりのジョークなのかと思ったけれど、至って本気のようだったから、私は思わず吹き出してしまった。
「ま、まあどっちでもいいよ。さ、早く頭拭いて」
そう言って、まやくんはもう一枚のバスタオルを私の頭に被せ、早々に扉を閉めてしまった。
「……ありがとう」
閉まった扉に向かってポツリと呟く。
何に対してのお礼だろう。
でも、このありがとうは、きちんと相手に伝えなければいけないことではないだろうか。
次は、もう少しだけ勇気を出してみよう。