「おかえり。どうだった?星見えた?」

「はい、すごく綺麗でした」



あいかわらず開きにくそうにしている扉を開けて囲炉裏部屋に帰ってきたら、部屋には馴染みのある香りが漂っていた。

茂さんは囲炉裏の前の机にノートパソコンを広げていた。

その隣には、ゆらゆらと湯気を発しているマグカップが置いてある。

囲炉裏に広げられた炭は、白い灰に包まれながら真っ赤な光を放ち、夕飯時に使った網の上には、小さなやかんがちょこんと置かれている。



「じゃーん!」



茂さんは足元に置いてある袋を私に見せる。

やっぱり。これは海猫堂のコーヒーの香りだ。

誠司さんが焙煎している自家製のコーヒー豆は、ちょっと焙煎が強めで燻製のような香りをしている。

毎朝カウンターのキッチンを使って焙煎しているから、お店はこのコーヒーの香りで満たされていて、その空間も私が海猫堂が好きな理由の一つだった。

どうやら茂さんは、持ち帰り用で販売されていたものをちゃっかり買っていたみたい。

まやくんが台所から「茂さーん!片付けありがとうございまーす!」と言っているのが聞こえてきて、洗い物を全部放っぽり出していたことにようやく気が付いた。



「良いって良いって!ついで!」



いつものことのように、茂さんはパソコンの画面から目を逸らさず返事をする。



「すみません。何から何まで全部してもらってばかりで」

「気にしないで。沙希ちゃんもコーヒー飲む?」



そう言って、茂さんはマグカップ取りに行こうと立ち上がる。でも、夜にコーヒーを飲むと寝られなくなる。



「ありがとうございます。でも今日は夜遅いので、遠慮しておきます」

「それもそうだね。お風呂はあっちの部屋の角で、洗濯機は玄関の通路の隣。ドライヤーとか洗剤とか、置いてあるものは適当に使って」

「ありがとうございます」



いくら昼寝をしたからと言っても、さすがに今日はちょっと疲れてしまった。

それに、帰ってきた途端にやることがなくなってしまったから、お言葉に甘えてしまおう。

部屋に戻ると、畳が湿気った匂いが鼻を刺した。

もうすっかり暗くなってしまった部屋を見渡すと、何か出そうだと思ったけど、怖いからそれ以上は想像しないでおく。

おもむろにスマホのホーム画面を覗いたら、LINEの通知が17件も入っていたから驚いた。

まあこの送り主の大半は誰なのか、大方予想は付いているけれど。

スレッドを開いてみると、絵里ちゃんからが九件、お母さんからが二件、残りの六件は……入学のタイミングで半ば流され気味に入ったクラスのグループからだった。

正直言ってこのクラスのグループLINEが苦手だ。自分の投稿がクラス中のみんなに知れ渡るのなんて絶対無理だし、そもそも変なトラブルが多すぎる。

クラスの人数は三十六人なのに、なぜかグループの参加人数が四一人になって、部外者が登録しているのではないかと騒ぎもあった。

クラスの全員が本名で登録している訳ではないから、もちろん犯人が誰なのかはわからないままグループが再編成された。

違うクラスだけど、退学した人がしれっとグループに残り続けて、文化祭などの学校行事に参加していたなんて話も聞いたことがある。

ややこしいことになるのなら、グループLINEなんて作らなければ良いのに。

でも、担任の斎藤先生は時々重要な連絡事項をLINEでする。

だから、建前上はグループの参加は任意となっているけれど、実際は読み専でも良いから全員入っておいた方が良いのだ。

実際のところは、何人かトークルームを積極的に使う生徒がいて、その人達と先生だけで話しているようなもので、私たち読み専組はその無駄話の中から必要な情報を探し出さなければいけない。

仲も良くない人のメッセージを見ると、ああこの子は今機嫌が悪いのかなとか、誰かに構って欲しいのかなとか考えてしまって、それが本当に面倒臭い。

大抵は開く前にスライドして削除しまうのだけれど、今回は疲れて指圧が弱かったのか、間違ってメッセージ欄を開いてしまった。

渋々確認すると、クラスで目立っている三人が夏休み中に行った旅行の写真をアップしていて、担任の斎藤先生と何人かのクラスメイトが律儀にスタンプで反応しているというものだった。

私は小さく溜息を付きながらトーク画面に戻り、メッセージをスライドして削除ボタンを押す。

学校のことを思い出した途端に、急に現実世界に引き戻されたような気がして、余計にどっと疲れが押し寄せてきた。

お母さんと絵里ちゃんへの返事は、お風呂の後にしよう。

スマホの電源ボタンを押し、そのままパーカーのポケットに突っ込む。

キャリーバッグから着替えを取り出すと、階段を踏み外さないように気を付けながら足速に一階へと向かう。

囲炉裏部屋では、相変わらず忙しそうにキーボードを叩いている茂さんがいて、少しほっとした。

パチパチと炭が燃える音とタイピング音。

音が少ないと、聞こえてくる音に意識が集中するからか、より精密に聞こえてくる。炭の燃える音と相まって心地良いリズムを奏でているようだった。



「沙希ちゃん」



お仕事を邪魔してしまわないように、そろりと囲炉裏部屋を通り過ぎようとしていたら、茂さんが画面と睨めっこしたまま私を呼び止める。



「てきとーで良いんだからね。てきとーで」

「は、はい」



それ以上何も言わず、再びキーボードを叩き始めた。

言葉の真相はわからなかったけれど、「てきとー」という言葉を聞いたら、さっきまでの落ち込んでいた気分が、ほんの少しだけどこかに飛ばされた。