「長旅お疲れさん。もう少しだよ」
「お疲れさまです……やっと到着ですか」
「次のバス停を降りて、その後二十分くらい歩けば着くかな」
「今度は歩くの……ですね……」
夜行バスを降りると、すぐに特急電車に乗り込み二時間ほど揺られ、そのあと再びバスに乗り換える。正直言って乗り物を使っての移動はもうお腹いっぱいだ。
出発する頃はバス移動も悪くないかもなんて甘いことを思っていたけれど、限度ってものがある。
もう十何時間もろくに足を動かしていない足はパンパンで、ずっと座席に押し付け続けていたお尻は少し形が変わってしまったのではないかと心配になる。
でも、景色は随分と殺風景なものに変わってしまっていたから、もう後戻りもできないところまで来てしまったのだと変な覚悟も生まれた。
バスはお構いなしに、どんどんと山奥へと突き進む。
対向車が全く来ない片側車線のトンネル。幾つもの曲がりくねった峠道。最後に大きなトンネルを抜けると、これまで緑しかなかった景色が一変、突如目の前に湖らしきものが現れた。
湖は窓越しからでもわかるほど透き通っている。
波一つ無い水面に浮かんでいる船は、鏡のように写されていた。
「きれい……」
思わず声が出てしまった。
「今日は天気が良いから余計に綺麗に見えるかもしれない。街ではなかなか見られない光景だよね」
「お母さんや茂さんは、こんなに綺麗な湖があるところで育ったんですね」
「まあね。ちなみにここは海だよ」
「え、湖じゃないんですか」
「そ。『リアス海岸』って言ってさ、狭い湾が複雑に入り組んだ地形をしているんだ」
周りを見回すと山に囲まれているものだから、つい湖だと思っていた。それに、海といえば砂浜か岩場に囲まれているイメージがあったし。
「この辺りは複雑な半島になっていて、内海になるから特に静かなんだよ。晴れている時はこんな感じで水面が澄んでいるんだけど、北陸の天気は荒れやすくて、時化の時はこの一帯もかなり荒れるんだ」
「こんなに静かなところがですか?」
「そうだよ。台風の時は高潮で波止場も飲み込まれてしまうから、近付かないようにしないとけない」
自然は美しい一面を持っているけれど、人間ではどうすることもできないくらい恐ろしい一面も持っている。この辺りは自然の影響も受けやすいため、ここで暮らす人々は特に天候や季節の変化に敏感なのだ。
私はごくりと唾を飲み込んだ。
正直、今までそんなことを考えたことがなかった。
私が住んでいる地域は地震が多くて、テレビや新聞では「数年以内に何十年に一回の大地震が来る」なんてずっと言われているけれど、さすがに天候によって生活が脅かされるまではなかった。
台風が来ても、電車はなかなか運休になることもないし、たまに大雨で道路が冠水することはあっても、土砂崩れを起こすような山はない。
「小さい頃は姉貴に連れ回されて、よくこのあたりまで遊びに来たものさ」
「お母さんって、過酷なところに住んでいたんですね」
「街の方から来る人からすると、そう見えるかもしれないね。夜は猪が出たり、野生の梟なんかも見れるし。まあ大変だけど、この環境に魅了されて新たにここに住む人もいるし、僕みたいに帰ってくる人もいる。まあ自分が住みたいと思うところに住むのが一番だね」
「だからお母さんって昔からあんなに元気なんですか」
「あはは!獣が出るところで育つからって、みんながみんな姉貴や僕みたいになるとは限らないよ!姉貴は今も昔もあんな感じだよ」
どうやら私の話が茂さんにツボにはまったみたいで、しばらく笑っていた。車内は相変らず私達しか乗っていなかったから、車内には茂さんの笑い声が響く。
バスは湖みたいな海辺を過ぎると、もう一度山奥に向かって進んでいく。
途中で何度か対向車と鉢合わせると、起用に隅っこに避けたりバックしたりしてやり過ごしていた。
急斜面をしばらく上り、山を登り切ったところで最後のトンネルを抜けていく。視界が開けたと思ったら、また大きな海の景色が広がった。
何件か民家がポツリポツリと見えてくる。
「あそこに何軒か家が見えるでしょ。その中で頭ひとつ飛び出ている家があるじゃん。そこが僕たちの家」
茂さんが指差した方向を、目を細めながらじーっと見つめる。
「もう少しかかりますね」と言おうとしたら、バスが停車して少し絶望した。どうやら最寄りの駅に着いたみたい。
「えっと……ここから本当に二十分で着くんですか?」
「うん。心配しないで」
いやいや、心配しないでって言われても……遠くないですか?
「見晴らしが良いから遠くにあるように感じるけれど、歩いてみると意外とすぐに着くよ」
二十分というのは嘘じゃないかもしれないけれど、茂さんと私とじゃ歩幅も体力も違うのですが。茂さんって本当はかなり体育会系な人なんじゃ……
パンパンになった足で、あの重いキャリーケースを引きずりながら歩き続けなければいけないと考えたら、帰りたくなってきた。
けれど、今更ここから引き返すことなんてできやしない。
そう、進むしかないのだ。
バスを降り、覚悟を決めて歩き出す。
案の定、しばらく動かさなかった足はガクガクと言うことを聞かない。
何度も「大丈夫?持とうか」と声をかけてくれたけれど、茂さんも私と同じくらいのキャリーバッグに加えて、大きなバックパックも背負っているから、口が裂けてもお願いしますなんて言えやしない。
追い討ちをかけるように、夏の暑さが私の体力を一方的に削ってくる。おまけに蝉の声も凄まじい。
一匹や二匹がしゃわしゃわと鳴いているだけであれば「ああ夏の風物詩だなあ……」なんて悠長なことを言っていられるかもしれないけれど、延々と続く木々の雑踏の中から一斉に鳴かれると、もう雑音以外の何物でもない。
煩わしい蝉の鳴き声がいくつも重なり合い、濁音だけの雑音へと変貌しながらこっちに押し寄せてくる。音の洪水に飲まれているようだ。
ぜえぜえと息を吐きながらキャリーバッグと格闘する。これは自分との戦いだ。
道の前を野良猫が駆け足で横切る。彼らは身軽な格好をしていて羨ましい。
バッグの中にはカメラや宿題が入っているが、大半は着替えやタオルなどの衣類だ。宿泊を伴う移動をするときは、必ず着替えを持っていかなければいけない。
当たり前のことなのだけれど、これはすごく不便だと思う。
私達人間は、犬や猫と違って本当に何も持たずにどこかに出かけるというのは、案外難しいのかもしれない。
「ほら、あそこ」
「へ?」
突然不意を付いたように声をかけられて油断していたからか、力の入らない返事をしてしまった。
垂れ下がった重い頭を上げて茂さんの方を向くと、ちょんちょんと道の先を指刺している。
「……きれい……」
脇道の細い通りへと抜けた先には、バスの中から見た湖のような海が広がっていた。
船着場に停められている船がのんびりと揺れていて、船の横に付けられた浮きはチャプチャプと音を立てている。
上空には、二匹の鳶が気持ち良さそうに風に乗っている。
船着場の向こう側には、漁で使うであろう網を手入れしている漁師さんが私達に気が付くと、満面の笑みをしながら手を振ってくれた。
茂さんは大きく手を振り返して、私はペコリと会釈をする。
お母さんが生まれ育ったところは、こんなにのどかな景色なんだと思うと同時に、懐かしくなった。
「良いところでしょ」
「はい。すごく。なんだか懐かしいというか……」
あれ?どうして懐かしいなんて思ったのだろう。
ここはお母さんや茂さんの生まれ育ったところで、私は知らないはずなのに。
この暑さと疲労でとうとう頭がやられてしまったのだろうか。
「あの角を曲がれば到着だ。お疲れさん」
「あ……お疲れさまです」
茂さんは私が言ったことなんて特に気にしていない様子だった。
けれど、たしかに懐かしいという感覚が、私の頭にいつまでも引っ掛かっていた。
「お疲れさまです……やっと到着ですか」
「次のバス停を降りて、その後二十分くらい歩けば着くかな」
「今度は歩くの……ですね……」
夜行バスを降りると、すぐに特急電車に乗り込み二時間ほど揺られ、そのあと再びバスに乗り換える。正直言って乗り物を使っての移動はもうお腹いっぱいだ。
出発する頃はバス移動も悪くないかもなんて甘いことを思っていたけれど、限度ってものがある。
もう十何時間もろくに足を動かしていない足はパンパンで、ずっと座席に押し付け続けていたお尻は少し形が変わってしまったのではないかと心配になる。
でも、景色は随分と殺風景なものに変わってしまっていたから、もう後戻りもできないところまで来てしまったのだと変な覚悟も生まれた。
バスはお構いなしに、どんどんと山奥へと突き進む。
対向車が全く来ない片側車線のトンネル。幾つもの曲がりくねった峠道。最後に大きなトンネルを抜けると、これまで緑しかなかった景色が一変、突如目の前に湖らしきものが現れた。
湖は窓越しからでもわかるほど透き通っている。
波一つ無い水面に浮かんでいる船は、鏡のように写されていた。
「きれい……」
思わず声が出てしまった。
「今日は天気が良いから余計に綺麗に見えるかもしれない。街ではなかなか見られない光景だよね」
「お母さんや茂さんは、こんなに綺麗な湖があるところで育ったんですね」
「まあね。ちなみにここは海だよ」
「え、湖じゃないんですか」
「そ。『リアス海岸』って言ってさ、狭い湾が複雑に入り組んだ地形をしているんだ」
周りを見回すと山に囲まれているものだから、つい湖だと思っていた。それに、海といえば砂浜か岩場に囲まれているイメージがあったし。
「この辺りは複雑な半島になっていて、内海になるから特に静かなんだよ。晴れている時はこんな感じで水面が澄んでいるんだけど、北陸の天気は荒れやすくて、時化の時はこの一帯もかなり荒れるんだ」
「こんなに静かなところがですか?」
「そうだよ。台風の時は高潮で波止場も飲み込まれてしまうから、近付かないようにしないとけない」
自然は美しい一面を持っているけれど、人間ではどうすることもできないくらい恐ろしい一面も持っている。この辺りは自然の影響も受けやすいため、ここで暮らす人々は特に天候や季節の変化に敏感なのだ。
私はごくりと唾を飲み込んだ。
正直、今までそんなことを考えたことがなかった。
私が住んでいる地域は地震が多くて、テレビや新聞では「数年以内に何十年に一回の大地震が来る」なんてずっと言われているけれど、さすがに天候によって生活が脅かされるまではなかった。
台風が来ても、電車はなかなか運休になることもないし、たまに大雨で道路が冠水することはあっても、土砂崩れを起こすような山はない。
「小さい頃は姉貴に連れ回されて、よくこのあたりまで遊びに来たものさ」
「お母さんって、過酷なところに住んでいたんですね」
「街の方から来る人からすると、そう見えるかもしれないね。夜は猪が出たり、野生の梟なんかも見れるし。まあ大変だけど、この環境に魅了されて新たにここに住む人もいるし、僕みたいに帰ってくる人もいる。まあ自分が住みたいと思うところに住むのが一番だね」
「だからお母さんって昔からあんなに元気なんですか」
「あはは!獣が出るところで育つからって、みんながみんな姉貴や僕みたいになるとは限らないよ!姉貴は今も昔もあんな感じだよ」
どうやら私の話が茂さんにツボにはまったみたいで、しばらく笑っていた。車内は相変らず私達しか乗っていなかったから、車内には茂さんの笑い声が響く。
バスは湖みたいな海辺を過ぎると、もう一度山奥に向かって進んでいく。
途中で何度か対向車と鉢合わせると、起用に隅っこに避けたりバックしたりしてやり過ごしていた。
急斜面をしばらく上り、山を登り切ったところで最後のトンネルを抜けていく。視界が開けたと思ったら、また大きな海の景色が広がった。
何件か民家がポツリポツリと見えてくる。
「あそこに何軒か家が見えるでしょ。その中で頭ひとつ飛び出ている家があるじゃん。そこが僕たちの家」
茂さんが指差した方向を、目を細めながらじーっと見つめる。
「もう少しかかりますね」と言おうとしたら、バスが停車して少し絶望した。どうやら最寄りの駅に着いたみたい。
「えっと……ここから本当に二十分で着くんですか?」
「うん。心配しないで」
いやいや、心配しないでって言われても……遠くないですか?
「見晴らしが良いから遠くにあるように感じるけれど、歩いてみると意外とすぐに着くよ」
二十分というのは嘘じゃないかもしれないけれど、茂さんと私とじゃ歩幅も体力も違うのですが。茂さんって本当はかなり体育会系な人なんじゃ……
パンパンになった足で、あの重いキャリーケースを引きずりながら歩き続けなければいけないと考えたら、帰りたくなってきた。
けれど、今更ここから引き返すことなんてできやしない。
そう、進むしかないのだ。
バスを降り、覚悟を決めて歩き出す。
案の定、しばらく動かさなかった足はガクガクと言うことを聞かない。
何度も「大丈夫?持とうか」と声をかけてくれたけれど、茂さんも私と同じくらいのキャリーバッグに加えて、大きなバックパックも背負っているから、口が裂けてもお願いしますなんて言えやしない。
追い討ちをかけるように、夏の暑さが私の体力を一方的に削ってくる。おまけに蝉の声も凄まじい。
一匹や二匹がしゃわしゃわと鳴いているだけであれば「ああ夏の風物詩だなあ……」なんて悠長なことを言っていられるかもしれないけれど、延々と続く木々の雑踏の中から一斉に鳴かれると、もう雑音以外の何物でもない。
煩わしい蝉の鳴き声がいくつも重なり合い、濁音だけの雑音へと変貌しながらこっちに押し寄せてくる。音の洪水に飲まれているようだ。
ぜえぜえと息を吐きながらキャリーバッグと格闘する。これは自分との戦いだ。
道の前を野良猫が駆け足で横切る。彼らは身軽な格好をしていて羨ましい。
バッグの中にはカメラや宿題が入っているが、大半は着替えやタオルなどの衣類だ。宿泊を伴う移動をするときは、必ず着替えを持っていかなければいけない。
当たり前のことなのだけれど、これはすごく不便だと思う。
私達人間は、犬や猫と違って本当に何も持たずにどこかに出かけるというのは、案外難しいのかもしれない。
「ほら、あそこ」
「へ?」
突然不意を付いたように声をかけられて油断していたからか、力の入らない返事をしてしまった。
垂れ下がった重い頭を上げて茂さんの方を向くと、ちょんちょんと道の先を指刺している。
「……きれい……」
脇道の細い通りへと抜けた先には、バスの中から見た湖のような海が広がっていた。
船着場に停められている船がのんびりと揺れていて、船の横に付けられた浮きはチャプチャプと音を立てている。
上空には、二匹の鳶が気持ち良さそうに風に乗っている。
船着場の向こう側には、漁で使うであろう網を手入れしている漁師さんが私達に気が付くと、満面の笑みをしながら手を振ってくれた。
茂さんは大きく手を振り返して、私はペコリと会釈をする。
お母さんが生まれ育ったところは、こんなにのどかな景色なんだと思うと同時に、懐かしくなった。
「良いところでしょ」
「はい。すごく。なんだか懐かしいというか……」
あれ?どうして懐かしいなんて思ったのだろう。
ここはお母さんや茂さんの生まれ育ったところで、私は知らないはずなのに。
この暑さと疲労でとうとう頭がやられてしまったのだろうか。
「あの角を曲がれば到着だ。お疲れさん」
「あ……お疲れさまです」
茂さんは私が言ったことなんて特に気にしていない様子だった。
けれど、たしかに懐かしいという感覚が、私の頭にいつまでも引っ掛かっていた。