きちんと振り分けられた畑が目の前に延々と広がり、所々にポツリと民家の集団がある。

辺りをぐるりと見渡すと、半分は深々とした緑で装った木々が生い茂り、残りの半分は静かな水面を持つ海がある。

「この一帯だけ世界に取り残されてしまったのでは」と錯覚してしまうくらい典型的など田舎にある集落の中に、比較的大きな建物が一軒。

数十年、いや、百年くらい経過しているのではないだろうか。

濃い茶色の染料で染められた木製の外壁は、長年雨に晒されてきたせいか、表面はボソボソにささくれていて、隙間からは植物の蔓が顔を覗かせている。

そう。ただのボロボロの古民家だ。

けれど、中に入ってみると、意外にも部屋の一部は木材の香りが残るフローリングに張り替えられていたり、井草の香りがする新しい畳に張り替えられていたり、トイレはウォシュレット付きの水洗に変えられていたりと、なかなかの手の込みようだ。

そして僕はここに住んでいる。と言っても居候させてもらっている身だけれど。

この家の主人である茂さんは、もともと都内で編集者としてバリバリ働く優秀なサラリーマンだったらしい。

けれど、どういうわけかわざわざ会社を辞めて、この古民家を購入したようだ。

購入したと言っても、いつも家にいるわけではなく、遠く離れた都心の方で泊まり込みの仕事をすることが多く、この家に帰ってこないことがほとんどだ。

一週間以上も帰ってこない日もざらにあるものだから、時々僕一人で住んでいるのではないかと思うことも少なくない。


今にも外れてしまいそうな玄関の戸が、景気良くガラガラと音を立てた。

こう大きな音だと、どこにいようが戸が開くのがわかるから、ある意味便利だ。



「茂さん、お帰りなさい。長旅お疲れ様です」

「ただいま」



茂さんは僕の顔を見ると、にこりと微笑んでから「よっこら……しょっと」と言いながら、大きなキャリーバッグを式台に引きずり上げた。

いつものようにちょっとやつれた顔をしているけれど、今回は心なしかいつもより嬉しそうに見える。久しぶりに帰って来られたからかな。



「助かったよ、まやくん。留守番してくれてありがとう」

「いえ、お礼を言われるほどのことなんて。あ、この前言っていた破れた障子の戸は全部張り替えておきました」

「おお!ありがとう。それは助かるよ。あの部屋、戸のせいで見栄えが悪かったからなあ」

「ここに居させてくれているので、せめてこれくらいはしておかないと」

「この家にまやくんがいてくれるだけで大助かりだから、そんなに張り切らなくても良いよ」



いやいやそんな。居るだけでって、良い人すぎますよ。

茂さん曰く、家は人が住んでいないと、すぐにカビが生えたり虫がわいたりするらしい。

特に、この家みたいに築百年以上経過している古民家だと、何日か空けているだけであっという間に埃が溜まってカビだらけになるらしい。

人が住んでいない家はすぐに老朽化が進むから、なるべく空気の流れを止めてはいけない。だから、僕がここに住んで生活をしているだけで家を長持ちさせられて大助かりなんだとか。



「巷では古民家って徐々に人気が高まっているようですけど、実際に住むとなると、意外と管理が大変なんですね」

「そうだよ。僕も買ってからこりゃ大変だなって思っていたんだ。でもさ、やっぱり帰って来た時に誰かがいるって、良いよね!」



ふうん。そういうものなのか。単にこの人が良い人すぎるだけではないのか。



「あ、それと、僕の姪がしばらくここに泊まるからよろしく頼むよ」

「わかりま……ええ⁉︎ここに来るんですか?」

「そうだよ。僕の姉貴の娘さん。今年高一だから、多分まやくんと同じ年代じゃないかな。向こうで姉貴の家に泊めてもらう機会があったんだけど、その時会って話してさ。彼女、写真を撮るのが好きで、この辺りの風景も興味があるみたい。じゃあ遊びにおいでよって言ってみたら、『ぜひ行きたいです』って。まやくん、仲良くしてあげて」



……何だって⁉︎



茂さんはここを古民家民宿にしたいと言っていて、一緒に床を張り替えたり、網戸を直したりして、ようやく僕達二人が快適に過ごせるようになってきた。

でも、まだ今にも外れそうな窓枠や、抜けそうな床の部屋もたくさんあるから、人を呼ぶのは随分先のことだと油断していた。

というか、一人でこんなど田舎のボロボロな古民家に泊まりにくるなんて、その女の子はどれだけ図太い性格をしているんだ。きっと普通の子じゃないはず。



どうしよう。それに、僕がいて大丈夫だろうか。



だって僕はーー



「そんなに心配しなくても大丈夫。きっと仲良くなれるって!」



 立ち尽くしていろいろ考え込んでいると、茂さんが僕の目を見てにこっと笑いながら、肩をポンポンっと叩いた。

決して鋭い眼光という訳ではないけれど、真っ直ぐに僕の目を見ながら、はっきり『大丈夫』と言い切ってくれると、どんなに不安でも、なぜか本当に大丈夫なような気がしてくるから不思議だ。



「わかりました。それで、いつから来られるのですか?」

「今日から」

「今日⁉︎」

「実は……もう来てる」

「……はい?」



さっきまでちょっと格好良いなんて思っていたのに、急に頭を掻きながらへへへって笑うものだから、さっき思ったことは全部撤回しておく。



「おーい、そんなに遠くにいなくても大丈夫だよ。こっちに入ってきな」



茂さんは玄関から顔を出しながら手招きをすると、庭の入り口にある石垣の方からスッと女の子が姿を現した。

女の子は大きなスーツケースを重そうに引きずりながら、恐る恐る玄関に近付いてきた。

たしかに僕と同じくらいの年齢の女の子だった。

肩にかかるかどうかくらいの長さの整えられた髪は、見惚れてしまうほどさらりとしている。下の方に行くにつれ、外にふわっとしている。ええと、たしか『ボブカット』って呼ぶんだっけ。

真夏だというのに、なぜかパーカーを着ているのが気になったくらいで、それ以外は意外というか、とても控えめっぽい子だったから、僕の緊張スイッチはすぐに切ることができた。

というか、見ているこっちがハラハラするほどおぼつかない足取りをしているんですけど。茂さん、もしかして連れてくる子を間違ったのでは?



「こん……にちは……」



女の子は、右腕の袖を強く握り締めながら、不安と警戒が混じった声で、今できる精一杯の挨拶をしてくれた。



「こんにちは」



これ以上この子を刺激すると死んでしまうのではないかと思ったので、僕もできる限り同じ大きさの声量を意識して言葉を返した。

女の子は、ゆっくりと視線を上げていく。



あ、目が合った。



って、あれ?



僕とその女の子は、しばらく見つめ合ってしまった。

その瞬間、まるで僕らだけが別の空間にいるような感覚になった。

ビビッときたとか運命の出会いがとかそういうのじゃなくて、どこかで会ったことがあるような、ないような、懐かしいような、懐かしくないような、そういうよくわからない気持ちになった。



ーーこの気持ちは、僕だけだろうか。


 
その子のことが、気になった。