「ただいま」
玄関の鍵を開けて、大きな声で到着を知らせる。
あの頃に比べたら自分の声も随分野太くなったものだと改めて思う。あれだけ嫌っていたはずの大人という存在に気が付けば自分がなっているのだから、人生というのはまったく皮肉めいている。
「ああ、おかえりなさい。未華子(みかこ)ちゃんもいらっしゃい。大輔あんたね、着く時間分かったら事前に知らせなさいって言っておいたでしょうが」
「あれ、そうだっけ?」
「まったく…うちの息子、頼りなくってごめんねぇ。昔っから未華子ちゃんの方がよっぽどしっかりしていて頼もしかったわね、本当に」
「悪かったな、頼りない息子で」
未華子は楽しそうにくすくすと笑っている。
否定しないところが彼女らしいといえば彼女らしい。
「さあさ、ほら早く上がって。今大事な時期でしょう?」
「ありがとうございます。おじゃまします」
まるで借りてきた猫のように、彼女は淑やかに話す。あの短髪ガキ大将のようだったミカちゃんからは想像もつかないくらい彼女もまた大人になった。落ち着いた所作や物腰を見るとそう思わずにはいられない。
時は人を変える。まったくその通りだ。
人が大人になるというのは単純に成人を迎えるという意味ではなく、理不尽も不条理もそれなりにいなし、適切な処世術を身につけて社会にうまく迎合できるようになること、と昔高校時代の恩師に言われたことがあったが、今となってはよく分かるというものだ。それが良いのか悪いのかは別として。
「おお、大輔帰ったか。未華子さんもいらっしゃい。久しぶりだね」
「お義父さん、お久しぶりです」
父は読んでいた新聞を閉じた。
少し前に腰を痛めてしまったとかで、やけにゆっくりと立ち上がる。
「あのミカちゃんがこんなに素敵なお嬢さんになって。そりゃ歳もとるはずだなぁ」
「あらやだ。お義父さんもまだまだ充分お若いでしょうに」
「いや、歳にはかなわん。ところで最近はどうだい?お腹はそんなに目立ってないみたいだけど、そちらは順調かい?」
未華子は自分の腹のあたりに両手をあて、父は未華子が手を当てているあたりを幸せそうに眺めた。
「はい。まだ性別とかはわからないんですが、経過としては順調です」
今、未華子の腹の中には新しい命が宿っている。僕と未華子は大学を卒業してすぐに結婚し、今年の春にようやく父と母になる。

 あの日、未華子がギラついた怒りと共に抱いた野望の大きな部分は意外にも直近で果たされてしまった。僕と未華子の起こした行動は各地の同じような立場にあった子供達にも伝播した。それと同時に教育に携わる専門家や保護者の立場の大人達にも大きな波紋を呼ぶこととなった。
特に保護者は自分の子供に生涯残るような大きなトラウマを与えたとして、国を相手取り訴訟を起こそうと躍起になった。
その結果、計画の廃止は時間の問題となった。
そして未華子が何かをするよりも前に、僕らがゼロと過ごした翌年、早くも計画は中止となり、そのままなし崩し的にプロジェクトそのものが廃止となったらしい。
まあ、結果的には僕たち子供のちいさな反逆が国家のプロジェクトを本当にぶっ壊したわけだ。

「大輔ったら全然連絡よこさないから、どうしているかしらって心配してたのよ。お仕事の方はどう?産休はいただけた?」
「はい。おかげさまで。フィールドワークで仲良くなった子供達には寂しがられちゃいましたけど」
「あらあら、それは本望ね」
未華子は抱いた野望の大きい部分がすぐに解決されたので、似たような事案の再発防止のために新たな目標を定めた。
彼女は研究者の道を選んだ。
心理学、特に児童心理を専門とした学者となり、国家プロジェクトに対して意見できるような専門家を目指したのだ。
彼女はもともと子供受けする方だった。
ひとたびフィールドワークに赴けばどんな相手ともたちまち仲良くなってしまうという特殊能力を持っているらしく、そういう意味では天職だったのかもしれない。
「そういえば、子供の名前はもう考えているのか?」
父が問うと、母が笑った。
「あなた、気が早すぎません?まだ性別もなにも分からないってさっき二人が言っていたじゃないの」
「あの、それなんですが、実はもう決めているんです」
未華子がおずおずと切り出すと、父の目が輝き、母は驚きをあらわにした。
「あら、そうなの?」
「はい、男の子でも女の子でも、この名前にしようって、大輔さんと決めたんです」
「ほう、それで、その名前は?」
未華子と僕は目を見合わせて、一緒にお腹の子供の名前を言った。
(れい)です」

***

「…これが、先生が君たちと同じ歳の頃、経験した物語。
かつてこの国にあったヒトロイド計画というものの始まりと、その終わりについてのお話です。
さて、ちょっと難しいところもあったかもしれないけれど、ここまで聞いてみなさんどう思いましたか?
自分だったら押さなかった?押さずに逃げて自分で直せるようになる?ああ、田辺君はやはりお父さんがロボット分野の方だから。なるほどそれも一理ありますね。
ただ、単なるロボットではなく、一人の友人として過ごしてきた相手に対して、田辺君は本当にそうすることができるでしょうか?
…それでは、先生からの話はここまで。
残りの時間は各班で話し合ってみてください。
自分だったらどうするか、相手がロボットだった場合、相手が人間だった場合、命の終わりがわかった時に、みんなならどうするか。
30分になったら発表してもらいます。
それでは、はじめ」

僕の合図と共に子供達は一斉に机をがたがたと動かして班を作り、話し合いを始めた。
教室の窓は開いていて、外から春の甘い香りが風に乗って入り込む。
僕は小学校の教員になった。
きっかけは、やっぱりゼロだった。
未華子と似た動機がなかったというわけではない。子供の頃からちゃんと向き合い教育し、心や命というものを教えること、それが僕らのような悲劇を防止する最善策であるとも思った。なんせ大人というのはこの子達の未来の姿なわけだから。
でも、それだけではなかった。
僕はゼロに何かを教えるということそのものがすごく楽しかったのだ。
大切なのは一緒に育んできた時間であり、何かを教え、彼が学び、それを身につけ、一緒に笑いあったこと。そこにあった。
だから僕は教員になった。
ゼロとの楽しかった思い出を大切にしながら、きちんとあの頃学んだことを後世に伝えていけるように。
それがあの日、ゼロという男の子の時間を止めてしまった対価だと信じて。
「ゼロが今の僕を見たら、なんて言うのかな」
椅子にもたれかかり、空を見上げた。
もう随分時間が経ったから、もしかしたらもう彼のアンドロイドとしての体もこの世界からは消えているのかもしれない。
そうじゃないとしても、そこにいる彼はもう僕らの知ってるゼロじゃない。
僕らの友人であり、大切な家族だった男の子は、もうどこにもいないのだ。
「先生!」
呼ばれて、顔をあげる。
「はい、なんでしょう?佐々木さん」
僕は自席を離れ、生徒のもとに歩いていく。
もうすぐ生まれくる、あらたなゼロという命を、心の中で待ちわびながら。