紙袋を前後に揺らしながら昇降口を出る私の後ろで、両手で教科書を抱えた緒方が文句を言っていた。アブラゼミの合唱にすぐに紛れてしまったけれど、彼の声色で、私は分かった。今、彼は確かに笑ったと。私は足を止めて振り返る。そこには額に汗を浮かべて私の教科書を運んでくれている少年が、柔らかな空気をまとい微笑んでいた。さっきまで人形みたいだったのがウソみたいに、私は彼が生きているということを今はっきりと感じている。鮮烈な驚きが私の胸の一番深い底に届く。今の彼の笑顔は圧倒的に、私の心を震わせている。そこには計算も、恐れも、無い。そういう不純物は一切無いのだ。幼い子供が母親を見つけて笑ったような、無垢な感情の発露。まるで朽ち果てた廃屋の中で偶然見つけた宝石みたいにキラキラしている。さっきまでこの子はあんなにくすんだ色をしていたのに。一体、どこにそんな表情を隠していたんだろう。私にこんなに無防備な笑顔を向けてくれるのは、和さんくらいだ。もちろん異性では初めてだ。

 私はその場に、立ち尽くし、彼を見つめ続けた。

 頬が熱い。

 それに、心臓の鼓動もヤバいくらい速い。

 しまった。どうしよう。こんなのダメなのに。

 ズルいぞ、こんなの不意打ちだ。

「加藤さん、そんなとこに突っ立ってると熱中症か日射病になるよ」

 私に追いついた、緒方が足を止めてそんなことを言った。

「あ、うん」 

 私は上気した顔を隠すように、彼から逸らすと校門の方に向き直り歩き出した。私の右隣に、今彼はいる。だいたい五十センチくらいの距離。私が同級生の男子とこんなに近距離で並んで歩く日が来るなんて信じられない。生まれてから今まで、男になんてまるで興味がなかったし、はっきり言って嫌いだった。女をモノのように扱いとっかえひっかえしている父親を幼い時から見てきたから。以前、和さんにだけそう言ったことがある。和さんは「男は結局、セックスしたいだけだから。でも、そこが可愛いんだよ」と笑っていたけど。でも、私にとって異性を蔑視する傾向はむしろありがたかった。擬態するのに好都合だったから。アブラゼミが鳴いている。セックスしたいと鳴いている。じわわわわっ、じわわわわっ、という鳴き声が、私にはセックス、セックスと聞こえてくる。

 幻聴かよ。やめてよ。

 まるで、私がセックスしたいみたいじゃん。変態じゃん。