紗代はツクミと使用人たちに世話をされ、玄夜の迎えを屋敷で待った。
──昨日の一件で、屋敷はまだ混乱している。
近隣の人々や、使用人の家族が駆けつけてくれたけれど、なんとか正気に戻って紗代を送り出しにやってきたのは父だけで、比佐と初子の姿はない。
父と比佐は遠方に隠居するという体で転居することになった。たとえ浄化されたとしても、一度穢された土地に元凶が戻って、いいことはないそうだ。
初子は鬼牙の縁者に引き取られ、花嫁修業を一からやり直す。結婚が一年延びることになるけれど、破談になるよりいいと初子も承知したらしい。
紗代は生家を失うことになるが、寂しさはない。
それは、昨日、大切なことに気が付いたから。
紗代の母は、よく泣いていた。幼い紗代は母に笑ってほしかったが、母はいつも悲しげで、「ごめんね」と謝ってばかりだった。繊細な人だから比佐の嫌がらせに耐えかねて泣いているのだと、ずっとそう思っていた。だけど違う。
(お母さまは、わたしが不憫で泣いていたのね……)
玄夜から贈られた品を傷つけられて、紗代は彼の心が踏みにじられたと感じて、悔しかった。悔しくて悔しくて、涙が出た。
自分の大切なものが傷つけられるのは、自分自身が害されるより、ずっとつらいのだ。
紗代は、母に迷惑をかけたという思いがずっとあった。自分が能力を持って生まれていればと、幼心に何度思ったか知れない。母からの愛情を、めいっぱい感じた覚えはない。それは、無能者で母を泣かせる原因の自分が愛されるはずがないと思い込んでいたからだ。
だけど違う。自分は母に愛されていた。自分が思うより、ずっと深く。
つらいこともあったけれど、加地木に生まれて──母の子に産まれて、幸せだったと今になって気が付いた。
だから、この家に思い残すことはない。
これからは、玄夜にこの思いを届けられるようになりたい。
人間に姿が見えなくとも、わたしはあなたがそばにいてくれたら幸せだ。
いつか、言葉にして伝えたい。
月のない夜道に、鬼火が灯る。
祝福と物珍しさが半々の人々に見送られ、玄夜の式のツクミに手を引かれて紗代は加地木の家を出る。
家の前には人力車が止まり、お面をつけた玄夜が上から手を差し出した。
「ああ、本当に紗代はきれいだ。行こう」
「……はい」
彼の手を取って紗代が車に乗ると、見送りの人々がにわかにざわついた。
(見えないのだものね……)
普通の人々には、紗代が一人で軽々と車に乗ったように見えただろう。
けれどもそれにも慣れてきた。皆に見えなくても、彼はここにいいる。
玄夜が嫁入り道具を贈ってくれたおかげで、父は娘を手ぶらで送り出したと後ろ指をさされることもない。父が恥をかかずに済むということは、初子にとってもいいことだ。
(荘宕様はこうなると、予想していらしたの……?)
「うん? なんだ?」
「いえ、なんでも……」
車が動き出すと、生まれ育った町の人々が手を振って見送ってくれる。
町を抜けても鬼火は続き、青い光が点々と山まで続いていた。
「荘宕様の御屋敷は、あの山ですか?」
「そうだ……そうだが、いい加減、その荘宕様というのはやめないか」
「え……?」
「玄夜、と名前で呼んでくれ」
「……く、玄夜、さま……」
顔がカッと熱を持つ。きっと、みっともないほど頬を赤くしていることだろう。暗い夜でよかった。
「いいな、夫婦という実感がしてきた」
「婚礼の日はまだ先ですよ……?」
「そうだな。これからは毎日紗代に会える。それが嬉しい」
「わたしも、うれしいです」
玄夜がめずらしく動きを止めて、すーっと目を逸らした。
(あれ……?)
半分ほど髪に隠れた彼の耳が、ほんのりと赤く色づいているような──
「っ……」
気付いた紗代も照れてしまって、膝の上で手を握りしめて俯いた。
その紗代の手に、玄夜の手がそっと重ねられる。
「大事にする。生涯だ。幸せになろう」
「はい。……あの、ですけれど、わたし……今も幸せです」
はにかみながら想いを伝えた紗代に、玄夜はまた一瞬動きを止めて、彼の手が優しく頬を包む。
(え……)
唇に、やわらかな彼の唇が重ねられた。
「あ、のっ……!」
「心配ない。誰にも見えん」
甘やかに囁かれて、紗代はそっと目を閉じた。
いま一度玄夜に奪われた唇は、いつまでも熱を持ち、紗代の彼への想いを育てていく。
幸せに満ちた甘い二人の生活は、これから始まっていく──。
──昨日の一件で、屋敷はまだ混乱している。
近隣の人々や、使用人の家族が駆けつけてくれたけれど、なんとか正気に戻って紗代を送り出しにやってきたのは父だけで、比佐と初子の姿はない。
父と比佐は遠方に隠居するという体で転居することになった。たとえ浄化されたとしても、一度穢された土地に元凶が戻って、いいことはないそうだ。
初子は鬼牙の縁者に引き取られ、花嫁修業を一からやり直す。結婚が一年延びることになるけれど、破談になるよりいいと初子も承知したらしい。
紗代は生家を失うことになるが、寂しさはない。
それは、昨日、大切なことに気が付いたから。
紗代の母は、よく泣いていた。幼い紗代は母に笑ってほしかったが、母はいつも悲しげで、「ごめんね」と謝ってばかりだった。繊細な人だから比佐の嫌がらせに耐えかねて泣いているのだと、ずっとそう思っていた。だけど違う。
(お母さまは、わたしが不憫で泣いていたのね……)
玄夜から贈られた品を傷つけられて、紗代は彼の心が踏みにじられたと感じて、悔しかった。悔しくて悔しくて、涙が出た。
自分の大切なものが傷つけられるのは、自分自身が害されるより、ずっとつらいのだ。
紗代は、母に迷惑をかけたという思いがずっとあった。自分が能力を持って生まれていればと、幼心に何度思ったか知れない。母からの愛情を、めいっぱい感じた覚えはない。それは、無能者で母を泣かせる原因の自分が愛されるはずがないと思い込んでいたからだ。
だけど違う。自分は母に愛されていた。自分が思うより、ずっと深く。
つらいこともあったけれど、加地木に生まれて──母の子に産まれて、幸せだったと今になって気が付いた。
だから、この家に思い残すことはない。
これからは、玄夜にこの思いを届けられるようになりたい。
人間に姿が見えなくとも、わたしはあなたがそばにいてくれたら幸せだ。
いつか、言葉にして伝えたい。
月のない夜道に、鬼火が灯る。
祝福と物珍しさが半々の人々に見送られ、玄夜の式のツクミに手を引かれて紗代は加地木の家を出る。
家の前には人力車が止まり、お面をつけた玄夜が上から手を差し出した。
「ああ、本当に紗代はきれいだ。行こう」
「……はい」
彼の手を取って紗代が車に乗ると、見送りの人々がにわかにざわついた。
(見えないのだものね……)
普通の人々には、紗代が一人で軽々と車に乗ったように見えただろう。
けれどもそれにも慣れてきた。皆に見えなくても、彼はここにいいる。
玄夜が嫁入り道具を贈ってくれたおかげで、父は娘を手ぶらで送り出したと後ろ指をさされることもない。父が恥をかかずに済むということは、初子にとってもいいことだ。
(荘宕様はこうなると、予想していらしたの……?)
「うん? なんだ?」
「いえ、なんでも……」
車が動き出すと、生まれ育った町の人々が手を振って見送ってくれる。
町を抜けても鬼火は続き、青い光が点々と山まで続いていた。
「荘宕様の御屋敷は、あの山ですか?」
「そうだ……そうだが、いい加減、その荘宕様というのはやめないか」
「え……?」
「玄夜、と名前で呼んでくれ」
「……く、玄夜、さま……」
顔がカッと熱を持つ。きっと、みっともないほど頬を赤くしていることだろう。暗い夜でよかった。
「いいな、夫婦という実感がしてきた」
「婚礼の日はまだ先ですよ……?」
「そうだな。これからは毎日紗代に会える。それが嬉しい」
「わたしも、うれしいです」
玄夜がめずらしく動きを止めて、すーっと目を逸らした。
(あれ……?)
半分ほど髪に隠れた彼の耳が、ほんのりと赤く色づいているような──
「っ……」
気付いた紗代も照れてしまって、膝の上で手を握りしめて俯いた。
その紗代の手に、玄夜の手がそっと重ねられる。
「大事にする。生涯だ。幸せになろう」
「はい。……あの、ですけれど、わたし……今も幸せです」
はにかみながら想いを伝えた紗代に、玄夜はまた一瞬動きを止めて、彼の手が優しく頬を包む。
(え……)
唇に、やわらかな彼の唇が重ねられた。
「あ、のっ……!」
「心配ない。誰にも見えん」
甘やかに囁かれて、紗代はそっと目を閉じた。
いま一度玄夜に奪われた唇は、いつまでも熱を持ち、紗代の彼への想いを育てていく。
幸せに満ちた甘い二人の生活は、これから始まっていく──。