朝食を終えると、それぞれが出かけるべく準備を始める。
「いってくるよ」
「いってらっしゃい、あなた」
「気をつけてね、お父さん」
 昌宏は林業という仕事のために作業着に着替えて先に家を出ていった。
 志乃が作った愛妻弁当を嬉しそうに受け取ってから。
 ミトも志乃からお弁当の入った巾着を受け取ると、鞄に入れて志乃とともに家を出る。
 ミトのアザがある左手には包帯がグルグルと巻かれていた。
 これは下手に周りを刺激しないための措置である。
 ここの村の人たちは、異常なほどにミトの手の甲に浮かんでいる赤いアザに敏感だから。
「忘れ物はないわね、ミト?」
「うん、大丈夫。鍵かけた?」
「ええ、確認もしたわ」
 この辺りの人は玄関に鍵をかけていない家がほとんどだ。
 鍵どころか、窓を開けっ放しなんてことも珍しくない。
 なにせ村は辺鄙なところ故に外から人は来ず、村人全員が親戚で顔見知りなのだから警戒心がまったくないのだ。
 しかし、ミトの家は必ず鍵をかけることにしている。
 それはつまり、村の人たちを信用していないということを意味していた。
 勝手に家に入られないように用心しているのだ。
 最近では朝挨拶に来たスズメや他の動物たちにそれとなく家の監視もしてもらっている。
 なにか不審な行動をする村人がいないかを。
 今のところ不審人物は現れていないが、ちょくちょく嫌がらせをしてくる馬鹿な子供は少なくない。
 石を投げて家の窓ガラスを割ったり、外壁にペンキで落書きをしたり、言い出したらきりがないほどの嫌がらせを散々されてきた。
 子供と言っても、小さな子だけでなく、ものの分別がつくようなミトと同世代の十代後半の高校生や大学生までと幅広い。
 大人が含まれていないのは、この村ではほとんど共働きで昼間にそんな嫌がらせをしている暇がないからだろう。
 子供たちはよく分かりもせず、なぜミトが虐げられているのか理由も知らず、ただの憂さ晴らしと遊び感覚で嫌がらせをしてくるのだ。
 なんて浅はかなのだろうか。
 けれど、その原因は大人たちの態度にも問題があるので、手を出していないから大人たちは関係ないなどとミトは思わない。
 そもそも大人たちは、そんな悪さをした子供を叱らないのだから同罪である。
 怒られないので子供はしていいものと勘違いし、また犯行に及ぶのだ。
 両親としても、村人をすでに敵に回しているようなものなので、文句を言いに行くこともできない。
 忌み子を産んだお前たちが悪いのだと言わんばかりの村人の態度。
 そんなはずがない。自分は忌み子ではない!
 そう叫んだところで、聞き入れる者はこの村の中にはいないだろう。
 凝り固まった観念はそう簡単に解けてはくれないのだ。
 自分の存在が両親に迷惑をかけている。
 それが、どうしようもなく申し訳なくて、悲しくなってくる。
 それでもミトは両親の前で謝ったりしない。
 そんなことをすれば、ミトのために必死で我慢している両親を、逆に困らせるだけだと分かっているから。
 志乃とともに村長の家へ向かうミト。
(せめて家でネットが使えたらいいんだけどなぁ。さすがにそれは村長が許さないか。外と連絡取られたら厄介だものね。でも、常に見られてるのも精神がゴリゴリ削られていくみたいで嫌なんだよねぇ)
 監視されていると分かっていて村長宅へと歩くミトの心は複雑である。
 教科書の入った鞄が重く感じるのはいつものこと。
 けれど、学校へ行けないミトには、村長の家へ行くことでしか勉強も村の外のことを知ることもできない。
 両親は監視という名の付添があれば村の外にも出られるが、ミトが村から出たことはないのだ。
 ミトと外をつなぐのは、村長の家にあるネットのみ。
 それも監視付きというのだから、下手なことはできない。
 たとえば、龍花の町や国へ連絡を取ったりすること。
 これまで考えなかったわけではない。
 自由にならない今の生活はまるで囚人のようで、自分が花印を持っていると知らせることができれば、両親とともにこの村を出て龍花の町に移り住むことができるのではないか。
 そのためには波琉ではない見ず知らずの龍神の伴侶とならなければならないが、両親を助けるためと思えば、今よりはずっと気が楽な生活を送れるはず。
 そう思い、こっそりと龍花の町のことを検索したことがあったが、履歴から村長の奥さんに知られてしまい、パソコンを取りあげられてしまったのである。
 その時は、二度と龍花の町のことを調べないからと頭を下げて、再びパソコンを使わせてもらうことができたが、きっと次はない。
 両親のためにも慎重に動かなければならないと、ミトは自分に言い聞かせる。
 ミトの軽はずみな行動が、ひいては両親の不利益につながるだから。
「お邪魔します」
 鍵のかかっていない村長宅の玄関を、志乃が遠慮なく開けて中に入っていく。
 毎日のことなのでミトも慣れたものだ。
「おはようございます」
「おはようございます!」
 志乃とミトを目にするや、不快感をあらわにした目で見てくる村長の奥さんと村の主婦たち。
 こんな目で見られるたびに臆する気持ちが心に吹き出してくるが、それを表情に出すことはなく、ミトはにっこりと笑顔で挨拶をした。
 ここで刃向かうのは簡単だが、ただでさえ低い好感度を自分から下げるような愚行は冒せない。
 無意味と分かりつつも愛想を振りまく。
 あまり効果が見られないのが残念だ。
 それだけミトが嫌われているということなのだろうが、他人の顔色を窺うのも非情に疲れるのである。
 こういう時必ずミトが思い浮かべるのは波琉のこと。
 波琉の穏やかな笑顔が、ささくれだったミトの心を落ち着かせてくれる。
(ああ、会いたいな……)
 まだ朝だというのに、そんなことを考えてしまう。
 ミトにとって、波琉は闇の中で見つけた光のような存在だ。
 両親以外に嫌われるという事実はミトに大きなストレスとなっている。
 向けられる嫌悪、罵声、嘲笑。
 ミトに笑顔を向けてくれる人など両親にはおらず、夢の中でしか会えない波琉の笑顔にどれだけ癒やされているか、きっと波琉は知らないだろう。
 本当に、どうして波琉は現実にいないのかと、何度悔しく思ったかしれない。
「ほら、邪魔だよ。勉強ならあっちでやりな」
 見るからに気の強そうな村長の奥さんが、作業台の近くにあるテーブルにミトを押しやる。
「はい、すみません」
「まったく、愚図なんだから。誰に似たのかしらね」
「あら、仕方ないわよ。忌み子だもの」
「そりゃそうだ」
 ミトの悪口を肴にして仕事を始める主婦たちに、わずかな苛立ちを感じながらも、心配そうに様子を窺う志乃の顔を見てしまえば、ミトは大丈夫と告げるように笑うしかなかった。
 この程度の嫌みは、今に始まったことではないのだから。