波琉が龍花の町に来てから三日、一週間、一カ月と経ったのだが、一向に波琉と同じアザを持つ子供が現れなかったのである。
「申し訳ございません!」
尚之は平身低頭で波琉に謝罪するが、別に尚之のせいではないことは、波琉もちゃんと分かっている。
そんな理不尽に責めたりはしない。
「見つからないものは仕方がないさ。なにか理由があるのかもしれないし」
「花印を持つ子を生んだ親の中には、なんらかの理由で申告をしない者もたまにおるのでごいます。ですが、ずっと隠し通せるものではございません。学校や就職などすれば、嫌でも人の目に触れ、そこから情報が入ってきます。ですので、それまでしばらくお待ちいただければと……」
尚之は内心冷や汗を抑えきれず波琉に奏上する。
龍神の中には気性が荒い者もいるので、龍神のご機嫌うかがいはある意味命がけだ。
けれど、波琉は天界でも温厚で有名なほど気性が穏やかな部類である。
ともすれば、十年、二十年は待たなくてはならないかもしれないと聞かされても、特に怒りは湧いてこなかった。
「ふーん。そういうことなら、しょうがないね。いいよ、僕は気長に待つから」
それぐらい、龍神にとったらまばたきのような時間なのだから。
波琉の言葉に、尚之は心の底からほっとした表情になった。
「ありがとうございます」
尚之が礼をして部屋を出ていけば、静かなものだ。
この屋敷は神薙である尚之と蒼真以外に、数名の使用人が在中するだけで、他に来訪者もいない。
天界にいた時の忙しさが嘘のように、波琉は手持ち無沙汰にしていた。
この町には龍神を楽しませるために、ありとあらゆる娯楽施設が作られているが、そこに行こうという気にもならなかった。
いっそ、一度天界に戻ろうか……。
そう思ったことは、この一カ月ほど何度となくあった。
けれど、思うだけで行動に起こすことができずにいる。
今、波琉の頭の中を占めているのは、自分と同じ花印を持つまだ見ぬ誰かのことではなかった。
あれは龍花の町に降りた日の夜のことだった。
眠りについたはずの波琉は、気付くと一面に咲き誇る花畑に立っていたのだ。
「ここは?」
現実というには幻想的で、夢というには現実的すぎた。
花の香りも、触れた花の感触も実際のものと寸分違わない。
波琉はこんな夢を見たのは初めてだった。
龍神の頂点に立つ波琉は、時折現実のような夢を見ることはある。
それはこれから起こるだろうことを夢に見る予知夢。
その夢はリアルなものだが、波琉はそれが夢だとその映像を見ながら理解しているし、夢が自分の思う通りに動くことはない。
それが、この夢は、波琉が手を動かしたいと思えば動き、歩きたいと思えば歩きたい方向へ歩くことができる。
自分の意志に沿ったあまりにもリアリティのある夢。
自分がどこかの世界に迷い込んでしまったのではないかと錯覚するほどだった。
その時、波琉の目になにかが見えた。
「赤子?」
波琉は誘われるようにして向かっていくと、花畑の中に生まれてそう日は経っていない赤子が落ちていた。
いや、落ちていたというのは少しおかしいか。
しかし、花畑の中にぽつんとその場に寝ている赤子を見ていると、“落ちている”という言葉が正しいような気がした。
赤子は泣いているようだったが、その声は波琉には聞こえてこない。
「こんなところにどうして……。いや、そもそもこれは夢なのか?」
波琉が考え込んでいる間も泣き続ける赤子が気になり、赤子の方へと歩いて行くと……。
ゴンッという音を立てて顔面がなにかにぶつかった。
「っつ!」
最も痛みを感じた鼻を押さえながら、もう片方の手を前に出して探ると、そこには目に見えないが壁のようなものが存在していたのである。
それはまるで赤子と波琉を阻むようにあり、これでは赤子のところへは行けない。
「ほんとにこれはなんなんだ?」
悩んでいると、次の瞬間、周りから花畑も赤子も消え、波琉は布団の中で目が覚めた。
信じられないように呆然とする波琉はゆっくりと起きあがり、鼻に触れる。
そこは先ほどまで感じていた痛みはなくなっていた。
「おかしな夢だったなぁ。久しぶりに龍花の町に来たせいかな……」
その日はまだ変な夢を見ただけだと思っていた波琉だったが、翌日にはまた同じ夢を見た。
どこまでも続く花畑と青い空。そして、泣いている赤子。
「ほんとにこれはどういうことだろう?」
不思議に思いつつ確認したところ、赤子と波琉を隔てる壁は、花畑と同じでどこまでも続いているようだった。
さらに言うと、壁の強度はかなりありそうで、強めに叩いても、蹴ってみても、ただ波琉の方が痛くなるだけで壊れる気配はまったくない。
「神気で攻撃してみるか」
そう、手を前に出したところで、タイミング悪く夢から覚めてしまった。
本当にあれは夢なのか現実なのか、判断ができない。
いっそ天界に戻って他の龍神たちに聞いて回るべきか。
いや、そもそも龍神というものは寝なくても食べなくても生きていける。
睡眠はあくまで娯楽のひとつである。
波琉もここに来て暇なので睡眠を取っているにすぎない。
人間は夜に眠るものなので、その習慣に合わせているというのもある。
波琉がずっと起きていると、神薙である尚之が休もうとしないそうなのだ。
いつ波琉から呼び出しがあってもいいように、屋敷の中にある神薙専のための部屋で控えていると蒼真から教えられた。
蒼真は気にしなくとも好きな時に休みを取っているようなので波琉も気にしていないが、尚之は違う。
神薙としての熱意が大きく、波琉が寝ないといつまでも起きているから、高齢の尚之のためにも、できれば夜は休んでくれと蒼真から頼まれた。
龍神と違って人間という生き物は弱いから、気をつけてやらなければならないなと、波琉もその願いを受け入れたのだ。
そうして次の日も夜になると寝に入る波琉は、もはや見慣れた花畑の中にたたずむ。
波琉はあらかじめ決めていた。
次に同じ夢を見たら、目が覚める前にとっとと神力で攻撃しようと。
赤子に影響が出ないように離れた場所の壁を壊すべく、波琉は神気を放出した。
衝撃波のような波琉の力は壁にぶつかり、大きな地響きと音を発する。
かなり力を込めたその攻撃に、これならばさすがに壊れただろうと自信満々だった波琉は、変わらず行く手を阻む透明な壁にがっくりと肩を落としたのだった。
波琉がその不思議な夢を見るのは、ほんのひと時の間だけ。
なかばやけくそになっていた波琉は、同じ花印の伴侶のことなどとっくに頭の隅に追いやってしまい、いかにして壁を壊すかを日がな一日考えていたのだった。
どことなく不機嫌そうな波琉を、夢のことなど知らない尚之は、花印を持つ伴侶が見つからないからだと勝手に思い込み、全力で伴侶捜しに力を入れていたが、一向に見つけられずにいた。
それから早いもので三年の月日が経った。
変わらず波琉の伴侶捜しは難航していたが、波琉はもうすっかりそんなこと忘れ去っていた。
時折尚之が報告に来た時、そういえばそのつめりで来たんだったなと思い出すだけで、次の日には忘れている。
今や波琉の興味を引いて仕方ないのは、夢の中の子供のこと。
夢で見る赤子が、どうやら女の子だったことを最近になって分かってきたのど。
赤子の時では男女の区別がつかなかったが、濃い茶色の髪が伸びてくると、ようやく性別の判断ができるようになった。
夢のくせに赤子は時とともに成長していったのである。
まだよたよたとしたおぼつかない足取りで、波琉に向かってくる幼女は波琉に向かってくるにぱっとかわいらしく笑うのである。
この頃には波琉も壁を壊すことをあきらめていた。
なにせありとあらゆる手を尽くしたが、この壁はひび割れすらしなかいのだから、さすがの紫紺の王でもどうしようもない。
壁を隔てて成長していく少女を見ているだけ。
だが、波琉は次第にこのわずかな時間が待ち遠しく感じるようになっていった。
少女も波琉のそばに来たいのか、見えない壁をドンドンと叩いては、無理だと悟ると涙をぽろぽろ流して泣き出してしまう。
それを見て思わず少女を慰めに行こうとして、逆に波琉が壁に激突してしまったことは数え切れない。
なんと忌々しい壁なのだろうか。
声すら通らないその壁のせいで、少女と会話することすらできないのだ。
さらに数年経つと、もうしっかりと立つようになっていた。
そして、相変わらず壁に挑戦を続ける少女を楽しげに見つめていると、ある日いつにない行動を起こした。
周囲に咲き乱れる花をブチブチと摘んでいくと、それを使って文字を作ったのだ。
少女が作ったのは『星奈ミト』という文字。
それと自分とを指差す少女の様子に、波琉は、少女がなにを言わんとするのか理解した。
ようやく知ることのできた少女の名前。
「ミト……」
待ち焦がれたようにその名前を口にすれば、言葉にできぬ歓喜が湧きあがった。
そして、お返しのように花を摘んで自分の名前を作れば、少女は首をかしげている。
「ちょっと難しかったかな」
無理もない。少女はまだ五歳ぐらいの子供なのだから。
代わりに『ハル』とカタカナで文字を作れば、少女は嬉しそうに波琉の連呼しているようだった。
けれど、壁のせいで少女が波琉の名前を呼んでいる声は聞こえない。
せめて少女がなにを言っているか分かる術はないだろうか。
慣れないネットの使い方を蒼真から教えてもらい、読唇術というものを発見した。
これならば少女の言葉を理解できると喜んだ波琉は、蒼真に教材を大量に準備させたが、蒼真はなにゆえそんなものに興味を持ったのか不思議そうにしていた。
まさか夢の中の少女の言葉が知りたいからとは思うまい。
蒼真は深くは追求することなく、淡々と言われるままに教材を用意し、波琉は日中ひたすら読唇術の勉強をするのだった。
教材のDVDを見ながら、自分はなにをこんなにも必死になって勉強しているのかと我に返る時もある。
けれど、少女との話したい、彼女のことをもっと知りたいという欲求が次から次に湧いてきて仕方ないのだ。
ものへの興味が極端に低い己が、ここまでなにかに執着したことがあっただろうか。
そんな波琉が怖れているのは、突然少女の夢を見なくなることだった。
日々成長していく少女が愛らしくも、それが夢の中の住人であることを認めるのが波琉は怖かった。
だから気付いていないふりをして、必死になっている。