龍花の町に降り立った波琉を出迎えたのは、装束を着た神薙である日下部蒼真という少年と、日下部尚之という白髪の老人であった。
 同じ姓を持つということは血縁者なのだろう。顔立ちもどことなく似ている。
「このたびは、龍神の中で最も貴い紫紺の王にお目にかかれ恐悦至極に存じます。私は紫紺の王にお仕えさせていただきます、日下部蒼真と申します」
 そう言って波琉に頭を下げる蒼真は十代中頃ぐらいの年齢だろうか。
 髪の毛一本も許さぬほどきっちりとまとめられた黒い髪と、まるで挑むような鋭い眼差しをしていた。
 神薙というのは只人より神の気配に敏感だ。
 それ故龍神の神気に畏怖する者は少なくないというのに、この蒼真という男は物怖じすることなく波琉の視線から目をそらさなかった。
 丁寧な物腰だが、恐らく彼の性格はかなり我が強いようだ。
 負けず嫌いとでもいうのだろうか。
 これが初対面だが、彼の口から発せられる敬語に違和感を覚えてしまった。
「あー、そういうのはいいよ。僕は堅苦しいのは好きじゃないから」
 すると、蒼真はあっさりと態度を変えた。
「あっ、じゃあ遠慮なく。いやぁ、めっちゃ肩凝るから助かるわぁ」
 途端にだらけた雰囲気になった蒼真は、正座していた足を崩し、自分の肩をトントンと叩いて首をコキコキと左右に動かした。
 次の瞬間、蒼真の脳天めがけてハリセンが振り下ろされた。
 スパーンと小気味いい音がして、蒼真は頭を押さえた。
「なにすんだ、くそじじい! 喧嘩なら買うぞ、ああん!」
 蒼真を叩いたのは、横に座っていた尚之である。
 蒼真はまるでヤンキーのように尚之にガンを飛ばした。
 そうすれば、再びハリセンが飛んできたが、それをしっかり掴んで不敵な笑みを浮かべる。
「甘いわ、愚か者!」
 尚之は、あいているもう片方の手に持った新たなハリセンで、蒼真の頭を横に薙ぎ払った。
 スパーンという音に続いて、ゴンッという音も聞こえてきたのは、蒼真がそのまま床に倒れて頭を打ちつけたからである。
「~~っ」
 蒼真が頭の痛みに悶え苦しんでいる間に、尚之が波琉の前に平身低頭土下座する。
「私の馬鹿孫が失礼をばいたしました。こやつめは少々神薙としての自覚に欠けるところがございまして。本当ならこんな未熟者に貴きお方のお世話をさせるのは許されぬことなのですが、昨今は神薙も人手不足。できるだけ早く優秀な神薙を用意いたしますので、しばらくはこのど阿呆でお許しくださいませ」
「あー、別に気にしないから、彼のままでいいよ」
 波琉の言葉の通りにあっさりと態度を変えた蒼真がなんとなく気に入ったからでもあった。
「なんと寛大なお方。こやつがまた無礼をいたしましたら、どうぞこれで躾てやってくださいませ」
 そっと差し出された巨大ハリセンを、波琉は少し迷った末に受け取った。
 ハリセンを三つもどこから出したのだろうかという疑問とともに。
「ではでは、まずは紫紺様のお屋敷へとご案内いたします」
 波琉はハリセンを興味深そうに見ながら、尚之の後に続いて行けば、後ろから頭を押さえた蒼真も付き従った。
「人間界には面白い武器があるねぇ」
「ハリセンでございます。厚紙でできており、殺傷能力は低いですが、これがまた人の頭を叩くと気持ちいい音を出してくれるので、クセになりますよ。お気に召したなら、そこの馬鹿孫の頭で存分に試してくださいませ」
「おい、こら、くそじじい。なんで俺なんだ、じじいの頭を差し出せよ。しかもなんだ、クセになるって。そんな理由で俺はいつも叩かれてるのか?」
「なにを言う、馬鹿孫が。お前のは教育的指導だ。代々龍神に仕える誉れ高き日下部家の長男だと言うのに、神薙の試験を十回も落ちおって。あの時ほどご先祖様に申し訳なくなったことはないわっ!」 
 波琉にはその十回が多いのか少ないのか分からなかったが、尚之の雰囲気を察するに、かなり多いのだろう。
 波琉が天界から降りたその建物は、龍花の町にある言わば神殿のようなものだ。
 天界から訪れる龍神は必ずこの神殿に降り立つ、天界と人間界をつなぐ重要な建物である。
 その建物を出れば、自動車に乗せられた。
 波琉は物珍しそうに車内のいろいろなてころに触れて、感触を確かめる。
 外を見れば、空高い場所を飛行機が飛んでいた。
「人間界のことは天界から時折様子を見ていたけど、実際に見るのとはまた違うね」
「紫紺様は人間界には来られたことがあるは聞いておりますが、下界には幾年ぶりなのでございますか?」
 尚之が微笑ましげに波琉を見ている。
「一度来たことがあるだけだけどね。けど、その頃の人間には、こんな車や空を飛ぶ乗り物を作る技術は持っていなかったな。牛が車を引いていた」
「ほう、牛車でございますか。それはずいぶんと昔なのですね」
「そうだね。君たち人間にとったら遠い昔のことだろう」
 龍神は神故に寿命などない。
 なので、時間の感覚がひどく鈍く、十年、百年、五百年の差など誤差のうちだった。
 牛が車を引いていたとなると、人間にとったら歴史書の中の話でしかないが、龍神にしたら少し前の話になってしまう。
 それだけ時間の感覚が人間とは違う龍神は、平気で龍花の町に百年ぐらいいたりする。
 なので、尚之としても波琉がどれくらいこの町にいるか気になったのだろう。
「ちなみに紫紺様は何年ほど滞在される予定でございますか?」
「うーん、そうだなぁ……」
 正直、波琉の意志を無視して追い出されるように龍花の町に来たので、いつまでとは決めていなかった。
「とりあえず、僕の伴侶に会ってから考えようかな」
 そう言うと、波琉は袖を少しあげて花のアザがある手の甲を尚之に見せた。
「なんと! 花の印が。これはおめでとうございます。では今回の来訪は伴侶を探しに来られたのですね?」
「うん、まあ、一応そうなるかな。僕はあまり興味はないんだけど、僕の補佐が一度会ってこいってうるさくてね。会ってみて気に入らなければひとりで天界に戻るつもりだよ」
「ほうほうほう。なるほど、承知いたしました! ただちに同じ印を持つ方を照会してみましょう。お手のアザを写真に撮らせていただいてもよろしいですかな?」
「いいよ」
 尚之は隣に座っている蒼真を肘で突く。さっさとしろと叱るように。
「分かったから突くなくそじじい。では、失礼します」
 蒼真は懐からスマホを取り出して波琉の手の甲を写真に収めると、それを操作して龍花の町の本部へと同じ印を持つ者がいないか調べるようにメールを送った。
「龍花の町に登録されている印と紫紺様の印を同じくする子がいないか調べさせておりますので、少しお待ちください」
 憮然としながら話す蒼真に対し、にこやかに微笑みかける尚之が波琉に問う。
「ちなみに、印が浮かんだのはどれぐらい前でしょう?」
 それは一番聞いておかねばならない重要なことだった。
 なにせ龍神は時間的感覚が人間とはまったく違うので、アザが浮かんだから龍花の町に行くかと腰をあげたら、人間界では八十年経っていて、相手の伴侶はすでに亡くなっていた。なんてことがたまにあるのである。
「それほど経っていないよ。アザが浮かんだのに気付いたら、その日のうちに僕の補佐がここに来る旨を龍花の町に伝えてたからね。受け入れが可能と連絡が来たら、すぐに追い立てられてここに来たから」
「そうでしたか。それですとまだお相手も生まれたばかりということですな。いわゆる紫の上にすることも可能ということですな。ぐふふ」
「きめえぞ、じじい!」
 今度は蒼真がハリセンで尚之の頭をスパーンと引っ叩いた。
 波琉だけは意味が分からず首をかしげる。
「なにを言うか、馬鹿孫め。そこには男のロマンがぎっしりと詰まっておるのだ!」
「男のじゃなくてじじいのロマンだろ。全世界の人類に謝れ」
 互いにハリセンを奪い合いながら喧嘩を始める日下部の祖父と孫に、波琉は興味深げに観察していたが、すぐに飽きて外を眺める。
 以前に自分が来た時との町の様子の違いに、時の流れを感じながら。
 よくも悪くも天界は大きな変化がすくないので、こうも変わってしまった人間の世界が面白くはある。
 けれど、それだけ。
 それ以上の感情の揺れを、波琉に与えてくれることはなかった。
「まあ、ちょっとした休暇と思えばいいか」
 そんなつぶやきは、車内でいがみ合っている尚之と蒼真には聞こえなかったようだ。
 龍神が、しかも龍神の中で頂点に立つ紫紺の王をほったらかしにしていて、神薙としてどうなのだろうか。
 瑞貴がここにいたら叱りつけているだろうなと思いを馳せながら、この町で暮らすにあたり、自分の世話係がこのふたりならば問題はなさそうだと波琉は判断した。
 逆に紫紺の王だと仰仰しくされる方が波琉はあまり好きではない。
 まあ、その立場を有効活用する時はするのだが。

 そうこうしていると、波琉が滞在する屋敷に着いた。
 着いたといっても、まだ門の前である。
 尚之が通行書のようなものを警備員に見せると、大きな門が開かれ、車はそのまま中に入って玄関までの道のりを走った。
 玄関に横着けされた車から降りる。
 純和風の建築は、波琉がずっと昔に龍花の町に来た時の記憶とほぼほぼ変わっていない。
 細かい修繕はされているのだろうが、紫紺の王を迎えるのに相応しい荘厳なたたずまいであった。
「さっ、紫紺様、こちらです」
 尚之について屋敷の中へ入っていく。
 靴を脱いで玄関をあがれば、畳の感触が足に触れる。
 昔と分からぬ建物だが、内装は一新されているのだろう。
 新しい畳の香りが鼻腔をくすぐる。
 波琉はそのまま私室となる部屋へと通された。
 この屋敷自体が波琉が龍花の町に降りた時に使うために用意された建物であるが、波琉はこの広大な敷地の中でほぼ同じ部屋しか使っていなかった。
 今回通されたのは前回波琉が私室としてよく使っていた部屋だった。
 おそらく当時の情報が今に伝わっているのだろう。
 尚之と蒼真は、かしこまったように正座して、最敬礼の座礼にて波琉に挨拶する。
「改めまして、ようこそお越しくださいました。龍神の中で最も貴き紫紺の王よ」 
「うん」
「龍花の町にて滞在される間は私めどもがご奉仕をさせていただきとうございます」
「許す」
「ありがたき幸せ。しっかり勤めさせていただきます」
 こうして、波琉は龍花の町での生活が始まった。