彦丸とは従者の名前らしい。
 慌てて「車輪が水たまりに……」と説明するが、どうやら彦丸は悪いとは思っているようで、口ごもっている。

 中の主人が「もうし」と、声を張り上げた。
「どちらにお住まいか、送りましょう。乗ってください」

「え?」

 驚いたのは私だけじゃない。
 ギョッとしたように目を剥いた彦丸が「ですが」と反論しかけたところを、主人の声が「よい」遮った。
 本気なの?

「さあ、どうぞ」

「いいえ結構です。謝ってさえいただければ腹の虫が治まりますし」

 中からくすくすと楽しそうな笑い声がする。
「それでは中で謝ろう。彦丸、早く乗ってもらいなさい」

 でも、こんなに泥がついた衣で入ったら牛車の中が汚れてしまう。さすがにそれは申し訳ないと思う。

 彦丸もまじまじと私を見ては、眉間にしわを寄せるが、当然だ。
 だが彼は主人の命には忠実らしく、乗り口に台を置いた。

「どうぞ」と、私を促してくる。
「さあ、お乗りください」
「はい……。では」

 梅女も一緒にと誘ったけれど、使用人の身だからと固辞する。「私は邸までの案内をしますから」と言われれば致し方なく、牛車には私だけが乗った。

「失礼いたします」

 一応頭を下げて中を見れば、公達がひとり座っていた。

「どうぞどうぞ」

 市女笠を外し、扇の代わりにして口元を隠しながら入る。

 あらためて公達を見ると、大層美しい人だった。