「明隆さま、待って……!」
「っ……!?」
複雑な形に印を結んでいた手がびくりと跳ねて止まり、目を丸くした明隆が沙映の顔を凝視する。
「さ、沙映姫……!?どうして、今が絶好の機会であるのに……」
「ううん、私……わかってしまいました。お願いです、一度だけ……試させて」
「一度、だけですよ」
沙映の瞳に宿る光に、何か感じるものがあったのだろう。一瞬だけ逡巡した明隆だったが、やがてこくりと頷いた。それにうなずき返して沙映は怨霊の姿のある方へと手を差し伸べる。
『……っのにい……どし……わた……ああああああああ!』
「そう、わかるよ」
ぎとん、と怨霊の目が沙映に向けられる。明隆が身構える気配がしたが、沙映は首を振るともう一度怨霊に向き直った。
これは、もしかしたら沙映がなるかもしれなかった姿だ。恋しい人に、ほかに愛する人がいた――それを悲しんで悲しんで、そうしてきっと、死んでしまって。
二人の幸せを、どうしても許せなかった――そういう、悲しい人。
一歩間違えば、自分がこうなっていた。
「わかるよ……」
ぎゅっと傍らの明隆の手を握りしめ、沙映はもう一度繰り返した。
「ただ、好きな人に振り向いて欲しかっただけだものね。でも、叶わなかった。ううん、一度夢を見せてもらったから、もう幸せを手に入れたと思っていたから……」
明隆が握り返してくれた手が、なんだか温かい。その温かさを彼女にも分けてあげたくて、沙映は怨霊に向かって手を伸ばす。そうして、唐衣の姫君に触れた瞬間。
『あなた……私の気持ちが、わかる……の……?』
ようやく、怨霊の顔がはっきりと二人の視界に映し出された。
黒目がちの少したれた優しそうなまなざし、ちょこんとした鼻に、桜色の唇。美女、というのではないが、愛嬌のあるかわいらしい顔立ちをした、若い娘だ。
「ええ、わかります。私も、そうだったから。……ううん、もう少しで、私もあなたになるところだったから。だから、わかります、あなたの気持ち」
『わかって……くれるの?』
うん、と頷くのと同時に、怨霊に触れていた沙映の手がほわりと暖かさを増した。伝われ、と念じれば、そこから柔らかな光があふれ出して、彼女を包んでいく。
「沙映姫、あなた……」
背後で、明隆が驚く声がした。
『ありがとう……そう、わたし……ただ、わかって欲しかったの……ああ、ありがとう』
明隆が背後で何か唱える声がする。今度は、沙映ももう彼を止めなかった。
「……急急如律令」
どこから出てきたのか、明隆の声に呼応してお札が彼女を取り囲む。だが、怨霊――いや、唐衣の姫君は微笑んだまま、光の中へと還っていった。
「……おわ、った……?」
「みたい、ですね」
光が消えるのを見送って、二人、顔を見合わせる。ふは、と笑み崩れた明隆は、がばりと沙映を抱き寄せると、ぎゅうぎゅうと力の限り抱きしめた。
「ああ、沙映姫、あなたは……すごい、すごい方ですよ、本当に……」
「ん、あ、明隆、さま……」
苦しい、と言おうとして、沙映の動きはそこで止まった。肩口に、湿ったものを感じる。これは、まさか――。
(泣いてらっしゃる……?)
それもそうだろう、と沙映は思った。怨霊の存在を感じ取れるようになってから何年かはわからないが、ずっと苦しめられてきたのだ。
背中にそっと手を回し、ゆっくりと撫でさする。明隆が自分から離れてしまうまで、沙映はずっとそうして彼の背をなで続けていた。
「沙映姫、帰ったよ」
「おかえりなさいませ、明隆さま」
季節は春を迎えていた。御所から帰ってそのまま姿を見せた明隆は、桜かさねの冠直衣姿だ。雑袍聴許を受けて、この姿での参内が許されている。
次の除目では位が上がるのではないかと噂され、今勢いのある公達と言えば、という中に名前の入るほどの活躍ぶりであった。
人に問われれば、いい妻を迎えたからだとのろけるので、すっかり愛妻家扱いされている。
実際、明隆の直衣も沙映の手になるもので、よくできているものと評判だった。
風の噂では、中務郷の宮家ではこの明隆の活躍ぶりに、北の方が臍をかんでいるとかいないとか。まあ、今となってはどうでもいい話だ。
「お疲れになったでしょう」
「うん。でも、沙映姫の顔を見たら元気になった」
「まあ」
ころころと沙映が笑うと、明隆もまた目を細めて愛しい妻の隣に腰を下ろした。
「さあ、疲れて帰った夫を癒やしてはくれまいか」
「どうなさったの」
沙映の膝にこてんと頭を乗せて横になった明隆が、ふう、と大きく息をつく。それから、藍の姿を見るとこう口にした。
「今夜はこちらで寝るから」
「っ……!」
途端に真っ赤になった沙映と、含み笑いを浮かべる明隆とを交互に見た藍が、ひょいと肩をすくめると空中に文字を書きふっと息を吹きかける。
これで、壱へと伝言が届くらしい。
「それでは、どうぞごゆるりと」
「さ、お邪魔にならぬよう」
そそくさと立ち去っていく女房たち。さあ、それでは、と勢いよく起き上がった明隆が沙映の腰を抱く。
「ま、待って、あ、あのっ……」
「さ、早く子ができると良いですね」
耳元でそう囁かれ、沙映は真っ赤な顔でうつむくのだった。
END
「っ……!?」
複雑な形に印を結んでいた手がびくりと跳ねて止まり、目を丸くした明隆が沙映の顔を凝視する。
「さ、沙映姫……!?どうして、今が絶好の機会であるのに……」
「ううん、私……わかってしまいました。お願いです、一度だけ……試させて」
「一度、だけですよ」
沙映の瞳に宿る光に、何か感じるものがあったのだろう。一瞬だけ逡巡した明隆だったが、やがてこくりと頷いた。それにうなずき返して沙映は怨霊の姿のある方へと手を差し伸べる。
『……っのにい……どし……わた……ああああああああ!』
「そう、わかるよ」
ぎとん、と怨霊の目が沙映に向けられる。明隆が身構える気配がしたが、沙映は首を振るともう一度怨霊に向き直った。
これは、もしかしたら沙映がなるかもしれなかった姿だ。恋しい人に、ほかに愛する人がいた――それを悲しんで悲しんで、そうしてきっと、死んでしまって。
二人の幸せを、どうしても許せなかった――そういう、悲しい人。
一歩間違えば、自分がこうなっていた。
「わかるよ……」
ぎゅっと傍らの明隆の手を握りしめ、沙映はもう一度繰り返した。
「ただ、好きな人に振り向いて欲しかっただけだものね。でも、叶わなかった。ううん、一度夢を見せてもらったから、もう幸せを手に入れたと思っていたから……」
明隆が握り返してくれた手が、なんだか温かい。その温かさを彼女にも分けてあげたくて、沙映は怨霊に向かって手を伸ばす。そうして、唐衣の姫君に触れた瞬間。
『あなた……私の気持ちが、わかる……の……?』
ようやく、怨霊の顔がはっきりと二人の視界に映し出された。
黒目がちの少したれた優しそうなまなざし、ちょこんとした鼻に、桜色の唇。美女、というのではないが、愛嬌のあるかわいらしい顔立ちをした、若い娘だ。
「ええ、わかります。私も、そうだったから。……ううん、もう少しで、私もあなたになるところだったから。だから、わかります、あなたの気持ち」
『わかって……くれるの?』
うん、と頷くのと同時に、怨霊に触れていた沙映の手がほわりと暖かさを増した。伝われ、と念じれば、そこから柔らかな光があふれ出して、彼女を包んでいく。
「沙映姫、あなた……」
背後で、明隆が驚く声がした。
『ありがとう……そう、わたし……ただ、わかって欲しかったの……ああ、ありがとう』
明隆が背後で何か唱える声がする。今度は、沙映ももう彼を止めなかった。
「……急急如律令」
どこから出てきたのか、明隆の声に呼応してお札が彼女を取り囲む。だが、怨霊――いや、唐衣の姫君は微笑んだまま、光の中へと還っていった。
「……おわ、った……?」
「みたい、ですね」
光が消えるのを見送って、二人、顔を見合わせる。ふは、と笑み崩れた明隆は、がばりと沙映を抱き寄せると、ぎゅうぎゅうと力の限り抱きしめた。
「ああ、沙映姫、あなたは……すごい、すごい方ですよ、本当に……」
「ん、あ、明隆、さま……」
苦しい、と言おうとして、沙映の動きはそこで止まった。肩口に、湿ったものを感じる。これは、まさか――。
(泣いてらっしゃる……?)
それもそうだろう、と沙映は思った。怨霊の存在を感じ取れるようになってから何年かはわからないが、ずっと苦しめられてきたのだ。
背中にそっと手を回し、ゆっくりと撫でさする。明隆が自分から離れてしまうまで、沙映はずっとそうして彼の背をなで続けていた。
「沙映姫、帰ったよ」
「おかえりなさいませ、明隆さま」
季節は春を迎えていた。御所から帰ってそのまま姿を見せた明隆は、桜かさねの冠直衣姿だ。雑袍聴許を受けて、この姿での参内が許されている。
次の除目では位が上がるのではないかと噂され、今勢いのある公達と言えば、という中に名前の入るほどの活躍ぶりであった。
人に問われれば、いい妻を迎えたからだとのろけるので、すっかり愛妻家扱いされている。
実際、明隆の直衣も沙映の手になるもので、よくできているものと評判だった。
風の噂では、中務郷の宮家ではこの明隆の活躍ぶりに、北の方が臍をかんでいるとかいないとか。まあ、今となってはどうでもいい話だ。
「お疲れになったでしょう」
「うん。でも、沙映姫の顔を見たら元気になった」
「まあ」
ころころと沙映が笑うと、明隆もまた目を細めて愛しい妻の隣に腰を下ろした。
「さあ、疲れて帰った夫を癒やしてはくれまいか」
「どうなさったの」
沙映の膝にこてんと頭を乗せて横になった明隆が、ふう、と大きく息をつく。それから、藍の姿を見るとこう口にした。
「今夜はこちらで寝るから」
「っ……!」
途端に真っ赤になった沙映と、含み笑いを浮かべる明隆とを交互に見た藍が、ひょいと肩をすくめると空中に文字を書きふっと息を吹きかける。
これで、壱へと伝言が届くらしい。
「それでは、どうぞごゆるりと」
「さ、お邪魔にならぬよう」
そそくさと立ち去っていく女房たち。さあ、それでは、と勢いよく起き上がった明隆が沙映の腰を抱く。
「ま、待って、あ、あのっ……」
「さ、早く子ができると良いですね」
耳元でそう囁かれ、沙映は真っ赤な顔でうつむくのだった。
END