考えるより先に足が動いていたにもかかわらず、彼女との距離は簡単に縮められなかった。全速力で建物の裏へと回る後ろ姿を見失わないよう、こちらも懸命に走る。
 誰もいない水飲み場を通り抜け、フィリカはさらに先の角を曲がった。そちらには何があっただろうと思いながら、レシーも同じ方向へと走る。
 ようやく追いついた時、倉庫として使われている小屋の陰で彼女はうずくまっていた。背中を丸め肩で息をして、地面に片手をついている。
 何事かと近寄りかけるのとほぼ同時に、いきなり彼女が振り返った──おそろしく青ざめた顔で。口をもう片方の手で覆ったまま、こちらの姿を認めて目を見開く。追ってきていることには、今の今まで気づいていなかったようだ。
 しばらく見つめ合っているうちに、彼女のすぐ前の、倉庫の壁際に群生している雑草の色がおかしいことに気づいた。そちらに目をやったレシーに気づき、フィリカはさらに青くなったように見えた。
 ──唐突に、思い至ってしまった。
 今の彼女と、妹たちを産む前の母、そして最初の出産前に一度里帰りした時の姉……その三人の様子が、とてもよく似ていることに。
 こちらが感づいたのを察したらしく、フィリカは再び唇を引き結んで俯いた。その硬い表情は、推測が当たりであることを裏付けていると思えた。
 立ち上がらない──立ち上がれないのかも知れない彼女にあらためて近づき、傍らに膝をついた。
 「……誰が相手なんだ?」
 極力穏やかに言ったつもりで、実際そうだったはずだが、フィリカは大仰なほどに肩を震わせた。答えない彼女に、
 「やっぱり、あいつなのか」
 そう聞いた。他に考えられなかったし、やはり噂は本当なのかとも……そして仕方ないとも思った。
 だが──彼女は、間髪入れずに首を振った。その反応は当人にとっても意外だったらしく、こちらを見上げたフィリカの目には後悔の色があった。
 レシーは急に混乱してきた。ウォルグが相手ではない?
 「違うのか? じゃあ誰が」
 「…………から」
 「え?」
 「頼むから、誰にも言わないで」
 泣き出しそうな表情と、か細い声。フィリカがこの上なく真剣に、そう懇願しているのは明らかだった。そんな彼女は見たことがなかった。
 再び唐突に悟らされた──彼女は、誰だか分からないその相手を愛しているのだと。そして、おそらくそいつは彼女が戻らなかった数日のうちに会い、その間のことにも関与しているのだと察した。
 混乱の中に、暗い感情が沸き起こる。どこの誰なのか問い詰めたくて、今にも彼女を責めそうになる衝動──未知の男に対する激しい嫉妬。
 誰が、彼女の心を手に入れたというのか……自分が何年努力しても得られなかったものを、たったの数日で。
 己の感情の激しさにレシーは目眩を覚えた。自分がこんなふうに感じる日が来るなど、今まで考えもしなかった。
 「……分かった、言わない」
 それでも、口に出してはそう答えていた。彼女のこれほどに必死な様子を目の前にして、拒絶することはできなかったから。
 「ありがとう」と言ったフィリカの表情が、ほっとしたように少しだけ和らいだ。先ほどの言葉に嘘はなかったが、相手のために彼女が安心したのだと思うと複雑であり、腹立たしささえ感じてしまう。
 ……そしてやはり、相手への嫉妬は今さら消せない。多分、一生消えることはないだろうと思った。