アディが、本人が言った通りの能力者なら、不可解だったことの大半に説明がつく──逃げてきた事情も怪我の理由も尋ねず、ウォルグが現れた時も何一つ聞くことなくフィリカを逃がそうとしたこと。
 加えて、家族は全員亡くなったと小屋での一晩目に話はしたが、いつ頃のことかまでは説明しなかった。だから、彼が「普通」の人間なら知っているはずがないのだ。
 それ以外に、どんな記憶をどれだけ彼が「視た」のかは分からない。触れられる機会は何度もあったから、彼が言うように、かなり多くの記憶を、つまり過去を知られていてもおかしくないだろう。
 そうは思っても、それでもなお、アディのことを恐れる感情は、フィリカの中に湧いてこなかった。ましてや気味悪く思う気持ちなど、心の隅まで探しても存在しない。
 様々なことをすでに彼が知っていると考えても、少しも不快ではないのだ。自分でも不思議には思うが、本当にそう感じている。
 ──だが、彼にとってはそうではないのだろう。他人の記憶を知ることでどんな思いがするものなのか……ごく普通の、良識ある人間がそんな能力を持つのは、決して愉快ではないであろうことは想像がつく。アディはとても生真面目だから、なおさらではないだろうか。
 それに、人間は、良い記憶だけを残しておけるようにはできていない。むしろ、そうでない記憶の方が、心に焼き付いて消えない場合が多いのではないだろうか。
 フィリカに限って言えば確実にそうで、そもそも良い思い出と言える事実自体が少なかったと思う。……そんなフィリカの記憶など、確かに読みたくもないに違いない。
 他人の記憶に振り回されたくない、という言葉はこの上ない本心だろう。それはよく分かる。
 分かっていながらなお、近づくなという言葉は受け入れ難く感じている自分がいる。
 ──彼に、近づきたかったから。
 当人がどう考えていようとも、アディを恐れてはいないことを、伝えたいと思うからだ。
 けれど、近づく素振りを見せれば、彼はそれだけでも嫌な顔をするだろう。昼間、目が合っただけであれほど苛立ちを見せていたのだから。
 今やフィリカは、一刻も早くアディの傍から消えるべきなのだという結論に達している。自分の気持ちを伝えたい欲求はあるが、そのために彼に不快な思いをさせたくなかった。拒絶の表情を見せられるのも辛い。
 互いがこれ以上傷つかないためには、もう近くにいない方がいいのだ。おそらくあと二刻もすれば陽が昇る。国境が近いことは、休息を口にした彼の態度から察していた。今日歩いてきたのと同じ方向を目指して行けば、一人でも何とか戻れるだろう。
 手の届く所に荷物があることを確かめながら、明るくなったらすぐに出発しようと考える。……彼はその時、目覚めているだろうか。だとすれば、別れの挨拶はきっとひどく素っ気ないものになる。
 例えば、当然だが握手などは絶対にさせてもらえないだろう……アディの、不思議な安心感を与えてくれる手。