むしろ、その逆だった。
 彼の口づけは優しくて、安心感を与えてくれるものだったから──思い出すたびにあの時の感覚が鮮明に蘇ってきて、身体の隅々に再び温もりが行き渡る心地がする。……つまり、嬉しかった、と言って差し支えなかった。
 だから、全く気にしなくていいのだと──アディが謝って背中を向けた時、少しでも早くそう言うべきだった。それなのに、うまく伝えられるかどうか急に不安になり、結局一言も口に出せなかった。
 できることなら今からでも伝えたいと、心の底から思っている。だからあれからずっと、半日が過ぎた今も、気がつけば何度となくアディの顔を見てしまっている。話を切り出すためのきっかけを何とかつかめないかと考えながら。
 しばらく見つめているとアディは必ず気づいて、振り返る。そのたびフィリカは、彼の目の中に苛立ちを見つけ、口を開く勇気が後戻りするのを感じながら目を伏せる。そうしてしまった後、アディのかすかなため息を耳にするのも、ほぼ毎回のことだ。
 今や彼からは、傷の具合を確かめる時にしか距離を縮めてこない。それさえ、できるだけ丁寧には診ながらも、早く終えてしまいたいと考えているのは引きつった表情でありありと分かった。
 その全てに、彼の後悔が自分の思い違いではないと認識させられるばかりで……ただただ辛かった。



 確かに、アディは後悔していた。だがその理由はフィリカの推測とはいくぶん違っている。
 ──最初は、軽く触れ合わせるだけのつもりだった。だが実際に唇を重ねた瞬間、抑えがたい衝動にとらわれた。そうする前よりももっと、彼女に触れたくてたまらなくなった。
 あの時、フィリカが動かなければどうなっていたか……どうしていただろうかと思う。
 抑制が利かなくなっていたのは間違いなく、もし彼女が身体を押し戻す仕草をしなければ、確実に取り返しのつかないことになっていた──
 もし次に同じような状況に陥ったら、今度は絶対に止められない。
 ……だからもう、彼女に近づきたくはなかった。
 幸いフィリカからも距離を縮めてはこないが、物問いたげな視線は昨日から数えきれないほど感じている。無視し続けるべきだと分かっているのに、耐えきれなくなってつい振り返る。そして目が合った途端、意志を通しきらない自分に苛立つ。
 その苛立ちを自らに向けられたものと解釈するらしく、フィリカはそのたびに傷ついた色を目に浮かべ、視線をそらす。
 理由の説明もせずに、ただ彼女を傷つけている自分がますます腹立たしく、無意識にため息をついてしまう。それがフィリカの誤解に追い打ちをかけていることも、気づいている。