アディは黙って器を軽くゆすいでから、新しく水を入れて再度フィリカに差し出した。……当然こちらにも水袋はあるのに、調理にも食事時にも、彼はほとんどの水を自分の分から使っている。
 しかし受け取るまで手を引っ込めないという雰囲気がひしひしと感じられたので、フィリカは器を受け取った。それを飲み終えるのを見てから、アディは調理の時からフィリカが脇に置いていた外套を手にし、こちらの肩をくるむように掛けてきた。
 ……近づかれても、危険を感じるわけではない。なのに妙に落ち着かなかった。汗と土埃の匂いが分かるほどの距離にアディが来ると、急に意識が尖ったように過敏になる。こんなに近い距離で接したことのある異性の他人は、馬鹿な真似をしようとした連中を除けばレシーぐらいだが、彼が相手の時には全く感じたことのない緊張だった。
 「……あの」
 「ん?」
 思いきって声に出した一言目に、アディは敏感に反応した。顔を覗きこみ、次の言葉を待ちながら見つめてくる。
 表情の、顔色のほんの少しの変化でも、見逃さずにいようとしている目だと思った──例えて言うなら、病気の小さな子供を見ている親のような。実際にこんな目をしていた記憶がある相手は、父ではなくロズリーだが。父はいつも、もっと鋭くて厳しい視線だった。甘やかすどころか、ごく普通の愛情表現さえ、めったに見せはしない人だった──
 「寒いのか? それとも傷が痛むか」
 湯が沸くまでの間に、右腕の傷の様子は再び見てもらっている。幸い化膿の兆候はなかったし、出血しているわけでもなかった。その時、痛みがないわけではないが耐えられる程度だとはっきり言ったはずだが、フィリカの表情に何を見たのか、そんなことをアディは聞いてくる。
 ……慣れていなかった。ロズリー以外の人間に、口にしないことにまで考えを及ばせて気遣われるようなことは。
 「まだ少し熱はあるな」
 「──いえ、そうじゃなくて」
 額に当てられた手から反射的に頭を避けながら、フィリカは再度口を開いた。他意などないと分かっていても、触れられると緊張して少し息苦しい。おかしな状態だと自分でも思う。昨夜は平気だったのに、今はそうでないのは何故なのか。
 声に動揺が出ないようにと、首と胸の間に手を当てた。服の下のその位置には数少ない遺産──自分にとっての護符とも言うべき物がある。
 「あの、……気遣ってくださるのは有難いと思いますけど、そういうのに慣れてないんです、私。
  ──手を貸していただきたい時があったらそう言いますから、あまり気にしないでもらえますか」
 失礼な言い草だと、言いながら思っていた。命の恩人と言っても大袈裟ではない相手に、気遣ってほしくないとは勝手すぎる。せめてもっと遠回しに、角が立たないように言葉を選べばいいものを、どうしてこんなに無愛想にしか言えないのか。
 自己嫌悪に陥りかけていたその時、驚いたことに「分かった」と、アディはあっさり頷いた。気分を害した様子どころか、戸惑いさえも全く見せずに。
 「その代わり、今言ったこと──手が要る時は必ず言うってのは徹底してくれるか。つまり絶対に無理はしないって、約束してほしい」
 彼が内心でどう感じたかは分からない。しかし、どう考えても勝手な言い分を、少なくとも表向きは反論なしで受け入れてくれた。……それなら、こちらもできるだけは応えなくてはいけないと思った。
 「分かりました。約束します」
 間を置かずにそう返すと、今度はアディの方が驚いたように目を少し見開いた。しばしの後、その目元が安心したように和む。
 ──実際の表情は違うのに、その時の彼は笑顔のように見えた。