「レシー」
彼女がようやく顔を上げる。家名でなく名前を、しかも略形で呼ばれたのは久々だった。
「気遣ってくれるのは、有難いと思ってるけど──でも私は、本当に今のままで構わないし不満もないから。だからその話はもうしないで、二度と」
きっぱりと、彼女は言い切った。……本音が全て言葉通りとは、レシーにはとても思えなかったが、この雰囲気では「分かった」と答えざるを得なかった。それを確認するように軽く頷き、彼女は背中を向ける。
そうしてもう振り返ることなく、自身の宿舎に続く廊下を歩いていった。
入隊以来、彼女は家名のみで通し、自分から名前で呼ばせることはない。ごくたまに略形で呼んでも怒りはしないが、愉快には思っていないことも知っていた──ましてや、本名で呼ぶことに関しては。
正式な名はフィリカ・メイヴィルという。
彼女は訓練生時代からの同期であるとともに、幼馴染みでもあった。フィリカの方がどう認識しているかはともかく、子供の頃から知っている間柄なのは本当だ。
先祖の一人だという学者にちなんでご大層な名前を付けられているが、レシーの生家は、何代も前から食料品を中心に扱う卸売業を営んでいる。同種業者の中では手広くやっている方で、取引相手には上流の店も少なくない。同時に、自前で個人客用の商店を一軒、中心街からはやや離れた場所で経営している。商品の値は卸値にわずかだけ上乗せしたもので、つまり暮らし向きのあまり楽ではない人々を対象としていた。
フィリカに初めて会ったのは、その店でだった。もう十二・三年も前のことになる。
自分が八歳ぐらいの頃だから、彼女は六歳か七歳だったろうと思う。父親に連れられて手伝いに出向いていた時、母親らしい年頃の女性──乳母役の使用人だと後から聞いた──と一緒に、客として店にやって来たのが最初だ。
その頃から、フィリカはあまり表情も言葉も表に出さない、妙に大人しい子供だった。すでに髪の短さも服装も少年のもので、だから出会ってしばらくは男だと思っていた。隙を見て話しかけたり遊びに誘ったりしたが、彼女はいつも困ったような顔をして黙っていた。綺麗な顔して澄ましちゃって面白くない奴だなと、相手にするのをやめかけた頃、実は女の子だと知ったのだった。
何故少年の格好をしていたのか、本人が語ってくれたことは一度もないが、彼女の家の元使用人が同じ町の中に住んでいたし、界隈ではそれなりにメイヴィル家の話は広まっていた。だからおおよその事情は、切れ切れにだが耳にしている。
フィリカの母親が、彼女を産んですぐに亡くなったこと。父親は、代々軍人家系の家を継げる男子を望んでいたこと。そのために娘を初めから男として扱い、教育したということ。
幸か不幸か、フィリカには軍人としての才能があった。訓練生の初期から、座学でも各種訓練でも、彼女に敵う生徒はほとんどいなかったのだ。特に剣術と体術では圧倒的で、「あれは本当に女か?」と教官にさえ噂されるほどだった。