だから恋人も妻も、ましてや子供も持つつもりはなかった──だが。
 いつの間にか、再び赤ん坊に視線を落としているフィリカのすぐ傍まで近づいていた。母親の腕の中で、赤ん坊は何の不安もない様子で眠っている。
 アディが覗き込んだ直後、唐突に赤ん坊のまぶたが開いた。その目が、迷いのない動きでアディの方に向けられる。
 透き通るような淡い緑。
 自分と、全く同じ色の目──この赤ん坊は、本当に俺の子供なんだと、その時強く実感した。
 赤ん坊は、しばらくこちらを見つめていたかと思うと、またもや唐突に、にこりと笑いかけてきた。それだけでなく、アディに向かって小さな手を一心に伸ばしてくる。
 え、とフィリカが声を漏らした。信じ難いものを見たかのように。
 ほとんど無意識に、アディは赤ん坊の手に触れていた。あまりにも小さくて、握るのは怖く思えて躊躇していると、赤ん坊の方からアディの指を握ってきた。思わぬ力強さで。
 ……本当に、ほんのちょっとしたことで壊れてしまいそうな、脆い存在に感じられる。それでいて、こんなにも熱い体温と力を持った確かな存在でもあるのだと、初めて知った。
 指をつかんだまま声を上げて喜ぶ赤ん坊の姿を、フィリカはひどく驚いた表情で見ている。どうしたのかと目で問いかけると、
 「この子、すごく人見知りなんです。初対面の人に笑いかけるなんて初めてで……こんなこと、一度もしたことないのに」
 という説明が返ってきた。声に含まれた戸惑いが次の瞬間、確信に近い響きに取って代わる。
 「もしかしたら──分かるのかも」
 それ以上フィリカは言わなかったが、後に続くであろう言葉は想像できた。
 ──目の前にいるのが父親だと分かるから。
 そこまではっきりした理解ではなくとも、赤ん坊がアディに、特別な何かを感じ取っているのは確かなのかも知れない。母親の彼女が人見知りと評するからには、本当にそうなのだろうから。
 赤ん坊を見つめるフィリカは、今は見るからに嬉しそうに、穏やかに微笑んでいた。そこには迷いも後悔も、その他負の感情は何一つ浮かんでいない。
 今の彼女は幸せなのだ。
 そう思い至った途端、アディの胸が、ひとつの思いに満たされてくる。初めて感じる、快い暖かさを伴った感情──彼女と赤ん坊がすぐ傍にいて、その姿を見ていられることがこの上なく嬉しく、そして幸せだと感じている。
 ……そんな幸福感は、今まで知らなかった。
 カジェリンが、ボロムの手紙に「来なければ後悔する」と書いた理由が、分かったような気がした。