◇◇◇
……不覚だ。一生の不覚だ。
なぜ俺はこうも、二度までも。
夜はすっかり明けた頃かと思うのに、この洞穴の中へは外界の光が届かないため、時間の感覚が狂いそうになる。
この場所は知ってる。早苗さんを連れ去った青衣の塒。それも、崩落した社殿の瓦礫の上だ。
俺の縛られた両腕には、見覚えのない紋様が刻まれている。どうやら呪いの類らしく、芒色の山犬の姿に変化出来ないばかりか、引き千切ろうにも力がまるで入らない。
万事休すとはまさにこのこと。俺の正面には、あの憎き青衣が、不敵な笑みを浮かべて座り込み、煙管を蒸していた。
「…野犬の小僧。あの時はよくもこの儂に牙を剥いてくれたのう…。」
青衣の首と腕に残るは、山犬の深い噛み痕。義嵐と俺の牙による傷だ。大方、怪我を負わされた報復をするつもりか…。
俺だけがここに連れて来られた経緯は、少し前に遡る…ーーー。
ーーー
…早苗さんと共に洞に潜み、しばし休養をとっていた頃。そんな俺の耳に、何者かがこの洞へ近寄る足音が聞こえた。
「……?」
覚醒し、目だけを外へ向ける。
そこに立っていたのは、一匹の白い猿。
緋衣の所の…?いいや、連中は皆身なりを気遣っていた。目の前にいるのは、どこかやつれた野生の猿だ。もしくは、
「……青衣の手下か?」
俺の低い唸り声に対して、猿は毛を逆立てる。よく目を凝らせば、その後ろから一匹、また一匹と別の白猿が現れる。
あっという間に数を増し、三十匹を超える猿が洞の前に集結した。
皆一様に毛を逆立て、歯を剥き出す。
多勢に無勢だ。今一斉に襲い掛かられたら、俺ひとりでは早苗さんを庇いきれるか分からない。こんな時、あのお調子者の義嵐の不在を恨めしく思う。
「………ん、んん…。」
俺にもたれ掛かる早苗さんが、少し身じろぐ。だが、よっぽど疲れていたんだろう。深い眠りに落ちたまま、覚醒することはなかった。
俺は早苗さんの穏やかな寝顔を見つめ、その薄紅色の頬を指先でなぞり…、
「………一歩でも中へ入ってみろ。この俺が頭を噛み砕いてやる。」
猿の群れを睨み、威嚇する。
迫力で言えば、本来の山犬の姿には劣るかもしれない。しかし猿達を怯ませるには充分な効果があった。
怖気づき、石のように動けなくなってしまった猿達。しかしその場から逃げ出すでもなく、途方に暮れている様子だ。
奴らにも後に引けない理由があったのだ。それは例えば、早苗さんと俺を捕らえるよう、奴らの大将から命令されたとか。
「……全く、揃いも揃って貴様らは腑抜け揃いじゃ。“野犬一匹と小娘に躊躇して良い”と、儂がそう命じたか?」
猿達の背後から現れたのは、青い髪に青い着物。巨大な人間の姿をした、あの不遜な青衣だった。
「猿共の知らせ通り。もう一匹とは逸れたようじゃな。」
「……お前と同じ、得体の知れない女のせいでな。」
俺の言う“女”のことを、青衣もまた知っていたらしい。眉が引き攣るのを見逃さなかった。
「“緋衣”か。…あのたらし者め。まだ儂の縄張りに住み着いておるとは。奴に何を吹き込まれたか知らぬが、池泉の主はこの儂、青衣じゃ。
…野犬の小僧、用があるのは貴様一人じゃ。娘をそこに捨て置け。貴様を儂の塒へ連れて行く。」
「………誰が行くか。
何のつもりで俺を捜していたかは知らないが、俺は早苗さんを連れて狗祭りへ向かう。そして…狗神の判断を仰ぐ。」
狗神。その名は青衣の怒りを簡単に刺激した。
体を猛らせ、人の姿の何倍も質量のある、青い狒々の姿へと変貌する青衣。そんな主人の怒りを察知し、周囲の猿達は蜘蛛の子を散らすように惑いだす。
しかし、外皮から漏れ出る殺気とは裏腹に、青衣の声色は恐ろしいくらい落ち着き払っていた。
【…残念であったな、野犬めが。狗神は儂の試練を全て承知しておる。
大方、儂を次代狒々王と認めたのじゃろう。使いである貴様を直接この手にかけることは出来ぬが、…遠回しに甚振る術ならば、儂はいくらでも知っておる。】
青衣が勿体付けた動きで、俺達の潜む洞の入り口に両手を当てがう。
「……っ!!」
【よくも儂の社殿を壊してくれたのう。貴様らも同じ目に遭わせてくれるわ…。】
奴の剛腕にかかれば、こんな洞など簡単に破壊出来る。
どうする?早苗さんを外に連れ出せば、猿達の恰好の的だ。
「……クソッ…!」
躊躇してる暇はない。
俺は早苗さんを抱き締め、洞の外へと飛び出すため、片膝を立てる。
その時だった。
「ーーー……………っ!?」
俺の本能が“動いてはいけない”と警鐘を鳴らした。ぞわりと総毛立ち、頭から氷水を被ったような緊張に襲われる。
それは猿達も、青衣も同様だった。何か大きな獣の歯牙が首元に迫っているような恐怖。
その感覚は、俺と…そして青衣にも覚えがあった。
振り向けないが、気配と匂いで分かる。
「……なんで…………。」
洞の奥底から忍び寄る、俺よりも何倍もの体格と畏怖を持つ、強大な獣の息遣い。
「…………“狗神”……。」
なぜこんな場所に。
まだ巡礼の途中だ。最後の聖地で待つはずの重鎮が、なぜこんな所に…?
青衣は顔色を真っ青に染め、その場から動けずにいる。その表情からは、奴がどれほど狗神を畏れているかが見て取れる。
洞を壊すことなど、もう意識の外だろう。
「……ッ!!」
狗神の口吻が、音もなく俺の耳元に寄る。
そうして告げられたのは、俺が到底容認出来ない命令だった。
「…………あ、“青衣に従え”と…早苗さんを一人にしろと……?
そう、言うのか…っ、狗神…っ。」
狗神からの命令に、俺は何ひとつ納得できなかった。
犬居の娘を最後まで護り抜くのが、我らお使いの使命ではなかったのか。
犬居の娘の巡礼の成功は、狗神自身の望みではなかったのか。
「……早苗さんは…人の身だ……。
こんな山中に捨て置くなんて……俺にはできない……。」
俺の中の山犬の本能が“狗神に従え”と叫ぶ。それを理性で必死に抑え込む。そんな命令を聞いてしまえば、彼女はどうなるんだ…?
こんな窮地でも、疲れ切った早苗さんは未だ、安らかな寝顔を浮かべている。
ーーー護りたい…。離したくない…。俺は……。
葛藤に苛まれる俺に助け舟を出すように、また狗神が囁いた。
「……………それは、信じていいのか……?」
狗神は言った。
“決して早苗さんを死なせない”と。
我が主神ながら、その考えは微塵も読めない。恐らく俺だけでなく、山犬の誰もが理解し得ないだろう。
それでも…悲しきかな。俺はこの神の“使い”なのだ。
己の首に触れる。そこに刻まれた紋様を消し去ってしまいたい。しかしそれが叶わないことも、重々承知していた。
「………………。」
俺は本能に従った。
早苗さんの体を、洞内に溜まった落ち葉の上に、そっと横たえさせる。
その安らかな、愛おしくてたまらない寝顔を目に焼き付けて…、
「……青衣、俺はお前と共に行く。猿達を一匹たりとも彼女に触れさせるなよ。」
芒色の山犬の姿へと変化し、その場に立ち尽くす猿達に向けて、牙を剥いて威嚇した。
すくみ上がり、猿達の中にはとうとうその場から逃げ出す者も。青衣だけは眉ひとつ動かすことなく、
【…儂に付いて来い。】
そう短く吐き捨てると、一刻も早くここから立ち去りたいという様子で、塒のある方角へ身を翻した。
洞から外へ出た俺は、尾を引かれる思いで、後ろを振り返る。
狗神は既に姿を消しており、薄暗い洞の中には、小さな早苗さん一人が横たわるだけだった。
ーーー早苗さん……。
ーーー
回想を終え、拘束状態の俺は、正面の青衣を睨む。
「……それで?俺をどうする?
傷の報復として、同じ目に遭わせるか?」
命乞いはしない。奴が俺に触れた瞬間、その喉笛を噛み切るだけだ。そしてさっさとここから出て…。
「残念だがな、儂は貴様を直接痛め付けられんのだ。何せ貴様は、重要な“狗神の使い”であるからな。
…貴様はただこの場所で、犬居の娘が宝を持って参るのを待てば良い。」
「……っ!?」
青衣の言葉には含みがあった。
「それ、どういう意味だ?まさか、早苗さんの身に何か…。」
「知らぬな。儂はとうに、“今回の娘”を諦めておる。
貴様は言ったな?“猿を一匹たりとも娘に触れさせるな”と。約束通り、儂は猿を一匹たりとも嗾けぬ。
あの娘は今頃、山中を宛てもなく彷徨い、何かの偶然で池泉に辿り着くか。… あのまま野垂れ死ぬか。
そうなればまた十年後に、別の犬居の娘が送り込まれるだけじゃ。
…そうして巡礼は続いて来たのではないか。」
青衣の真意を察し、俺は激しい怒りを覚えた。
この体に施された呪いは、腕だけでなく、全身の自由までもを奪っている。青衣の方から接触しない限り、俺は永久にこの場に留まり続けるだろう。
「……お前は俺に直接手を下せない。だから、俺をここに縛り付けて、飼い殺すつもりか…!!」
早苗さんたった一人で、俺と義嵐の助けも無しに深い山の中…生きて池泉に辿り着けるはずがない。ましてや、水中の宝を持ち帰るなんてことが出来るはずがない。
遭難、野生の獣、飢え…。山の中での生存率は、極めて低い…。
青衣は早苗さんを見殺しにし、次の犬居の娘を待つ気なのだ。
なんて狡猾な男。憎くて憎くてたまらない。あの不敵に歪む顔を食い潰してやりたい。
「………クソッ…何が、“信じる”だ……。」
狗神は言った。
“青衣に従え。”
“早苗さんを死なせない。”
あの言葉は嘘だったのか?
早苗さんの巡礼を中断させるための、口車だったのではないか?
俺の中で不信感と、怒りが増長していく。
拘束された体を無理矢理解こうと、俺は大きく体を反らせた。
同時に、全身に鋭い痛みが走る。無数の針を刺し込まれるような、火で焼かれるような、未だかつて経験したことのない痛みだ。
「………ッ…!!」
激痛に一瞬怯むが、諦めてはいない。俺はなおも抵抗を続ける。
…しかし、体の拘束が解ける気配は少しも無かった。
「愉快じゃのう、山犬の小僧。無駄な足掻きは命を縮めるだけじゃ。首を垂れ、儂に命乞いをしてみろ。」
俺の姿を嘲る青衣。
その不遜で傲慢な態度に、誰が屈するものか。誰が諂うものか。
早苗さんを救う手立てが、生死を確かめる術が、今の俺には無い。
それは自身の死よりも、よっぽど恐ろしいことだった。
「…お前の機嫌を取るくらいなら、早苗さんと一緒に彼の世に逝く方が、千倍良い。」
***
明け方の優しい陽光を感じて、わたしはゆっくりと意識を浮上させました。
もたれかかっていた木から体を起こし、辺りを見回しますが、周囲に生き物の姿はありません。
意識を手放す直前に感じた獣の気配…。あれは夢だったのかしら。
【キキッ!】
「!」
少し遠くから鳴き声がして、反射的にそちらに顔を向けます。
白い毛に、右目の傷。ここまでわたしを導いてくださったお猿が、少し離れた木のそばで、わたしのことを待っていました。
よく目を凝らせば、お猿の姿の向こうに、きらきら光るものが見えます。
ゆっくりとその場から立ち上がり、お猿の方へ、光るものの方へ、一歩一歩と近付いていきます。
「……あっ…!」
その正体に、わたしは声を上げました。
朝日を反射して光る水面。透明な水を湛えた広大な池泉…瓢箪池が、そこに広がっていました。
とうとう、目的の場所に。二つ目の試練の場所に戻って来たのです。
「…あ、ありがとうございます…!
なんて、お礼を……。」
体の疲れも吹き飛んでしまうほどの感動に震え、わたしはここまで導いてくれたお猿にお礼を述べます。
これまで無言を貫いていたお猿が、ふいに口を開きました。
【礼には及びませんわ。早苗様。】
「!」
そのお猿の澄んだ声に、わたしは驚きを隠しきれません。声音から察するに、どうやらこのお猿は、女の方であるようでした。
「…お、お猿さま、言葉が話せたのですね…。」
【…青衣様は、我ら猿が口をきくことをお許し下さいません。ご挨拶が遅れ、申し訳ありませんわ…。
私は青衣様の側近の、あけびと申します。以後、お見知り置き下さいまし。】
「あけびさま…。」
道中、わたしの空腹を満たしてくれた、淡紫の実の味を思い出します。
「山中助けていただき、ありがとうございます。青衣の命令で、わたしを導いてくださったの…?」
青衣はわたしを生かさないものと思っていました。
あけびさまは浮かない顔で返します。
【…いいえ。私は青衣様の命令に背き、独断で早苗様をお連れしたのです。】
「え……?」
あけびさまは自身の右目の傷に触れながら、ポツリポツリと言葉をこぼします。
【…青衣様は恐ろしいお方です。己の意にそぐわない者は排除し、気分次第で、家来の猿を傷付けることも躊躇しません。】
「……まさか…。」
痛々しい傷の正体は、自分の主人の手によるものだと言うのでしょうか。
【早苗様をお護りしていた、芒色の毛並みのお使い様も、今頃は青衣様の手の中です…。】
「……そんな…。」
やはり仁雷さまは、わたしが眠っている間に連れ去られてしまったようでした…。
脳裏に青衣の恐ろしい形相が浮かびます。仁雷さまの身が心配で、わたしの胸は痛いくらいに嫌な動悸を繰り返します。
【青衣様はもはや、早苗様に巡礼の試練を与えるおつもりはありません。
…ですが、私は…猿達は、どうしても早苗様に試練を達成していただきたいのです…。】
あけびさまの声は震えています。
この方もまた、どれほど苦しい思いをしているか。どれほど恐怖を抱えているか。それらが痛いほど伝わってきて、わたしは思わず、彼女の小さな白い背中にそっと触れました。
【…早苗様の、青衣様への臆さぬ物言い。そして身を呈して私を救って下さった勇敢さ…。
あなた様ならきっと試練を達成し、青衣様の目を覚まさせることが出来ると信じているのです。】
「あけびさま……。」
あけびさまの憐れなまでの懇願を受け、わたしは意を決しました。
あけびさまに導いていただき、食べ物を教えていただいた。あの助けが無ければ、わたしは今この場に生きて立ってはいないでしょう。
瓢箪池を見つめ、彼方に弧を描く反橋を見つめ、
「……参りましょう、あけびさま。
案内をお願いできますか…?」
水底に潜むという蟹の姿を想像しました。
わたしはあけびさまに導かれ、瓢箪池に掛かる反橋を訪れました。
瓢箪の括れた場所。池の東側と西側とを繋ぐ、長く大きな反橋は、遠目からでもその緩やかな弧を描く姿を確認することができました。そばに寄れば、その大きさに圧倒されてしまいます。
橋を渡り、池の中心辺りに差し掛かったところで、あけびさまが欄干にヒョイと飛び乗りました。
【ここから、宝を見下ろせますわ。】
あけびさまに続き、わたしも欄干から少し身を乗り出します。
池泉はかなりの深さがありそうですが、水は清らかで、水中に棲む生き物の姿が見えるくらい透き通っています。
銀色の小さな魚達が舞い泳ぐその中に、
「!?」
異様な物を見つけました。
朝陽を反射して金色に輝く、楕円形の大きな物体が、深い水底に沈んでいます。その大きさは例えるなら、大人の牛や馬ほど。とてもわたし一人で引き上げられるような代物ではありません。
わたしは目を凝らします。揺らぎの穏やかな水のおかげで、その金色の物体の姿を確認することが出来ました。
強固な甲羅に、大きなハサミ。突き出たふたつの目玉。
まさに“蟹”。これこそが、緋衣さまのおっしゃっていた、瓢箪池の宝に違いありませんでした。
それにしても、なんて綺麗な輝きでしょう…。水の中で幾重にも光を反射させ、蟹自身が光を放っているよう。その美しさに、思わず目を奪われてしまいました。
けれど、どうしよう…。
仁雷さまと義嵐さまの力を借りず、わたし一人でどうやって持ち帰れば…。
「……あら……?」
ふと、蟹の甲羅に、一本の裂き傷が付いているのに気づきました。
大切な宝に傷なんて…一大事なのでは?
「…あけびさま。あの傷は?」
隣で同じく怪訝な顔をするあけびさま。
【…いいえ、私も存じ上げません。この宝に触れられるのは、狗神様か、守り主たる狒々王様だけなのです。】
「……じゃあ、狗神さまか、狒々王さまが付けた傷なのかしら…?」
【そ、そんなはずは…。】
大切な宝物にわざわざ傷を付けるなんて、普通は考えられないけれど。
わたしはこれまでの道中で、義嵐さまが話していたことを思い出しました。
狒々王さまについてです。
「…あの、あけびさま。
狒々王さまは“ケチ”なお方だったのですか?」
わたしの直接的な物言いに少し嫌な顔をされながらも、あけびさまは答えてくださいました。
【…私の以前のご主人様…“狒々王”様は、喧嘩っ早く、執着心の強いお方ではありましたが、…根はとてもお優しい方でした。
狒々王様がお姿を消して間も無く、あの青衣様が現れたのです。】
「……狒々王さまは、どこへ行かれたのでしょう…?」
【…それは誰にも分かりませぬ。…ただ一つわかるのは、狒々王様はこの瓢箪池で消息を絶った。それだけでございますわ…。】
わたしは金の蟹に目を向けます。
広大な池泉の中で、狒々王さまが興味を示す物といえば、自身の所有物であるこの宝でしょう。
「………もしかして、あなたが何かしたの…?」
わたしの問いかけに、蟹は答えません。ただ目玉をギョロリと動かすばかり。
きらきら輝く蟹の甲羅の色には、なぜだか見覚えがありました。
一度ではありません。そう、二度。
確かあれは、青衣の胸に飾られていた円鏡。
そして緋衣さまの胸元にもあった、同じ円鏡。
まるで形見分けのように、敵対し合う二人が同じ品を持っているのはなぜでしょう。
それに、青衣と緋衣さま。あの二人には、跡目争い以上の深い因縁があるように思えてなりません。
塒の建物の配置も、性格も、性別すら、鏡合わせのように反転しているのです。
なのに、お互いがお互いの顔を見たことがない。
ーーー鏡……。
「あけびさま、」
わたしはひとつ、強い興味を覚えました。
わたしの予想が当たっているなら、すべて丸く収まる。
もし外れていれば、わたしの命はここで潰えてしまうかも。
「問答の答えが出ました。
青衣をここへ連れて来てくださいますか?」
その生死を左右する賭けの結果を、早く知りたいと思ってしまうのです。
◆◆◆
仁雷と早苗さんと別れて、早二日。
その間も、おれは緋衣の塒の座敷牢で、軟禁生活を余儀なくされていた。
「………っ、……っ……。」
暇を持て余し、指一本で逆立ちをしてみたり、宙返りをしてみたり。
そんなおれの様子を監視するのは、いつも決まって、
「よくそれほど、飽きもせず体を動かしていられるのう、お使い殿。」
塒の主たる緋衣だ。興味津々と言った眼差しで、おれの体を眺めている。
おれは着物で汗を拭い、水の張られた器を舐める。
「あんたもよく飽きないよな。そんな警戒しなくても、おれは逃げないぞ?
ほらそれ、狗神の呪いだろ?」
檻の扉口に、見覚えのある紋様が刻まれている。あれは狗神特有のもので、一介のお使いであるおれに破れる代物でないことは分かりきっていた。
「ホホ、警戒などしておらぬよ。
…ただ、居ても立っても居られぬだけじゃ。」
緋衣は浮かない顔を見せる。
当然と言えば当然だ。
「…早苗さん、まだ見つからないのか。」
「…………。
猿達に捜させておるが、…未だ。」
試練には早苗さんが必要不可欠。
しかし、緋衣がいくら猿を使って行方を追っても、この広い山の中を見つけられないらしい。
青衣の縄張りに入ったのか?
仁雷が機転を効かせて、山犬達の元へ向かったか?
まさか早苗さん一人になったとは考えにくい…考えたくはないが…。
「緋衣、試練を早苗さん一人に挑ませたい気持ちは分からんではない。
けど、彼女は貴重な犬居の娘だ。あんたはあの子の訪れを十年も待った。こんな所でみすみす手放したくはないだろ?
また十年を無為に過ごす気か?」
おれは檻を両手で握る。
その両手が、鋭利な爪を有する山犬の前足へと変化する。
【おれなら見つけ出せるよ。
あの子の匂いなら、死んでも忘れないからな。】
今のおれから駄々漏れる“執着”のにおいは相当なものだろう。緋衣は緊張の面持ちで、檻に施した封印の紋様を見つめる。
【……ひ、ひ、ひっ…、緋衣様…!!】
緋衣とおれの元に、側近の柿が血相を変えて飛び込んで来た。
いつもきちんとしてる身なりも、この時ばかりは大層乱れてしまっている。
「なんじゃ、柿!騒々しい!」
【さ、さ、さ、…ささ…!!】
口で荒く呼吸を繰り返してから、柿は搾り出すように言う。
【早苗様が!お一人で!
この塒へ戻って参りました!!
“池泉の試練の答えを見せる”と…おっしゃって…!】
「!?」
おれと緋衣は全く同じ反応を示した。
が、驚く点は全く違う。
「早苗殿が自ら戻って来たと言うのか?」
【…一人で?仁雷はどうした?一緒じゃないのかよ?】
柿はもはや情報の容量を超えているらしい。前足をバタつかせ、そして助けを求めるように、
【さ、早苗様をこの場へお連れいたしました…!】
背後に控えさせていた、あの小さな女の子を、おれと緋衣の前へと進み出させた。
おれの目が自然とそちらを向く。鼻が自然と、彼女の匂いを嗅ぎとる。
【…さ、なえさん。なんてカッコだよ…。】
久々に見る彼女は、だいぶ様変わりしていた。
若草色の着物は泥だらけ。纏められていたはずの髪も、乱れてくしゃくしゃだ。
唯一彼女を護れるはずの仁雷の姿も今は無い。この子は一体どんな過酷な目に遭って、どれだけ歩き続けていたのだろう…全身何度も汗をかいて、彼女特有の匂いをより色濃く纏わせている。
けれど…なぜだろう。彼女の目に、強い決意が宿って見えるのは。これまでの、仁雷とおれに手を引かれ、不安げな表情を浮かべながら、理不尽な巡礼に挑まざるを得なかった頃の早苗さんとは…全然違う。
そんな姿に、おれは胸が締め付けられるのを感じた。
「…緋衣様。柿様にお伝えした通りです。
池泉の試練の答えをお見せします。
わたしと一緒に、反橋へ来ていただけませんか?」
早苗さんの淀みない物言いと、深く深く下げられた頭。
緋衣も、彼女の変わり様に呆気に取られているらしい。少しの間を置いて、答える。
「…早苗殿、儂は宝を“ここへ”持って来るよう伝えたはず。しかしそなたは何も手にしてはおらぬようじゃが?」
「いいえ、緋衣様。あなたは“自分の元へ”持って来るようおっしゃったのです。
あれは非力なわたし一人では、どうにも動かすことの叶わない代物です。
ですから、“緋衣様から”宝の元へ赴いていただきたいのです。」
至極真面目な顔でそんなことを言うものだから、おれも、そして緋衣も、意表を突かれた思いだった。
「…ホホ、良いか早苗殿。それは故事付けというものじゃ。
まさかそれで、試練を達成したと言うつもりではあるまいな?」
「まだです。試練の達成には、緋衣様にご足労いただかねばなりません。
どうか、お願いいたします。」
そう言って深々と頭を下げる早苗さんは、ふざけてるわけでも、ましてや自暴自棄に陥ったわけでもない。
この子は強い信念を抱いてこの場に立っている。それは匂いからも明らかじゃないか。
「緋衣。
早苗さんは、狗神の使いの目の届かない所にいた。逃げ出すことも出来たんだ。
だが試練のため、辛い思いをして戻って来た。ご褒美として、願いを聞いてやってくれよ。」
おれは人の姿に変化する。
緋衣はしばし黙って、早苗さんとおれとの顔を見比べる。幸い、その様子に否認の色は伺えなかった。
「……んーむ、良かろう。
早苗殿の企みに賭けてみようではないか!」
緋衣が檻に手を翳す。
すると、狗神の呪いの紋様が、砂を吹くように掻き消えていく。
すんなりと解放されたおれは、真っ先に早苗さんのそばへと駆け寄った。
「早苗さん、しばらくぶり。
すっかり見違えちゃったね…。怪我は?」
「いえ…大丈夫です。」
失礼を承知で、着物の上から彼女の体に触れ、痛むところが無いかを確かめる。
…良かった。擦り傷や小さな切り傷はあちこちにあるが、命に関わる怪我は無さそうだ。
「義嵐様もご無事で何よりです。遅くなってしまって、申し訳ありません…。」
「いいや、よく助けに来てくれたね。
仁雷とは逸れたか…?」
「…はい、山の中で…。青衣に、囚われてしまったと…。」
早苗さんの気丈の仮面が崩れかける。
しかし、それを奮い立てるのも彼女自身。
早苗さんは滲みかけた涙を、泥んこの袖で拭い去り、真っ直ぐな目でおれを見た。
「義嵐さま。どうかわたしと一緒に、仁雷さまを助けて…。」
「……早苗さん……。」
一緒に、かぁ。
あんなに小さくてか弱かった娘にここまで言われちゃ、おれも腹を括らないわけにはいかないよな。
「たくさん頼りなよ。
必ず早苗さんを護り抜く。もちろん仁雷の奴も。」
その言葉を受け、早苗さんは心底嬉しそうに笑ってくれた。
ーーーああ、やっぱりその笑顔。
おれはどうしたって、この笑顔を護りたくて仕方ないんだ。
「早苗さん、出立前に体と着物を清めておいでよ。そのままだと気持ち悪いだろう?」
「あっ……う…いいえ。嬉しいお言葉ですが、今はお役目を早く果たしたいので、……に、においが気になると思いますが…このままでいさせてくださいませ。」
女の子にとって、今の状態は決して気分良いはずがないのに。
それでも、自分に課せられた責務を全うしたいという想いが、早苗さんの行動を決める。
ならばおれは、尊重するだけ。
「……わっ…!」
彼女の小さな体をヒョイと抱え上げ、肩に乗せてやる。丸二日軟禁された体は、動き回りたくてうずうずしていた。
「さっさと行こう、緋衣。
あんたの待ち侘びた試練の場へさ。」
緋衣はおれと、肩の早苗さんを見つめる。
それからハアァ…と長い溜め息を吐き、傍らの白猿に命じる。
「柿!儂の供をせよ!」
【緋衣様……。
は、はい、どこまでも…っ。】
緋衣は柿と同時に、真っ直ぐ社殿の外へと駆け出した。
それを追いかけ、おれ達も駆け出す。
狒々達の脚力は目を見張るものがあった。
打掛の重みなど無いかのように、緋衣の身のこなしは風の如し。人の姿をしていながら、獣が山を駆るのと同じ速度で、緋衣はおれ達との距離を開いていく。
青衣に撒かれた時のことが思い出される。そして悔しげな仁雷の顔も。
「………っ!」
あまりの速さに、早苗さんがおれの頭にしがみ付く。毛を掴む手から、確かに伝わる震え。
【…大丈夫。信じてな、早苗さん。】
山犬の姿に変化し、緋衣の背中を追い掛ける。速く、速く、速く。
丸二日温存し続けた体力は、いくら脚力を振り絞っても、一向に尽きることはなかった。
***
わたし一人の足で、緋衣様の塒へ辿り着くのはとても時間が掛かってしまったけれど、義嵐さまの足はそんな徒労などあっさりと越えてしまうのです。
緋衣様達の脚にも追いつくかと思えば、あっという間にお二人を追い抜いてしまいました。
「…ぎ、義嵐さますごい…!」
【へへん。今はね、体力が底無しなんだ。】
みるみる小さくなっていく、緋衣様の社殿。
そして代わりに、瓢箪池の中央に架かる、大きな反橋の全容が見えてきます。
目を凝らせば、反橋の緩やかな弓形の天辺に、先客の姿が確認できました。遠目からでも分かります。大きな体に、青い着物と青い髪。あれは間違いなく…青衣です。
傍らには、白猿のあけびさま。
そして、
「あっ…!!」
青衣の足元に、拘束されぐったりと横たわる芒色の髪…仁雷さまの姿があったのです。
義嵐さまは反橋を駆け渡り、青衣のすぐ前まで迫ると、鋭い爪を用いてその場に急停止しました。
「じ、仁雷さま……っ!」
義嵐さまの背から転がるように降り、わたしは仁雷さまのほうへ駆け寄ろうとします。
…が、それは青衣の大きな体によって阻まれました。
「ーーー久方ぶりじゃのう、犬居の小娘。
不敬にも、そなたが呼び立てたのじゃぞ。はようこの儂に宝を差し出して見せよ。」
青衣は笑っています。
“出来るものならば”。そう侮っていることは明白です。
あけびさまは青衣の後ろで、小さく体を震わせています。心なしか…お体に傷が増えているような…。
「……っ。」
弱気になってしまいそうな自分を奮い立たせます。
今、わたしがすべきこと。
「……青衣。
あなたに会ってほしい方がいます。」
そう告げ、後ろを振り返ると…わたし達に追いついた緋衣様が、唖然とした顔で、初対面となる青い狒々を見つめていました。
「………そなたが、“青衣”か…!
なるほど、いかにも無法者らしい男じゃ。」
「……貴様が“緋衣”。
思うた通り、いけ好かぬ女じゃのう。」
青衣は眉間に、深い皺を刻んでいきます。
これまで敵対し合ってきたお二人です。相手の顔を見ようなどとは、これまで思わなかったのでしょう。
「…早苗殿。これがそなたの申しておった宝か?青衣と儂を対面させ、よもや和解でもしろと申すか?」
緋衣様の声は重く冷たい。
その迫力に圧倒されそうになりながらも、わたしは胸の前でギュッと手を握って言います。
「…そうかもしれません。
わたしは、“あなた方”が試練の答えだと思っております。」