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明け方の優しい陽光を感じて、わたしはゆっくりと意識を浮上させました。
もたれかかっていた木から体を起こし、辺りを見回しますが、周囲に生き物の姿はありません。
意識を手放す直前に感じた獣の気配…。あれは夢だったのかしら。
【キキッ!】
「!」
少し遠くから鳴き声がして、反射的にそちらに顔を向けます。
白い毛に、右目の傷。ここまでわたしを導いてくださったお猿が、少し離れた木のそばで、わたしのことを待っていました。
よく目を凝らせば、お猿の姿の向こうに、きらきら光るものが見えます。
ゆっくりとその場から立ち上がり、お猿の方へ、光るものの方へ、一歩一歩と近付いていきます。
「……あっ…!」
その正体に、わたしは声を上げました。
朝日を反射して光る水面。透明な水を湛えた広大な池泉…瓢箪池が、そこに広がっていました。
とうとう、目的の場所に。二つ目の試練の場所に戻って来たのです。
「…あ、ありがとうございます…!
なんて、お礼を……。」
体の疲れも吹き飛んでしまうほどの感動に震え、わたしはここまで導いてくれたお猿にお礼を述べます。
これまで無言を貫いていたお猿が、ふいに口を開きました。
【礼には及びませんわ。早苗様。】
「!」
そのお猿の澄んだ声に、わたしは驚きを隠しきれません。声音から察するに、どうやらこのお猿は、女の方であるようでした。
「…お、お猿さま、言葉が話せたのですね…。」
【…青衣様は、我ら猿が口をきくことをお許し下さいません。ご挨拶が遅れ、申し訳ありませんわ…。
私は青衣様の側近の、あけびと申します。以後、お見知り置き下さいまし。】
「あけびさま…。」
道中、わたしの空腹を満たしてくれた、淡紫の実の味を思い出します。
「山中助けていただき、ありがとうございます。青衣の命令で、わたしを導いてくださったの…?」
青衣はわたしを生かさないものと思っていました。
あけびさまは浮かない顔で返します。
【…いいえ。私は青衣様の命令に背き、独断で早苗様をお連れしたのです。】
「え……?」
あけびさまは自身の右目の傷に触れながら、ポツリポツリと言葉をこぼします。
【…青衣様は恐ろしいお方です。己の意にそぐわない者は排除し、気分次第で、家来の猿を傷付けることも躊躇しません。】
「……まさか…。」
痛々しい傷の正体は、自分の主人の手によるものだと言うのでしょうか。
【早苗様をお護りしていた、芒色の毛並みのお使い様も、今頃は青衣様の手の中です…。】
「……そんな…。」
やはり仁雷さまは、わたしが眠っている間に連れ去られてしまったようでした…。
脳裏に青衣の恐ろしい形相が浮かびます。仁雷さまの身が心配で、わたしの胸は痛いくらいに嫌な動悸を繰り返します。
【青衣様はもはや、早苗様に巡礼の試練を与えるおつもりはありません。
…ですが、私は…猿達は、どうしても早苗様に試練を達成していただきたいのです…。】
あけびさまの声は震えています。
この方もまた、どれほど苦しい思いをしているか。どれほど恐怖を抱えているか。それらが痛いほど伝わってきて、わたしは思わず、彼女の小さな白い背中にそっと触れました。
【…早苗様の、青衣様への臆さぬ物言い。そして身を呈して私を救って下さった勇敢さ…。
あなた様ならきっと試練を達成し、青衣様の目を覚まさせることが出来ると信じているのです。】
「あけびさま……。」
あけびさまの憐れなまでの懇願を受け、わたしは意を決しました。
あけびさまに導いていただき、食べ物を教えていただいた。あの助けが無ければ、わたしは今この場に生きて立ってはいないでしょう。
瓢箪池を見つめ、彼方に弧を描く反橋を見つめ、
「……参りましょう、あけびさま。
案内をお願いできますか…?」
水底に潜むという蟹の姿を想像しました。