狗神巡礼ものがたり


その後も着々と、鬱蒼とした獣道を進んでいきました。

お天道さまが山の向こうへ沈みかけ、辺りが夕焼けに染まる頃、先導していた義嵐さまからお声が掛かりました。

「暗くなると身動きが取りづらくなる。
ここらで夜を明かすとしようか。」

義嵐さまの後に続き、ようやく獣道を抜けます。
そこは一部の木々が人の手によって(なら)された、開けた山道となっていました。

少し遠くに視線をやれば、小さなお(やしろ)を発見しました。
あれもまた、狗神さまを祀るものなのでしょう。


「…あの、仁雷さま。もう大丈夫です。
ありがとうございます。」

そう声を掛けると、仁雷さまはその場にそっと、わたしを下ろしてくださいました。

ずっと抱えて疲れたろうに、顔には全くその色が見えません。「さすがは山犬さま」と感心してしまいます。

「今夜はあの社に泊まろう。」

「えっ。」

仁雷さまの言葉に思わず声が出てしまいます。
だって、狗神さまを祀るお社に寝泊まりするだなんて…なんだか罰が当たってしまいそう。

「気にするこたないよ早苗さん。
おれ達は狗神様のお使いだから、おれ達が良いと言えば良いのさ。
狗神様のお山にはこういった無人の社がいくつも点在してるから、巡礼中はそれらを宿代わりにしてく。」

「そう、なのですか。」

てっきり野営をするものと思っていたから、夜風をしのげるならこれほどありがたいことはありません。
義嵐さま、仁雷さまの後に続き、中に入る前に一度手を合わせてから、わたしはその小さなお社にお邪魔することにしました。


お天道さまがすっかり沈んで夜になると、辺りは暗闇に包まれます。
お社の中に三人が入ると、多少の窮屈さはありますが、もし一人きりだったなら木の葉の音や獣の鳴き声に、心細くなっていたことでしょう。

義嵐さまが灯してくださった蝋燭の灯りと、大きな火鉢の暖かさが、山歩きの疲れをじんわりと癒やしてくれます。

「………ふぅ。」

思わず漏れた溜め息に、わたしはやっと“今まで自分がひどく気を張っていた”ことに気付きました。

「初日お疲れ、早苗さん。」

そう気さくに声をかけてくださるのは義嵐さま。

「あっ、いえ…道案内ありがとうございます。」

「なんのなんの、お役目だからね。
…それにしても早苗さんって、今までの娘達とはまた一風変わってるよな。」

不思議そうにご自身の顎を撫でてらっしゃいます。
変わってる?わたしが?

「年の割に我慢強いというか。普通、望んでもない旅に連れ出されたら、不満の一つも言いたくなるもんだろう?」

「不満…。」

そう問われれば、心から喜んで巡礼に向き合っている…というわけではありません。
狗神さまへの信仰心もありますが、生贄となった以上、犬居の娘である以上、これが避けて通れない道ならば、

「これがわたしのお役目なら、頑張らねば…とは思います。」

今までの犬居の娘達は、どんな気持ちで旅に臨んだのかしら…。

わたしの答えに納得なさったのか、義嵐さまは少し目を細めて微笑まれました。


「……早苗さんは、」

ふと、壁にもたれて休まれていた仁雷さまが言います。

「家族が恋しいか?親や、きょうだい達。」

「……。」

その問いは(いささ)か、いじわるに思えました。もう戻れないことが分かっているのに…。

…ああ、でも、わたしは不思議と嫌な気持ちにはなりませんでした。

「母は既に亡くなっていますし、気心の知ったきょうだいもいません。父は、わたしに関心がありませんでした…。」

“星見さま”は、血は繋がっていようとも、あくまでわたしのお嬢様。「姉」と呼ぶことは恐れ多くて、気が引けてしまいます。

「…あ、ご心配なさらないで。
巡礼にはきちんと臨みます。幼い頃より、狗神さまを心の支えにしてきましたもの。」

わたし達の豊かな生活を守ってくださる狗神さま。つらい時、苦しい時、祈りを捧げることで気持ちが楽になりました。
母から教えられたこと…。母が亡くなった後も、ひとりぼっちのわたしが踏ん張って来られたのも、狗神さまの存在のおかげだと思うから…。

犬居家は大昔から、近親間での婚姻を「本家」として、繰り返してきた歴史があります。
本家の純血の娘と比べるとどうしても、外山(そとやま)から来た妾が産んだ子どもというのは異質に映り、冷遇されてしまうのでしょう。

わたしが他の娘達と違って見えるのはきっと、さほど“お家”というものに愛着を感じていないから…。


「…俺たちはこれまで、何人も犬居の娘達を巡礼の旅に導いてきた。皆口を揃えて言うんだ。“家に帰りたい”と。
中には目を盗んで逃げ出す者もいたけれど…、最後には死んでしまった。」

仁雷さまの口にした“死”という重い言葉に、息を呑みます。
けれどそれはわたしを脅すためでも、まして意地悪するためでもなかったのです。

「早苗さん。
どうか、俺達を信じて離れないで。
貴女をこの旅で死なせはしない。決して。」

どれほどこの旅が危ういものか。
そして、どれほどお二人が、犬居の娘を想ってくださっているか。
それをひしひしと感じるのです。


ふと、義嵐さまが手を軽く叩きます。

「さてさて、明日は早くに発つから、そろそろ(とこ)に就くとしようか。」

「………あっ、は、はい…。」

横になろうと板の間に手を付きましたが、その冷たさに思わず引っ込めてしまいました。
わたしの様子に気付き、義嵐さまがなぜか得意げに言います。

「仁雷、一晩早苗さんの枕になっておやり!」

「おい!義嵐っ!」

間髪入れず、仁雷さまが吠えます。
わたしもそんな大胆なことをする勇気はありませんので、首と手をパタパタと横に振りました。

「秋口の夜の隙間風は体に悪い。
大事な娘御(むすめご)のことを思えばこそじゃないか?あ?」

「…………………。」

長い長い思案の後、なんと仁雷さまがわたしの近くに横たわりました。

「……枕、にはなれないが…、隙間風避けくらいにはなれる。」

「!」

わたしの体に沿うように、仁雷さまの体が壁になってくださっています。
殿方の隣で寝るなんて生まれて初めてのこと。けれど、そのご厚意がとても身に沁みて、わたしはまたお言葉に甘えてしまう。
仁雷さまはお犬ですから、元々体が温かい方なのでしょう。直接触れずとも、その温かさを感じることが出来ました。

「…あ、ありがとうございます。
とても…安心いたします。」

「…………ウン。」

そうして、巡礼最初の夜が明けていきました。

日が昇ってから、わたしたちは獣道と、人の歩く山道とを交互に進みます。

お天道さまが西の空に傾き、山の彼方へ沈んで夜になる。
道中見つけたお社で、また昨日と同じように体を休め、日が昇ったらまた先を目指して歩き続ける。

その道中はとても長く感じました。
日が傾き、辺りが朱色に染まり始めた頃になって、まず最初の聖地である、雉子の竹藪と呼ばれる場所に辿り着きました。

その名の通り、これまでの獣道よりもさらに鬱蒼と茂る、背の高い竹林でした。
空はまだ日が沈みきっていないはずなのに、竹林の中は光がだいぶ遮られ、薄暗くなっていました。
もし夜になったら、本当に何も見えなくなってしまいそう。

道中はずっと義嵐さまと仁雷さまが先行してくださっていましたが、竹林に入った頃から、仁雷さまがわたしの後ろを歩くようになりました。何かを警戒するように、辺りに目を配っています。

竹林に入ってから感じる“妙な違和感”が、ただの気のせいならいいのですが…。

「早苗さん、あれが見えるかい?」

義嵐さまの視線の先に、赤い瓦屋根のようなものが見えます。

さらに近づいていくと、それは鬱蒼とした竹林には不釣り合いな、緻密な細工の格子扉を備えた数奇屋門(すきやもん)であることが分かりました。

「ここは…?」

(きじ)たちの棲む屋敷。雉子亭(きぎすてい)だ。」

義嵐さまは見知った家のように、門を潜っていきます。
わたしも慌ててそれに続き、最後に仁雷さまが、

「………。」

辺りをひと睨みしてから、静かに門扉を閉めました。


門を潜った先には、手入れの行き届いた緑の庭園が広がり、その奥には赤瓦の美しいお屋敷が構えています。
犬居の屋敷も立派な造りですが、こちらは竜宮城のような、お伽噺のような美しさがありました。うっとりとして、わたしは思わず口に出してしまいます。

「まあ…。なんて素敵…。」


「ーーーお気に召していただけて光栄です。」

お屋敷にばかり目を奪われて、目の前の人に気づくのが遅れました。

いつの間にかそこには、仕立ての良い玉虫色の着物を纏った、気品あふれる微笑みの男性が立っていたのです。

「狗神様のお使い様ご一行。よくいらっしゃいました。」

男性の背後にはお手伝いさんらしき、土色の(まだら)模様の着物を着た女性達が並び、こちらにお辞儀をしています。

「久しぶりだなぁ、君影(きみかげ)
こちらが犬居の娘…早苗様だ。」

義嵐さまに促され、わたしは前へ進み出ます。
君影さまはわたしの顔を見ると、一層優しく微笑まれました。

「お初にお目にかかります。早苗様。
(わたくし)は雉子亭の主人、君影と申します。
道中お疲れでしょう。どうぞごゆるりとお寛ぎくださいませ。」

「あっ、は、はい…!この度は、お世話になります!」

丁寧なお辞儀につられ、わたしも慌てて頭を下げます。


君影さまは流れるようにわたし達を屋敷内へ招き入れ、あらかじめご用意いただいたというお部屋に通してくださいました。

そのお部屋というのがまた…、

「……なんて、素敵…!
お姫さまのお部屋のよう…!」

広々と敷かれた、目の整った淡い色の畳。まっさらな障子紙。見事な襖絵(ふすまえ)欄間(らんま)の細密な彫刻。飾られている掛け軸も壺も、なんて美しい絵付けでしょう。

「今宵はこちらにお泊まりくださいませ。」

「ええ…!」

君影さまのお言葉に、感激の声が漏れ出ました。

「嬉しそうだな、早苗さん。」

そう仰る仁雷さまも、心なしか嬉しそうに目を細めています。

「こんなに素敵なお部屋、初めてで…!
泊まってしまって良いのかしら…罰が当たってしまいそう…!」

「勿体ないお言葉でございます。
こちらは代々、犬居家のお嬢様方をご案内したお部屋です。
険しい旅でございますから、少しでもお体を癒せれば幸いでございます。」

「あっ…。」

君影さまの言葉を聞いた瞬間、わたしは一人はしゃいでしまったことをひどく恥じました。
そうだわ…わたしは生贄で、今はその巡礼の真っ最中。

ーーー巡遊に来ているわけではないわ。もっと気丈にならなければ…。

「ただいま、お食事をお待ち致します。
少々お待ちくださいませ。」

君影さまの「お食事」という言葉に、わたしは(はした)なくも、また気持ちをそわそわとさせてしまうのでした…。

夕餉のお膳を運ぶのは、入り口で出迎えてくださった斑着物の女性達でした。

ふっくらつやつやの白いお米を筆頭に、川魚の焼き物やきのこのすまし汁、天ぷら、お刺身や煮物。どのお椀も綺麗に盛り付けられて目に麗しく、それになんて美味しそうな香り…。そわそわしないほうが失礼なのではないかしら。

「あの、ありがとうございます。」

お膳を運んでくださった女性にお礼を言うと、女性はにこりと微笑みます。その優しい雰囲気に、緊張がほぐれるのを感じました。

どの女性を見ても皆さま同じ、珍しい土色の斑模様の着物を着ています。
君影さまのご意向なのかしら。皆さまとてもお綺麗だから、色鮮やかな着物もきっと似合うのに。

そんなことを考えながら、仁雷さま義嵐さまと一緒に夕餉をいただきます。
出汁の香りがふわりと立つ煮物を一口食べると、

「…!」

そのあまりの美味に、背筋がぴんと真っ直ぐ伸びました。
どのお椀も汁物も、温かく芳しく、端ないと分かっていてもお箸の手が止まらないのです。

わたしが夢中で食べる様子を見て、一人の女性がこちらへ寄りました。

「早苗様、雉子亭は自家製の抹茶塩も絶品なのですよ。宜しければお試しくださいませ。」

そう言うと、女性は小さな小さな漆塗りの小箱をくださいました。
蓋を開ければ、中には鶯色のお塩がたっぷりと入っています。女性の白い指が塩を摘み、山菜の天ぷらにそっと振りかけていきます。

抹茶塩のかかった天ぷらを一口含めば、

「……っ!!」

なんて豊かなお味でしょう!抹茶の風味がなんとも上品で、山菜の甘さが引き立ちます。新しい食の扉を開いたよう。

「わぁ、美味しい…!
こんなお塩があるのですね。知りませんでした。」

女性はフフッと笑い、お塩の小箱をわたしに差し出します。

「私は竜胆(りんどう)と申します。
そんなに喜んでいただけて、冥利に尽きますわ。こちらは差し上げますので、どうぞご活用くださいませ。」

「よろしいのですか?ありがとうございます、竜胆さまっ。」

竜胆さまから頂いたお塩の小箱を大切に握り締め、わたしは笑みを返しました。


「早苗さん。」

ふと、隣に座る仁雷さまから声を掛けられました。
わたしが「はい」と返事をするのと同時に、

「これも食べるといい。」

「!」

ご自分のお膳の天ぷらを、わたしのお椀に分けてくださいました。

「いえ、そんな!いただけません!」

「よく食べて力を付けた方がいい。」

「…あ、え、…でも…。」

それでも人様のご飯をいただくなんて…。
どうしたものかと困っていると、対面に座る義嵐さまが楽しそうに仰います。

「仁雷は、早苗さんが美味しそうに飯食うとこ、もっと見たいんだよな?」

「義嵐っ!」

仁雷さまが間髪入れず吠えました。

「早苗さん、おれのもやるよ。いっぱい食べて大きくなりな。」

「…あ、そんな…義嵐さままで…。」

お椀に盛られた二人分の天ぷらを見つめたまま、わたしはすっかりお箸の手を止めてしまいました。


「…義嵐!言っておくが俺は別に他意は無い!いちいち茶化すのはやめろ!」

「なんだ、じゃあ早苗さんが美味しそうに食べてたのも嬉しくないのか。気の毒に丸二日ずっと歩き通しだったから、雉子亭の絶品の夕餉を食わすの、おれは楽しみにしてたけどな?」

「クッ…!!
そ、れについては他意は…ある…!」

言い合いを繰り広げるお二人は、なんとも仲良さそうに見えます。
きっと昔からの馴染み同士なのでしょう。

ーーーこんな食事は、生まれて初めてかもしれないわ…。

夢のように美味しいご飯も、誰かと一緒に賑やかに食べるのも、そしてこんなに心が安らぐのも。

お二人の声を聞きながら、わたしは山菜の天ぷらに抹茶塩を振りかけ、口へ運びます。

…ああ、やっぱり。とっても甘くて美味しいわ。

食事が済んだ頃には、外はすっかり夜の帳が下りていました。

玉虫色の着物の君影さまが再度お部屋を訪問され、肝心要(かんじんかなめ)の“巡礼”についてのお話が始まったのです。

「お使い様より、お聞き及びのことと存じます。早苗様にはこの雉子の竹藪にて、ある物を手に入れていただきたいのです。」

「宝、とやらのことでしょうか?」

君影さまはひとつ頷きます。
しかし後に続くお話から、わたしの漠然と想像していた“宝探し”とはだいぶ違うものであると知ることになりました。


「私達、(きじ)の一族は、古くからこの地に住んでおります。元は狗神様が治めていた地に最初の祖先が住み、お陰様で今日(こんにち)を迎えられております。

狗神様は、か弱い我らの身を案じ、危険が迫れば救いに駆け付けてくださる。…とても勇猛果敢で、お優しいお方なのです。」

「狗神さまが…。」

犬居家も狗神さまを古くから信仰してきた歴史がありますが、文献にそのお姿を目にした例はほとんどありません。
小さい頃一度だけ見た絵巻には、“山を駆ける様は疾風(はやて)の如し。銀箔の毛並みの大山犬”として描かれていました。
わたしは今まで心のどこかで、狗神さまは実体の無い概念的なお方だと思っていましたが…、人の姿に変化する二頭の山犬を見てしまっては、もうそんな考えは覆ってしまいました。

君影さまは続けます。

「一見平和に思えるこの竹藪ですが、決して安全とは言えないのでございます。
我らは常に、この竹藪のどこかに潜む“天敵”に怯えているのでございます…。」

天敵。
そう聞いた時、竹林で感じた嫌な違和感のことを思い出しました。仁雷さまの警戒ぶりも…。もしや、わたし達は何者かに見られていたのでしょうか。

「…そ、それは獣か何かでしょうか?それとも野盗とか…。」

「早苗様。私達は“何”に見えますか?」

君影さまはご自身と、それから後ろに控える、竜胆さまを始めとする女性達を示しました。
何に見える?どう見ても…、

「人に、見えますが…。」

わたしのその答えを待っていたようです。
君影さまと女性達は突然、体中の毛を逆立てるような動作で、全身を大きく震わせ始めました。
衣の擦れ合う音は次第に、羽と羽の擦れ合う音に代わり、瞬く間に皆さまは、(つや)やかな羽毛を蓄えた“(きじ)”の姿に変わりました。

女性達は、土色の斑模様の雌の雉に。主人である君影さまは一回り体の大きい、玉虫色の雄の雉に。
雉子亭の名の通り、ここに住むのは人の姿に変化した雉達だったのです。

「そう。我らの正体は、か弱い雉。
そして竹藪に潜む恐ろしい妖怪…雉喰(きじく)いは、我らを喰らわんと常に付け狙っております。」

その名が出た途端、雌の雉の何名かが、悲しげに首を垂れました。その様子が、「雉喰い」というものがどれほど恐ろしい妖怪かを物語っています。

「本来ならば狗神様が雉喰いを退治してくださるところですが…この生贄の儀式は狗神様にとって大切な行事。御殿(ごてん)の外へは、滅多なことがなければお出でにならないでしょう。
しかし策を講じねば、大切な仲間がみすみす雉喰いめの餌食となってしまう…。

……早苗様。どうかお願いでございます。
竹藪に潜む雉喰いを退治し、奴の持つ宝を持ち帰ってはいただけないでしょうか?」

「…えっ!?」

それは予想だにしないお願いでした。

深々と頭を下げる雉の皆さま。悲痛な心からの懇願であるのはひしひしと感じるけれど…ただの人の身であるわたしが、一体何のお役に立てるというのでしょう。得体の知れない妖怪を退治するだなんて…。

狗神さまのような超常的なお方が渡り合う相手に、どう立ち向かえば…。

「…そんな、あの、わたし…。」

「できません」と口にすることは簡単。
けれど本当にそれでいいのかしら…。
今までの娘達も、同じ試練を負ったのかしら。

どう答えたらいいか分からず、縋る気持ちで仁雷さまと義嵐さまのほうを振り返ります。

「引き受けて、早苗さん。
大丈夫。俺達が貴女の身を護るから。」

仁雷さまの力強い言葉は、なぜだかすとんと腑に落ちました。

危険…なのかしら。死ぬかもしれないのかしら。
不安が大きくなるけれど、これが生贄として避けて通れない道なら、

「…し、承知しました。お引き受け、いたします。」

わたしは雉の皆さま方に、声を震わせながら約束したのでした。

雉子亭は君影さまの力によって、雉喰いの目から逃れるように場所を転々と変えているそうです。
あんなに大きなお屋敷が音もなく移動できるなんて摩訶不思議なこと…。この世にはわたしの知らないことが山とあるようです。

「仁雷とおれは鼻がきくから、雉子亭がどこへ移っても匂いを辿れる。雉喰いは目は良いが鼻が鈍いから、ここを見つけることは難しい…というわけだ。」

「そ、そうなのですね…。」

雉子亭を出たわたし達は、またも竹藪の中を縦に並んで進んでいました。

辺りはすっかり夜闇に包まれ、提灯も持っていないため、お二人の姿は見えません。
先頭を行くのは義嵐さま。その後を仁雷さまが進み、わたしは仁雷さまに手を引かれて導いていただき、なんとか歩けています。

「……早苗さん、暗がりを歩かせてすまない。
雉喰いは目が良いから、灯りをつければたちまち居所が知れてしまう。
俺と義嵐は匂いで周囲の様子が分かるから、ただ付いて来てくれれば大丈夫だ。」

「はい、ありがとうございます…。」

暗闇はわたしの不安をいっそう煽ります。
風もいつしか止んで、聞こえるのはわたし達三人の足音のみ。今こうしている間にも、雉喰いはわたし達を見つけているかも…。

不安を紛らわせたくて、仁雷さまの熱い手を、ほんの少しだけ強く握りました。

「……っ!!」

「ほら仁雷ぃ、集中集中。」


雉喰いとはどんな姿なのかしら。
それを退治するなんて、一体どうすれば…。

ーーーそういえば…、

「…仁雷さま。君影さまは、雉喰いの持つ宝を持ち帰るよう仰っていました。
それは、どんなものなのですか…?」

「君影が求めているのは、雉喰いの身体の一部。貝殻(かいがら)のことだ。

雉喰いは、巻貝の体を持つ妖怪だ。退治すれば殻から体が離れるため、貝殻を手に入れられる。」

「刀も鉄砲玉も倒さない強固な殻で、身を護る特殊なまじないも込められてる。正直、手に入れるのは容易じゃないかなぁ。」

巻貝の殻を備える、強固な妖怪…。

「そんな強い妖怪…わたしはどう立ち回ればいいのでしょう…。」

何せわたしには、お二人のような大きな体も、鋭い牙もない…。

「なぁに、きみが闘うわけじゃない。
早苗さんと雉喰い、両者の根比(こんくら)べだよ。」

「…こん、くらべ…?」

義嵐さまの言葉の意味を、よく理解できませんでした。


ふと、お二人がぴたりと足を止めました。

「…仁雷、こいつは近いぞ。」
「動くな義嵐。月が現れる。」

張り詰める空気。
わたしは仁雷さまの言葉通り、頭上の月に目を向けました。

やがて、厚い雲に遮られていた満月が姿を現します。
すると辺り一帯が、白銀の月明かりに照らされました。
まるで昼間のよう。わたし達三人の姿が分かるほどの明るさに、“それ”も釣られて姿を現しました。

「………な、なに…?」

竹藪の向こうから、大きな体を引きずって何かが這い寄って来るのが見えます。
猪か熊か…と思えば、それはあっという間に月下へ姿を晒します。

「っ!!」

大きな大きな蝸牛(かたつむり)の貝殻が見えました。その殻の穴から、大柄な青い体の“鬼”が、上半身だけを出して這いずっています。
恐ろしい形相。その額には二本の角。

「あれが、雉喰い…!?」

「二人とも!下がれ!!
あいつは“早苗さん”を狙ってるぞ!」

叫ぶのと同時に、義嵐さまの体が山のように盛り上がり、炭色の山犬の姿に変化します。

大口を開けて迫り来る雉喰いに、義嵐さまもまた、牙の生え揃った口を大きく開けて迎えうつ…。

「義嵐さま…!」

両者がぶつかり合ったとき、僅かな差で、義嵐さまが先に相手の喉笛に噛みつきました。

不気味な悲鳴を上げる雉喰い。
一瞬見えたその瞳は確かに、“わたし”を捉えていました。

「……ひっ…!」

その恐ろしい姿に、わたしは震え上がってしまいました。

ーーーこわい…!逃げ出したい…っ!

義嵐さまは次に、雉喰いの頭に噛みつこうとします。
…ところが相手の二本の太い腕が、義嵐さまの体を羽交締めにしたのです。
今度は、義嵐さまが苦しそうに唸る番でした。

「ぎ、義嵐さま…!」
「早苗さん、絶対にここを動くな!」

仁雷さまが走り出します。
その姿は瞬く間に芒色の山犬へと変わり、義嵐さまを締め上げる雉喰いの左上腕目掛けて、力の限り噛みつきました。
雉喰いの顔が痛みに醜く歪み、腕の力を緩める…。

義嵐さまは自由になると同時に、雉喰いの右腕に食らいつき、そのまま地面へと叩きつけました。

雉喰いの不気味な悲鳴が上がります。
両腕を封じられて、自由に動くのは頭部のみ。その鋭い牙を振り回し、義嵐さまと仁雷さまに手当たり次第に噛みつきます。

【……っ!!】

お二人は怪我を負いながらも、決して雉喰いの腕を放しません。

「じ、仁雷さま…!義嵐さま…!」

ーーーどうしよう、どうしたら…!

お二人は噛みついているから、言葉を…わたしに指示を出せないようでした。

ーーーどう、どうしよう…!どうすればいいのか、“わたし”が考えないと…!

自身の胸の前で手を強く握り、わたしは焦りと恐怖に押し潰されそうになりながら、必死に考えます。

雉喰いがわたしを狙っているなら、わたし一人ではどこへ逃げても追いつかれてしまうでしょう…。

ーーー安全な所に身を潜めれば、お二人も逃げられるかもしれない…。でも、安全な所なんて…。


……その時、わたしは義嵐さまの言葉を思い出しました。

『刀も鉄砲玉も倒さない強固な殻で、身を護る特殊なまじないも込められてる。』

今この場でもっとも安全な場所。
それは、雉喰いの“殻の中”…。

そんな馬鹿げた話があるでしょうか。
でもそんな馬鹿げた話に賭けてしまいたくなるほど、わたしは未曾有(みぞう)の恐怖でどうかしていたのです。

胸の前で手を強く強く握り締め、わたしは真っ直ぐ雉喰い目掛けて走り出します。

【……アッ!?】

仁雷さまが驚き叫ぶ声が聞こえました。

馬鹿げていることでしょう。
でも、どこへ逃げても同じなら、わたしは目先へ進むことしかできないのです。

力の限り走ります。
こちらへ気づいた雉喰いが、大きく口を開き待ち構えます。

【……はへるか(させるか)!!】

仁雷さまが前足の硬い爪を、雉喰いの顔面目掛けて叩きつけます。

鈍い音がして、次いでまたあの不気味な悲鳴…。
わたしはぎゅっと目を瞑り、そのまま足を走らせ続けました。
雉喰いの胴体の…殻の入り口目掛けて、

「っ!!」

わたしは強く地面を蹴って、“殻の中”へと滑り込みました。

「……ひゃっ…!!」

内部に入った瞬間、経験したことのない感触に震え上がりました。
殻の中はどろどろの粘液のようなもので満ちており、わたしの全身に纏わりついて、奥へ奥へと潜らせていくのです。

強固そうな外見とは打って変わり、殻の中は月の明かりを薄らと透けさせて、虹色に輝いています。…幻想的ではあるものの、得体の知れない粘液も相成って、この上なく不気味な光景となっていました。

わたしは嫌な気配を察して、振り返ります。

「ひっ!!」

まさか、と言うべきか。やはり、と言うべきか。
わたしが侵入したことに気づいた雉喰い自身もまた、殻の中へと潜って来たのです。

大きな体を器用にくねらせて追いかけて来る様は一層恐ろしく、わたしはさらに奥へと逃げます。

…が、それにも限界はありました。
奥へ進むほど空洞が狭くなっていくのです。
わたしは自身の体よりも狭い隙間に潜ることが叶わず、穴の途中でつっかえてしまいました。

「…あっ!」

しかし、それは相手も同じ。
わたしよりもずっと大きい体を持つ雉喰いは、辛うじてわたしに爪が届かない位置で、足止めを食らっていました。

仁雷さまの一撃によって傷つき、もはやわたしを視認できない顔面。
闇雲に腕を振り回す姿に、わたしは震え上がります。

ぎゅっと両手を胸の前で組んだ時、手に“何か”かが当たる感触がありました。

「……あっ…。」

懐から取り出して見てみると、それは夕餉の際、竜胆さまにいただいた抹茶塩の小箱でした。

「…塩……っ。」

わたしは雉喰いの顔を見遣ります。
神事を生業とする犬居家の者は、塩がどれほど特別なものかを知っている。

「……狗神さま…っ。」

ーーーどうかお守りください。

わたしは決死の覚悟で、小箱の中の塩をすべて、雉喰いの顔に振り撒きました。


塩が顔に触れたとたん、雉喰いはこれまでよりも一層大きな叫び声を上げました。
熱した鉄に焼かれるような音が殻の中に響き渡り、塩が触れた部分から、雉喰いの顔がみるみる溶け出していきます。
両手を顔に当てがい、力の限り掻きむしります。けれど塩の力が上回っているためか、塩に触れた手も、胴体も、みるみる形を失っていくのです。

塩は清浄な力を持つとされます。
雉喰いが悪しきものであるなら、その体も清められていく。

ーーーただのまじないなどでは、なかったのね…。

わたしは目の前の恐ろしい光景から決して目を離さずに、雉喰いの体が溶けて消えていくのを、じっと最後まで見届けました。

雉喰いの体がすっかり溶けきり、殻内部のどろどろと混じり合ってしまった。
もう嫌な気配も、音も聞こえません。

「……はぁ……はぁ…。」

終わった…のかしら…。

荒く呼吸を繰り返すわたしの目線の先。微かに月明かりが覗く殻の入り口から、

「ーーー早苗さんっ!!」

仁雷さまが手を伸ばしました。
山犬ではない、人の姿。竹藪を歩く時も繋いでいた大きな手。それを見て、わたしは反射的に手を掴みます。

粘液によってぬるつく手。
それでも離さぬようにと、仁雷さまはわたしの手を強く掴み返し、力の限り、わたしを殻の外へと引っ張り上げてくださったのです。


ぬめりのせいもあり、わたしの体は殻の外へ勢いよく飛び出して、そのまま仁雷さまの腕の中へ収まりました。
体中が汚い…。ひどく生臭い…。そんなことも厭わず、仁雷さまはわたしを強く抱きしめます。

「…あぁっ、早苗さん…っ!
無事か!?怪我は!?」

耳元で叫ぶ仁雷さま。
わたしは何度も何度も頷き、仁雷さまの体を抱きしめ返して応えます。

「……り、竜胆さまが、くださった…お塩のおかげです…っ。雉喰いは…消えて無くなっ、て…っ!」

体中がぬるついて気持ちが悪い。
体も声も震えて上手く喋れない。
先ほどの恐ろしい光景すべてが頭の中に蘇ってきて、胸がざわざわする。
泣き出してしまいたいくらい…。

そんなわたしを、仁雷さまは一層強く包み込みます。

「……すまない、すまない早苗さん…!
だが無事で…生きていてくれて、本当に良かった…っ。」

なんだか泣きそうな声…。
仁雷さまの顔を見上げたとき、血が一滴、ぽたりとわたしの頬に落ちました。
それは仁雷さま、義嵐さまが、雉喰いとの闘いで負った傷の血でした。

「…っ!」

その血を見たとき、わたしの中に込み上げていた雉喰いへの恐怖心は、不思議とどこかへ追いやられてしまいました。

「…わ、わたしよりも、お二人とも怪我されてるわ…!早く手当をしないと…。」

「……えっ…。」

仁雷さまは驚いた顔をしてから、そうだな、と短く言い、わたしの体を離しました。
かと思えば、今度はわたしを抱え上げます。
獣道を歩いていた際と同じ抱え方。地面が遠のく感覚も同じです。

「雉子亭に戻ろう。君影への報告と…皆体を休ませないとな。」

そう言う仁雷さまは、もう泣きそうな声ではありませんでした。
落ち着いた目でわたしを見つめています。
その目を見ていると、さっきまでの恐怖がみるみる薄れていくことに気が付きました。

ーーー仁雷さまが、わたしを安心させてくれている…。

「……は、はい、お願いします…っ。」


目を合わせ、言葉を交わし合うわたし達を、

「………。」

義嵐さまが物言わず見つめていたことを、わたしは知りませんでした。

お二人に連れられ、雉子亭へ戻ったわたし達。
怪我とぬめり塗れの体と、傍らに携えた大きな雉喰いの抜け殻を見て、君影さまを始めとした雉の皆さまは言葉を失っていました。

「……驚きました。まさか本当に、雉喰いを退治されるなんて…。」

驚きを隠せない君影さまに、義嵐さまが不服そうに言い返します。

「白々しいこと言うなよな。お前が焚き付けたんだぞ?」

次いで、仁雷さまが一歩前へ進み出ます。傍らの大きな殻に手で触れながら、

「望み通り、雉喰いの殻を持ち帰った。
後始末はお前達に任せる。
…これで文句は無いな。早苗さんは第一の試練を達成した。」

落ち着いているけど、力強い声…。
君影さまはしばし言葉無く、仁雷さまを見つめていましたが、やがて深々と頭を下げられました。

「……早苗様、お使い様。私共は本当に敬服しているのです。雉喰いによって幾多の同胞を亡くしてきましたから。
心より感謝申し上げます。

そして、…おめでとうございます。
早苗様が此度の試練を乗り越えられたこと、大変喜ばしく存じます。」

君影さまに倣い、竜胆さまや…お姉さま方も深く頭を下げる…。

「…………し、試練、達成…。」

わたし、試練とやらを乗り越えたのね…。
呆然とする頭の中に、じわじわと湧き上がる実感。恐怖もまだ濃く残っているけれど…それ以上に、これまで感じたことのない達成感に満たされていました。

ふと、わたしはこれだけは伝えなければと、仁雷さまの後ろから一歩前へ進み出ます。

「…あの、君影さま。
お役に立てたのなら幸いです。…けれど本当は、竜胆さまにいただいたお塩のおかげなのです。」

懐から、すっかり空っぽになってしまった小箱を取り出します。

「…これが無ければ、わたしも雉喰いに食べられていたかもしれません。
だから、お礼を言うのはわたしのほうなのです。ありがとうございます。」

君影さまは小箱と、わたしの顔を交互に見つめます。彼の表情はひたすら驚きの色に満ちていて、やがてその目をゆっくり閉じました。

「言葉もありません。早苗様は充分すぎるお方だ。…お使い様方、どうか早苗様を“最後まで”お護りくださいませ。」

「…元よりそのつもりだ。」

君影さまの託すようなお言葉に答えたのは、芒色の髪の仁雷さまでした。

「ーーーでは、傷の手当ての前に、雉子亭自慢の温泉にお入りくださいませ。
座敷に布団の用意もいたします。どうか今宵はごゆるりとお体を休まれませ…。」

雉子亭の(はな)れに通じる廊下を渡りながら、君影さまはそんな、この上なくありがたいお言葉をくださいました。

「お湯にっ、浸かれるのですか…!」

雉喰いのどろどろの汚れを落とすどころか、わたしは生贄の儀式ために犬居屋敷を出てから、一度もお湯に浸かっていませんでした。
沢の水で体を拭いたりはしましたが、やっぱり人間たるもの、入浴は極上のご褒美。浮き足立たないほうが難しいのです。

君影さまは、離れの木の引き戸を優しく開きます。その奥を覗いて、わたしは感激で一杯になりました。
もうもうと立ち上る柔らかな湯気。大きな岩が詰まれた囲いの中に、乳白色に染まった温泉が広がっていたのです。

「こちらが雉子亭自慢の、(ひな)の湯でございます。傷や打ち身に良い効能がございますよ。
混浴ですが奥に仕切りもありますので、ご心配なく。」

雛の湯を眺めながらうっとりするわたしとは対照的に、仁雷さまはみるみる体を強張らせていきます。

「…し、仕切り、だけか…っ!」

「オイ仁雷、目の焦点が合ってないぞ。
…じゃあまぁ、せっかくだし三人で浸からせてもらおうか。体中汚れたし、お前達二人は妙なぬめぬめ(まみ)れだしな。」

浴場全体を見れば、温泉の奥のほうに竹造りの仕切りが立てられています。なるほど、あちらは女性の場所なのね。

温泉を前にするとどうしても、早く浸かりたい気持ちに駆られてしまいます。それにこのぬめぬめの生臭さ…鼻のきく山犬のお二人には、尚のこと辛いはず。

「手厚いおもてなしをありがとうございます、君影さま。浸からせていただきます。」

「……早苗さんっ!!本気か!?」

仁雷さまの焦った声が後ろから飛んできて、わたしはびくりと肩を震わせました。
きっと、他人(わたし)が一緒のお湯に浸かることを気にしているのかも…。
でも仕切りもあるし、静かに浸かれば、きっと仁雷さまの気は散らさないわ。

「仁雷さま、わたしのことはお気になさらず、ゆっくりご堪能くださいませ。」

「…………っ、あ、ウ……ウン…。」

仁雷さまは何か言いたそうでしたが、わたしのお願いを渋々受け入れてくださったようでした。

ーーーやっぱり、優しい方だわ…。