『ミキ』
佇むミキに、そっと呼び掛けたのはおばあちゃん。
「おばあちゃん」
見下ろせば、確かにおばあちゃんはいる。だけどおばあちゃんは、ルークにも、サヨさんにも、シロにも見えない。
ミキにしか、見えない。
「ねぇおばあちゃん、そういえば死んだ魂は皆神様になるって、そんな話をした事もあったよね?」
シロは狛犬で、自身が神社の守り神でもある。
そんなシロにも、苦悩があった。迷いがあった。
神様だって、ありとあらゆる感情に、翻弄される事がある。
神とは、全知全能と同義ではない。
けれどその方が、神という存在を余程身近に感じる。
『おや、それじゃあたしは神様って事になるね』
いたずらっぽい調子で、おばあちゃんは言った。だけどおばあちゃんの目は、真剣そのものだった。
「そうだね。だけど神様はおばあちゃんだけじゃない。きっと、無限にいるんだよ」
万物に神は宿る。生きとし生ける全てに、神はいる。
そう考えれば、誰の心の中にも、きっと神様はいるんだろう。
「ねぇおばああちゃん、私、自分を恨んだよ? 優しくないって、神様の事も恨んだよ」
泣きたいのに、泣けなかった。
人には偉そうな事を言ったくせに、私自身、おばあちゃんの死を受け入れるなんて出来なかった。
おばあちゃんとの別れを、認めたくなかった。
『ミキ……』
おばあちゃんの目が、涙で光る。ミキの目も、同じく涙で溢れていた。
「だけど、分かったの。生きていれば、出会いも別れも、全てが平等に訪れる」
天界には、巡り合う事はあっても、本当の意味での出会いはない。
命の木で生まれる新しい命は全て、現世に与える。天界に、誕生は存在しない。
「私はおばあちゃんを見送って、お別れする。だけど生きていれば、これから先、別れだけじゃない、新たな誕生に立ち会う事だってあるかもしれない」
遥か太古の時代から、命はそうして巡ってる。
別れは、近い未来にきっとある新たな出会いへの布石。
「おばあちゃん、待っていて? いつか私が天寿を全うして、またここに来る日まで」
その時こそ、おばあちゃんとの時間は無限だ。
『待っているさ。ミキがこれから先どんな人生を送るのか、側で見守る事は出来なくなってしまった。だからこそ、次に会った時に、全部聞かせてもらうさ』
「うん!」
また、巡り会うその日まで、おばあちゃんとはしばしの別れだ。
『ミキ、本当に別れたくなかったのは、あたしなのかもしれないね。赤ん坊の頃から、見ていたんだもの。お小遣いで買ったハンカチに、こっそりとあたしの名前を刺繍しているのを知っていたんだもの。それをもらわずには、逝けなかったんだよ』
ほろほろ、ほろほろと、おばあちゃんの頬に涙が伝う。それは珠になって、天界の真っ白な地面に落ちる。
この再会を与えたのは誰なのだろう?
おばあちゃんとの再会を祈る、ミキの声が神様に届いたのだろうか? あるいはおばあちゃんの何某かの行動があったのだろうか?
けれど今、二人の魂がこうして触れ合っている。それが真実だ。
「こうしてまたおばちゃんと一緒に過ごす機会がもらえた。私はなんて幸運なんだろう。これでおばあちゃんを、心配させたまま逝かせなくてすむもの。おばあちゃん、これまでの優しい日々をありがとう。これから私も、おばあちゃんみたいに優しく強く生きていく」
『ミキはもう、大丈夫だね。あたしの死を乗り越えて、強く生きていける。あたしもまた、ミキの幸福を祈って穏やかにいられるよ。おや、見てごらん?』
おばあちゃんに促され、足元に目線をやれば、ミキの足元に緑の新芽が息吹いていた。
「わ! 新芽!?」
だけど、新芽は足元のそれだけではなかった。
「え!? あっちにも芽が出てる! あ、向うにも!」
真っ白な天界に、緑の新芽があちらこちらから顔を出す。
『ミキ、これはただの新芽じゃないよ。これが、肥料の最後のひとつ、希望の緑芽だよ』
「これが希望の緑芽……!?」
驚きに目を瞠るミキに、おばあちゃんは笑みを深くする。
『さぁ。夢の黄珠と愛の赤錦はもう、ミキのランドセルの中にあるだろう?」
ミキは弾かれた様に、背負っていたランドセルを下ろした。そうしてランドセルの中から、震える手でルークに貰った木の実と、サヨさんに貰った敷物を取り出した。
『ミキ、よくやったね。命の木を救う、全ての肥料が揃ったよ。これらを与えれば、命の木は息を吹き返し、また多くの実を付けるようになる』
ミキは掴み上げたそれらを、きつく胸に抱き締めた。抱き締めた夢の黄珠と愛の赤錦からは、ほのかな温もりが伝わった。
今となってはどうしてそれと気付かなかったのかが不思議なくらい。それくらい、夢の黄珠と愛の赤錦は神々しい煌きを放っていた。
そうしてミキが立つ大地に芽吹く、希望の緑芽も同様に、そこかしこで眩い輝きを放っていた。
「おばあちゃん、これで命の木を救ってあげられるね」
『あぁ、ミキの手が命の木を生かす』
ミキはおばあちゃんの言葉に力強く頷いた。
ところが、新芽に手を伸ばしかけ、ミキの表情が僅かに陰った。
『ミキ? どうかしたかい?』
「うん。大地に根を張っている希望の緑芽を持って行きたくないなって……」
おばあちゃんの問い掛けに、ミキは心の憂いを口にした。
『なに、抜く必要はないさ。命の木の根は、天界中に張り巡らされているんだ。希望の緑芽のエネルギーは、根を通してちゃんと命の木にも届いているさ。もっとも、希望の緑芽は物凄いスピードで天界に芽吹いているから、あたしたちが戻る頃には、命の木の根元にだって生えているだろうけどね』
「そっか!」
おばあちゃんの答えにミキは破顔した。
未来への希望は、果てがない。視界に見える限り、希望の緑芽は点々と緑の足跡を残している。
「ねぇおばあちゃん、結局、天界に果てはないっていうのが答えかな?」
おばあちゃんとの旅は、ここで折り返し。ここから先は、もう望めない。
「だって命の木の根が無限に伸びるなら、天界にも終わりはないって事だよね」
『天界だけじゃないよ。夢も希望も、ありとあらゆる可能性もまた無限さ』
「おばあちゃん、命の木に帰ろう」
『あぁ』
間違っても落としたり汚したりしないよう、大事に夢の黄珠と愛の赤錦をランドセルに仕舞う。そうしてランドセルを背負い直したミキは、惜しむようにおばあちゃんを腕に抱き上げた。かつて、幼いミキがおばあちゃんの腕に、そうして抱いてもらったように。
「おばあちゃん、私が小さかった時の事を教えて?」
命の木に着いた時が、おばあちゃんとの別れの時。神様の使命で与えられた二人の邂逅は、終わりだ。
『あぁ、ミキが生まれた日はね――』
「うん」
来た道を、おばあちゃんを腕に抱いて、ゆっくりと歩いて帰る。ミキは惜しむように、味わうように、一歩一歩踏みしめて進む。
『ミキが幼稚園に上がった日はね――』
「うん」
おばあちゃんとの昔話は、ミキの誕生から、ミキが幼稚園、小学校とその成長を辿っていく。
『ミキが小学校に上がった日はね――』
「うん」
そうしておばあちゃんの昔話がミキの現在に追い付いた時、ミキとおばあちゃんは天界の中心、命の木の根元に戻ってきていた。
「おばあちゃん、私が中学校に上がってからの続きは全部、次に会った時のお楽しみに取っておいて」
『あぁ、楽しみに待っているよ』
おばあちゃんを地面に下ろし、乾いた幹をサラリと撫でた。
心なしか、出発前よりも幹が、潤いを取り戻しているように感じた。
希望の緑芽は、既に天界の地面を覆い尽くす勢いで、そこかしこに芽吹いていた。
おばあちゃんが言った通り、命の木の根元にも芽を出していた。
「お待たせ。今、愛の赤錦と夢の黄珠もあげるからね。これでやっと、元気になるね」
ミキは背中に背負っていたランドセルを下ろすと、中から愛の赤錦と夢の黄珠を取り出した。
そっと、木の根元に置いた。
変化は、すぐに訪れた。頭上で、命の木が葉擦れの音を立て始めた。
「わあっ!」
見上げれば、木は枝を伸ばし、葉を幾重にも広げて茂っていく。
「木の実がいっぱい!」
それに伴って、赤い実が次々と実っていく。元々付いていた実も、ふっくらと膨らんで、赤さを濃くしていく。
『まるで今にも命の鼓動が聞こえてくるようだね』
「うん……」
ミキとおばあちゃんはしばし、食い入るように頭上を眺めていた。
命の木はもう、大丈夫だ。
『ミキ、ありがとう』
「え!? おばあちゃんっ!?」
見下ろしたおばあちゃんの姿が、色づく実とは対照的に薄く、色をなくしていく。桜色の体毛は段々と赤さをなくし、白い天界の景色に溶ける。
だけど、薄くなっているのはおばあちゃんだけじゃない。ミキ自身の姿もまた、薄く白く、霞み始めていた。
ミキが慌てておばあちゃんに手を伸ばす。けれどミキの手は、もうおばあちゃんの体を捉えられない。
手はおばあちゃんの体をすり抜けて宙を掻いた。
ミキの胸に熱い思いが込み上がる。おばあちゃんの胸にも熱い思いが満ちる。
『ありがとう、ミキ。達者で、暮らすんだよ』
だけどこれは、分かっていた事。ミキは震える拳を握り締めた。
確かな感触を伝える手は、既に視界から消えかかっていた。
「うん、ありがとうおばあちゃん! 私、頑張るよ!」
二人の目線が絡む。
互いの目に、しっかりと頷き合ったところで、真っ白な光の渦に呑み込まれた。
ミキが眩しさに目を瞑った一瞬で、おばあちゃんの姿も、命の木も、天界の幻影までもが跡形もなく消えた。