2
つつがなく、葬儀は終わる。
ミキの日常から、おばあちゃんはいなくなった。それでも翌朝になれば太陽は昇り、日常の暮らしがやってくる。
「ミキ、お母さんとお父さんお寺さんへお礼に行ってくるけど、食べたら遅刻しないように出るのよ。玄関の鍵も忘れないでね」
「はーい、分かってる。お母さんお父さんも気を付けていってらっしゃい」
先に家を出る両親を見送って、残りのトーストをかじる。
(おばあちゃんのお味噌汁が、懐かしいな)
おばあちゃんの作る和食の朝ごはんを、懐かしく思い出した。
「いってきまーす」
食べ終えると、ランドセルを背負う。答える者のない玄関で一人呟いて、家を出た。もちろん、きちんと施錠するのも忘れない。
通い慣れた通学路を歩き、ミキは小学校に向かった。
小学校までは徒歩で十五分。団地の子や、大通り沿いに新しく出来たマンションの子たちは一緒に登校をしている。けれど住宅地の外れにあるミキの家の周囲には、同年齢の子はいない。
そのため、ミキはいつも一人で小学校に通っていた。
(あの猫、珍し薄桃色……あれ? 首のハンカチ、私がおばあちゃんに買ってあげたやつにそっくり)
小学校に向かう途中、ブロック塀の上で毛づくろいする猫を見た。ミキは思わず足を止めた。
猫は、とても珍しい毛色をしていた。
桃色といっても、もちろん蛍光色ののような派手なピンクをしているわけではない。その体毛は薄い赤茶色だが、朝日を浴びた毛色が、ミキの目には薄桃に見えた。
しかし珍しい毛色より一層ミキを驚かせたのは、猫の首に巻かれた見覚えのあるハンカチ。
(こんな偶然って、あるんだ……)
「猫ちゃん、奇麗なピンク色ね?」
ミキの声に、薄桃色の猫は目をまん丸に見開いた。
吸い寄せられるように、ミキはそっと手を伸ばす。薄桃色の猫は、ミキの手を避けなかった。
ミキの指先が猫の背中に触れる。
ふわふわの長毛は見た目に違わず柔らかで、そして温かかった。
『こりゃ驚いたね~。ミキにはあたしが見えているようだね?』
「えっ、おばあちゃん!?」
突然聞こえたおばあちゃんにそっくりな声。ミキは声の主を求めて、きょろきょろと首を巡らせた。
『まったく、どこを見ておる。あたしはここだよ』
ミキはギシギシと軋む首を巡らせて再び塀の上に視線を留める。
何度見ても、塀の上には薄桃色の猫が一匹のっているだけだ。猫は機嫌良さそうに、パタパタと尻尾を揺らしていた。
ミキはゴクリと唾を飲み込んだ。
「嘘でしょう? 猫が、おばあちゃんの声でしゃべってる!?」
『なにが嘘なものか。あたしゃ話せるし、ちゃあんとこうして動けるよ』
猫は塀の上で立ち上がると、くるりとターンをしてみせた。そうしてちゃめっ気たっぷりにミキを見下ろした。
ミキは目を丸くして立ち尽くした。
「本当におばあちゃんなの!?」
『おや、信じられないかい? それじゃあね……』
猫は首に結ぶハンカチに前足の爪を引っ掛けると、器用に結び目を解いた。
『これをごらん?』
ミキは、恐る恐る猫が差し出したハンカチを覗く。
「私があげたハンカチ!」
前足の爪に引っ掛かって揺れるハンカチの端、目に飛び込んだ不器用な刺繍に、ミキは驚きの声をあげた。
見覚えのある刺繍は、間違いなくミキの手で刺した刺繍。おばあちゃんの名前が刻まれていた。
『奇麗なハンカチをありがとう。宝物にするよ』
馴染みのない猫の姿。だけど優しい声も、労わりの篭った言葉も、間違いなくおばあちゃんのそれ。
胸が詰まって、目頭がジンと熱を持つ。
こんなのはありえないと思うのに、優しい目をしてミキを見下ろすその猫は、確かにおばあちゃんだった。
「おばあちゃんは、死んじゃったんじゃなかったの? どうして猫になってるの?」
ミキの頭は嬉しいだけでなく、いっぱいの疑問が溢れていた。
昨日の葬儀で、おばあちゃんを見送ったはずではなかったのか? ミキの心の中で生死の概念、その根幹が揺らぐ。
『あたしは神様から、ミキの守護精霊として仮初の姿をもらったのさ』
おばあちゃんは、そんな心の動揺まで全てお見通しのようで、努めて穏やかにミキに語り掛けた。
「守護精霊って?」
おばあちゃんの言葉は、ミキにとってあまりに不可解な物だった。
『ミキを支える役目とでも思ってくれたらいい。実はね、天界にある命の木が枯れ始めているんだよ。命の木が枯れ果ててしまったら、当然新しい命が生まれなくなってしまう』
「それ、なんの冗談?」
バクバクと煩く鼓動が早鐘を刻んでいた。
おばあちゃんがここにいる事実こそが、告げられた言葉が奇天烈な冗談ではあり得ないという、なによりの証拠。認める事は容易でないが、切り捨てるという選択は選べなかった。
『冗談なものか。救えるのは、救う力があるのはミキだけなんだよ』
おばあちゃんは、含めるようにゆっくりと語る。
「私だけ?」
『あぁ、ミキなら出来る。そしてこれはミキにしか、出来ない』
不安げに問う私に、おばあちゃんは断言した。
「私は具体的に何をすればいいの?」
命の木が枯れれば、世界が滅びてしまう。そんな事態は、なんとしても阻止しなければならないが、ミキの心は揺れていた。
『そうさね。命の木を助けるためには、特別な肥料を与える必要があるんだよ』
「特別な肥料?」
『ああ、肥料は全部で三つ。それらを全部集めるのさ。肥料のひとつ目は夢の黄珠。ふたつ目は愛の赤錦。みっつ目は希望の緑芽。この三つの肥料が全て揃った時、命の木は息を吹き返す』
「それの在処はおばあちゃんが知ってるの?」
おばあちゃんはゆるく首を横に振った。
『いいや、言ったろう? あたしはあくまで、ミキを支える役目さ。肥料を集める事は、神様がミキに与えた使命だよ。だから探すのも、ミキにしか出来ない。ミキ、命の木には一刻の猶予もないんだよ。だから一刻も早く、肥料を探しに出発しなければならないよ』
(そんな事、突然言われたって分かんないよ)
ミキの心は混乱していた。神様から与えられた使命なら、引き受けたい思いはもちろんある。けれど私に出来るのかと、不安も浮かぶ。
『なに、ミキ一人でやれと言っているわけじゃない。あたしが一緒にいるよ』
「私に、出来るかな?」
おばあちゃんが、ピョンと塀から飛び降りる。ミキは慌てておばあちゃんを腕の中に抱き留めた。
猫になったおばあちゃんは、ミキの腕の中にすっぽりと収まった。
これまでは悲しい時、悔しい時、ミキがおばあちゃんに抱き締められていた。それが今は、ミキがおばあちゃんを抱き締めている。
不思議な心地がした。腕の中からおばあちゃんがミキを見上げる。
『なに、そんなのはやってみなけりゃ分らんよ。だけどね、ミキならきっと出来る。それに、やらなきゃいつまでだって出来ないよ』
真剣な目で、おばあちゃんが告げた。おばあちゃんの言葉がミキの背中を押し、一歩を踏み出す勇気をくれる。
「そっか。やってみないと、始まらないよね! 私、一生懸命やってみる! 頑張ってみるよ! だけどもし、困った時は力になって?」
おばあちゃんは嬉しそうに微笑んで、力強く頷いた。
『子供だとばかり思っていたけど、いつの間にかこんなに頼もしくなっていたんだね』
おばあちゃんはすっかり逞しく成長したミキを、眩しい思いで見上げていた。
「あ! 学校はどうしよう!?」
肥料を集める旅はきっと、一両日で済むものじゃないだろう。
おばあちゃんと一緒なら道中に不安はない。けれど長期間の不在を、両親や先生には何と説明したものだろう。
『心配おしじゃないよ。これは神様からの特命だからね。ミキが全ての旅を終えた時、戻ってくるのは今この瞬間だよ』
おばあちゃんの言葉にミキは首を捻った。おばあちゃんが、いたずらな笑みを浮かべた。
『ほら、周りを見てごらんよ』
おばあちゃんに言われ、ミキが周囲を見渡す。
「止まってる!」
思わず、息を呑んだ。
今の今まで、気付いていなかったのが不思議なくらいだった。見渡した周囲は、人も車も、全てがその場にピタリと固まっていた。
それはまるで、時が止まってしまったかのようだった。
『分ったかい? これはこの世界だけじゃない、天界も巻き込んでの緊急事態だからね。特例だけど全て成し終えるまで、世界は神様が停止させているよ』
事の大きさを自覚して、ミキの足が震えた。同時に、ミキの中で決意も固まる。
(これは見過ごしていい事態じゃない。誰かがやらないとならない)
「分かった! 早く肥料を探しに行こう!」
『よし、それじゃあ出発するよ! みゃーおん!』
おばあちゃんが大きく鳴くと、真っ白な光がミキを包んだ。次の瞬間には、ミキの姿も桃色の猫の姿も消えていた。
つつがなく、葬儀は終わる。
ミキの日常から、おばあちゃんはいなくなった。それでも翌朝になれば太陽は昇り、日常の暮らしがやってくる。
「ミキ、お母さんとお父さんお寺さんへお礼に行ってくるけど、食べたら遅刻しないように出るのよ。玄関の鍵も忘れないでね」
「はーい、分かってる。お母さんお父さんも気を付けていってらっしゃい」
先に家を出る両親を見送って、残りのトーストをかじる。
(おばあちゃんのお味噌汁が、懐かしいな)
おばあちゃんの作る和食の朝ごはんを、懐かしく思い出した。
「いってきまーす」
食べ終えると、ランドセルを背負う。答える者のない玄関で一人呟いて、家を出た。もちろん、きちんと施錠するのも忘れない。
通い慣れた通学路を歩き、ミキは小学校に向かった。
小学校までは徒歩で十五分。団地の子や、大通り沿いに新しく出来たマンションの子たちは一緒に登校をしている。けれど住宅地の外れにあるミキの家の周囲には、同年齢の子はいない。
そのため、ミキはいつも一人で小学校に通っていた。
(あの猫、珍し薄桃色……あれ? 首のハンカチ、私がおばあちゃんに買ってあげたやつにそっくり)
小学校に向かう途中、ブロック塀の上で毛づくろいする猫を見た。ミキは思わず足を止めた。
猫は、とても珍しい毛色をしていた。
桃色といっても、もちろん蛍光色ののような派手なピンクをしているわけではない。その体毛は薄い赤茶色だが、朝日を浴びた毛色が、ミキの目には薄桃に見えた。
しかし珍しい毛色より一層ミキを驚かせたのは、猫の首に巻かれた見覚えのあるハンカチ。
(こんな偶然って、あるんだ……)
「猫ちゃん、奇麗なピンク色ね?」
ミキの声に、薄桃色の猫は目をまん丸に見開いた。
吸い寄せられるように、ミキはそっと手を伸ばす。薄桃色の猫は、ミキの手を避けなかった。
ミキの指先が猫の背中に触れる。
ふわふわの長毛は見た目に違わず柔らかで、そして温かかった。
『こりゃ驚いたね~。ミキにはあたしが見えているようだね?』
「えっ、おばあちゃん!?」
突然聞こえたおばあちゃんにそっくりな声。ミキは声の主を求めて、きょろきょろと首を巡らせた。
『まったく、どこを見ておる。あたしはここだよ』
ミキはギシギシと軋む首を巡らせて再び塀の上に視線を留める。
何度見ても、塀の上には薄桃色の猫が一匹のっているだけだ。猫は機嫌良さそうに、パタパタと尻尾を揺らしていた。
ミキはゴクリと唾を飲み込んだ。
「嘘でしょう? 猫が、おばあちゃんの声でしゃべってる!?」
『なにが嘘なものか。あたしゃ話せるし、ちゃあんとこうして動けるよ』
猫は塀の上で立ち上がると、くるりとターンをしてみせた。そうしてちゃめっ気たっぷりにミキを見下ろした。
ミキは目を丸くして立ち尽くした。
「本当におばあちゃんなの!?」
『おや、信じられないかい? それじゃあね……』
猫は首に結ぶハンカチに前足の爪を引っ掛けると、器用に結び目を解いた。
『これをごらん?』
ミキは、恐る恐る猫が差し出したハンカチを覗く。
「私があげたハンカチ!」
前足の爪に引っ掛かって揺れるハンカチの端、目に飛び込んだ不器用な刺繍に、ミキは驚きの声をあげた。
見覚えのある刺繍は、間違いなくミキの手で刺した刺繍。おばあちゃんの名前が刻まれていた。
『奇麗なハンカチをありがとう。宝物にするよ』
馴染みのない猫の姿。だけど優しい声も、労わりの篭った言葉も、間違いなくおばあちゃんのそれ。
胸が詰まって、目頭がジンと熱を持つ。
こんなのはありえないと思うのに、優しい目をしてミキを見下ろすその猫は、確かにおばあちゃんだった。
「おばあちゃんは、死んじゃったんじゃなかったの? どうして猫になってるの?」
ミキの頭は嬉しいだけでなく、いっぱいの疑問が溢れていた。
昨日の葬儀で、おばあちゃんを見送ったはずではなかったのか? ミキの心の中で生死の概念、その根幹が揺らぐ。
『あたしは神様から、ミキの守護精霊として仮初の姿をもらったのさ』
おばあちゃんは、そんな心の動揺まで全てお見通しのようで、努めて穏やかにミキに語り掛けた。
「守護精霊って?」
おばあちゃんの言葉は、ミキにとってあまりに不可解な物だった。
『ミキを支える役目とでも思ってくれたらいい。実はね、天界にある命の木が枯れ始めているんだよ。命の木が枯れ果ててしまったら、当然新しい命が生まれなくなってしまう』
「それ、なんの冗談?」
バクバクと煩く鼓動が早鐘を刻んでいた。
おばあちゃんがここにいる事実こそが、告げられた言葉が奇天烈な冗談ではあり得ないという、なによりの証拠。認める事は容易でないが、切り捨てるという選択は選べなかった。
『冗談なものか。救えるのは、救う力があるのはミキだけなんだよ』
おばあちゃんは、含めるようにゆっくりと語る。
「私だけ?」
『あぁ、ミキなら出来る。そしてこれはミキにしか、出来ない』
不安げに問う私に、おばあちゃんは断言した。
「私は具体的に何をすればいいの?」
命の木が枯れれば、世界が滅びてしまう。そんな事態は、なんとしても阻止しなければならないが、ミキの心は揺れていた。
『そうさね。命の木を助けるためには、特別な肥料を与える必要があるんだよ』
「特別な肥料?」
『ああ、肥料は全部で三つ。それらを全部集めるのさ。肥料のひとつ目は夢の黄珠。ふたつ目は愛の赤錦。みっつ目は希望の緑芽。この三つの肥料が全て揃った時、命の木は息を吹き返す』
「それの在処はおばあちゃんが知ってるの?」
おばあちゃんはゆるく首を横に振った。
『いいや、言ったろう? あたしはあくまで、ミキを支える役目さ。肥料を集める事は、神様がミキに与えた使命だよ。だから探すのも、ミキにしか出来ない。ミキ、命の木には一刻の猶予もないんだよ。だから一刻も早く、肥料を探しに出発しなければならないよ』
(そんな事、突然言われたって分かんないよ)
ミキの心は混乱していた。神様から与えられた使命なら、引き受けたい思いはもちろんある。けれど私に出来るのかと、不安も浮かぶ。
『なに、ミキ一人でやれと言っているわけじゃない。あたしが一緒にいるよ』
「私に、出来るかな?」
おばあちゃんが、ピョンと塀から飛び降りる。ミキは慌てておばあちゃんを腕の中に抱き留めた。
猫になったおばあちゃんは、ミキの腕の中にすっぽりと収まった。
これまでは悲しい時、悔しい時、ミキがおばあちゃんに抱き締められていた。それが今は、ミキがおばあちゃんを抱き締めている。
不思議な心地がした。腕の中からおばあちゃんがミキを見上げる。
『なに、そんなのはやってみなけりゃ分らんよ。だけどね、ミキならきっと出来る。それに、やらなきゃいつまでだって出来ないよ』
真剣な目で、おばあちゃんが告げた。おばあちゃんの言葉がミキの背中を押し、一歩を踏み出す勇気をくれる。
「そっか。やってみないと、始まらないよね! 私、一生懸命やってみる! 頑張ってみるよ! だけどもし、困った時は力になって?」
おばあちゃんは嬉しそうに微笑んで、力強く頷いた。
『子供だとばかり思っていたけど、いつの間にかこんなに頼もしくなっていたんだね』
おばあちゃんはすっかり逞しく成長したミキを、眩しい思いで見上げていた。
「あ! 学校はどうしよう!?」
肥料を集める旅はきっと、一両日で済むものじゃないだろう。
おばあちゃんと一緒なら道中に不安はない。けれど長期間の不在を、両親や先生には何と説明したものだろう。
『心配おしじゃないよ。これは神様からの特命だからね。ミキが全ての旅を終えた時、戻ってくるのは今この瞬間だよ』
おばあちゃんの言葉にミキは首を捻った。おばあちゃんが、いたずらな笑みを浮かべた。
『ほら、周りを見てごらんよ』
おばあちゃんに言われ、ミキが周囲を見渡す。
「止まってる!」
思わず、息を呑んだ。
今の今まで、気付いていなかったのが不思議なくらいだった。見渡した周囲は、人も車も、全てがその場にピタリと固まっていた。
それはまるで、時が止まってしまったかのようだった。
『分ったかい? これはこの世界だけじゃない、天界も巻き込んでの緊急事態だからね。特例だけど全て成し終えるまで、世界は神様が停止させているよ』
事の大きさを自覚して、ミキの足が震えた。同時に、ミキの中で決意も固まる。
(これは見過ごしていい事態じゃない。誰かがやらないとならない)
「分かった! 早く肥料を探しに行こう!」
『よし、それじゃあ出発するよ! みゃーおん!』
おばあちゃんが大きく鳴くと、真っ白な光がミキを包んだ。次の瞬間には、ミキの姿も桃色の猫の姿も消えていた。