「あ、あれじゃない? あの看板、見て。……トオル、どうしたの?」
「ん、いや、なんでもないよ」
ホタルが首を傾げて、透を見上げる。表情は薄いけれど、心配してくれているのだということが伝わってきた。
自分は、昨日会ったばかりのこの少女にも見抜かれるくらい暗い顔をしていたのか。透はほろ苦く笑った。
恋愛関係だけではない。仕事にもいい思い出がなかった。
かろうじて就職できた会社は急に業績が傾き、透を退職に追い込むために、上司が様々な嫌がらせをしてくるようになった。あからさまに無視され仕事の量を減らされ、ささいなミスを会議の場や同僚の見ている前で公然と責め立てられた。
透の大人しい性格も災いしたのか日に日に人格攻撃の度合いは増し、透は体調を崩し夜も眠れなくなった。古城市に帰ってきて数か月経ち、最近ようやく悪夢を見ることが少なくなってきたのだ。
「喫茶、ラウンジ、……はな?」
「茉莉花、ジャスミンのことだね」
住宅街から細い裏通りに入ると、昔懐かしい雰囲気の店がひょいと目に入った。
『喫茶 茉莉花』は看板にラウンジの表記もあり、夜はスナックになるらしい。煉瓦造りの小さな花壇の奥に出窓があって、レースのカーテンがかかっていた。日焼けしたカーテンや窓際に置かれた陶器の人形に、どことなくノスタルジックな昭和の香りがする。
昨夜のことだ。
古い台帳のメモに書かれていた携帯に電話すると、意外なことにその番号は生きていた。
『夕凪杏子さんですか?』
『……どちら様でしょうか』
しばらく呼出音が鳴ってから、不審そうに電話に出たのは落ち着いた声の大人の女性だった。
『古城市にございます、ほたるび骨董店の夏越と申します』
幸い夕凪杏子はほたるび骨董店のことを覚えていたようで、写真立てとその中に入っていたはずの写真について尋ねたいという透の話を聞き、すぐに会ってもらえることになった。
『喫茶 茉莉花』は杏子が東京で働いている店だ。