「じゃあね、また来るね」

 ホタルとは途切れがちに小一時間ほど話して、店舗の出入り口ではない住居用の勝手口から送り出した。

「あ、ああ。準備をしておくよ」

 手を振るホタルに、どこに帰るのかは聞けなかった。聞いてはいけない気がしたのだ。

 ホタルの両親は離婚して、今は祖父母と暮らしていると言う。それだけは聞いた。幼いころの透に近い境遇だった。
 心の琴線に何かふれる。思い出しそうになるが、思い出せないもどかしさ。

 ホタルと話して、まず写真立てを売った人物を探そうということになった。
 筆まめな祖母のメモによると、そのひと、夕凪杏子は家財道具のほとんどを売り払って上京したらしい。東京での連絡先も書かれていた。

「明日が定休日でよかった」

 透はそこにホタルを連れていくことを約束した。
 保護者の許可もなく遠方に連れ出すのもどうかとは思ったのだが、ホタルが『おばあちゃんに話しておくから』と言うので、そのまま任せてしまったのだ。
 透はため息を吐いた。自分は本当に駄目な大人だ。

 古い台帳の備考欄に書かれていたのは、東京の下町にあるアパートの住所と〇九〇から始まる携帯電話の番号。なにぶん十五年前の情報で、今もそこにいるのか微妙だが、それしか手がかりはない。

 ホタルは麦茶が好きと言いながら、グラスにはまったく口を付けなかった。ちゃぶ台の上のグラスを片づけて、縁側に出る。
 小さな中庭は質素で飾りけがない。ほたるび骨董店へと続く苔むした石畳の脇に、姫沙羅の木が一本だけ植わっている。椿に似た一重の白い花がいくつか、緑の葉の陰にひっそりと咲いていた。

「思い出したいこと、か……」

 少女の家族写真の謎。そして、なぜか時期が符合する自分の少年時代の空白。
 これは偶然なのだろうか。

 グルグルグルと大型の猛獣の唸り声のような音を立てて、遠雷が近づいてきていた。瓦屋根の向こうに積乱雲が見える。
 その時、青く晴れていた空が突然暗くなると、勢いよく雨が降りはじめた。夕立だ。

 ホタルは無事に家に着いただろうか……。

 雨粒が焼けたアスファルトを濡らし、埃くさい夏の空気が漂ってくる。
 子供のころ、遊び疲れて帰ってきた夏休みの匂い。濡れた髪をタオルで拭きながら麦茶を飲んで、驟雨を眺めている時の懐かしい匂いだ。

 言葉にならない喪失感が空っぽの胸にあふれて、透は縁側で雷を怖がる子供のようにうずくまった。