後宮の庭園には(たん)(けい)が咲き、辺りには甘い香りが漂っていた。水月と赤や黄色に変わり始めた葉を見たり、後宮を訪れた青藍と庭園を散歩したりと、幸せな日々を過ごしていた。

 しかし、幸せとは(はかな)いものだ。こうであればいい、そう願えば願うほどその想いとは裏腹に砕け散っていく。

 春麗が自身の異変に気付いたのは、秋の長雨が降り続き、(うっ)(そう)とした空気が後宮を包む頃だった。

「嘘……」

 鏡に映る自分の顔に黒い文字が浮かび上がっていた。自分自身にこの文字が見えるのは初めてで、桃燕の額に文字が見えて以来のことだった。

「刺殺……。私は、誰かに殺されるのね」

 誰かの悪意が詰まったようなその二文字に、春麗は身を震わせた。このままでは自分は数日のうちに死んでしまうだろう。
それは後宮に上がる前の、いや上がった直後の春麗なら喜んだことかもしれない。だが、今は。

 怖い。死んでしまうことが。そしてまた青藍を一人にしてしまうことが、怖くて怖くて仕方がない。
震える身体を抑えようと春麗は両手で自分自身を抱きしめた。今、春麗が死ねば、青藍は自分を責めるだろう。やはり自分は呪われていたのだと。死の皇帝が誰かをそばに置いてはいけなかったのだと、そう悔やむだろう。それだけは嫌だった。

「――あれ?」

 春麗はおかしなことに気付いた。青藍の周りの人間は一人また一人と死んでいく。それは彼が死の皇帝と言われる理由にもなっていた。

 それならどうして浩然は生きているのだろう。浩然は青藍が幼少の頃から仕えていると言っていた。何故、浩然一人が青藍のそばに居続けられるのだろう。

 確かに一度、毒殺されそうにはなっていたが、春麗の目の力のおかげで助かり、珠蘭の手に掛かってはいない。青藍の側近だというのであれば、真っ先に狙われてもおかしくなさそうなのに。

 無差別に全員が死んでいるわけではなく、人為的なものを感じ、それこそが呪いではない証拠だと言えるかもしれない。ただ、真っ先に狙われそうな浩然が例外というのが解せない。何故浩然だけが、どうして……。

「春麗?」
「あ……」

 これからどうすればいいか、そしてどうして浩然だけが例外なのか。その答えを考え続けていた春麗は、青藍が部屋に来ても意識が考え事に向いてしまい、会話に集中できなかった。
返事をしない春麗に青藍は眉をひそめると、そっと額に手を当てた。

「熱はないようだが」
「も、申し訳ございません」

 謝る春麗の額から頬へと手を移動させると、青藍は春麗の金色の目を真っ直ぐ見つめた。

「具合が悪いのか?」
「いえ、その少し考え事を」
「……気に入らん」

 一言呟くと、青藍は隣に座る春麗の膝に頭を載せ、長椅子に寝転んだ。幞頭をしていない青藍の髪の毛がさらりと流れ、襦裙越しに春麗の膝から滑り落ちる。

「しゅ、主上!?」
「何かあったのならきちんと話せ。そんな顔、お前には似合わん」
「……私は、普段どんな顔をしていますか?」
「お前は、そうだな。春に咲く梅桃に似ている。小さく頼りなさげに見えるのに空に向かって咲き誇る梅桃。可憐な花を咲かせるその花弁はお前の笑った顔のようだ」
「ゆすら、うめ……」

 思いも寄らない言葉に、春麗は戸惑い、そして後宮の庭に咲いていた梅桃を思い出す。あれに自分が似ていると青藍は言った。あの小さく可愛い花に……?

 言葉に詰まる春麗に、青藍はふっと笑った。

「そんなことないと言いたげな顔をしているな。俺の言葉を否定するか?」
「そ、そういうわけではありませんが……。ですが、私など花にたとえられるのも烏滸がましく……」
「お前は自分を卑下しすぎだ。お前は私の唯一の妃だ。違うか?」
「それ、は……そう、かもしれません、が」

 桃燕がいなくなった今、後宮にいる女は春麗を除けば女官ばかりだ。
今では女官も宦官たちも、春麗を青藍の妃として扱うようになっていた。
しかし唯一の妃だと言われたところで、それが形だけのものでしかないことは他でもない、春麗が一番よく知っていた。

 本当の妃であれば与えられるはずの位階が、今もなお春麗にはない。それは、春麗が場つなぎだけの生贄妃であり、決して本物ではないという証に他ならなかった。

 青藍のことを想えば想うほど、無位である自分が悲しくなる。本当の妃だったらよかった。そうであれば、こんなふうに苦しく辛く感じることもなかったのに……。

「仕方ないな」

 俯く春麗の頬に、青藍は微笑みながら手を伸ばした。その表情に、春麗の胸は酷く痛んだ。

 出会った頃とは違う、優しくて温かい表情。こんなに優しい人が自分のせいでまた辛い想いをしてしまう。思い上がっているわけではない。それでもきっと春麗が死ねば、青藍は自分のせいだと責めるだろう。傷つき、胸を痛めるだろう。それがどうしても嫌だった。

「……っ」
「――よし、決めたぞ」
「え?」
「浩然」
「はっ」

 扉の向こうで控えていた浩然は、青藍の呼び掛けにそっと扉を開けた。青藍は身体を起こすと、扉のそばで頭を下げる浩然へ視線を向けた。

「どうされましたか」
「今日は春麗の部屋で休むことにする」
「……承知致しました」
「えぇっ!?」

 青藍と浩然の会話を聞きながら、春麗は思わず声を上げた。聞き間違いかと青藍の方を見ると、口角を上げて笑っていた。

「なんだ? 何か問題でも?」
「も、問題というか」
「皇帝が妃の部屋に泊まって何が悪い?」
「何も……悪くございません」

 春麗には青藍の言葉を否定することも拒否することもできない。そのまま準備が整えられ、普段一人で眠っている臥牀に二人で眠ることとなった。

「何故、そのように離れるのだ」
「な、何故って……」
「こちらに来い」

 臥牀から落ちそうなぐらい端で眠ろうとする春麗の手を引き、青藍は自分の腕の中へと引き寄せた。春麗に抗えるわけがなく、為す術もないまますっぽりと腕の中に包まれた。

 まるで全身が心臓になってしまったかのように鳴り響き、うるさくて仕方がない。この状態で本当に眠れるのだろうか。そんなことを考えていると、頭上からふっと漏れるような笑い声が聞こえた。

「主上?」
「ああ、いや。心臓の音が凄いなと思ってな」
「それは……このような状態では仕方がないかと……」
「そうか。そうだな」

 あ……。

 春麗の心臓の音とは別に、心地よい響きで鳴る、もう一つの音に気付いた。それはすぐそばから聞こえてくる。

 春麗のもののように早くはないけれど、とくんとくんと脈打つ音が聞こえる。

「主上の、心臓の音も聞こえます」
「そうか」
「この音、好きです」

 春麗の言葉に青藍はふっと笑みを浮かべた。

「好きなのは、心臓の音だけか?」
「そ、それは」

 喉を鳴らし笑う青藍の姿に、ようやく揶揄われていたのだと気付き「もうっ」と頬を膨らませる。そんな春麗の身体を、青藍はもう一度ぎゅっと抱きしめた。

「主上?」
「……昔、こんなふうにすぐそばで心臓の音を聞いたことがある」

 青藍の言葉に春麗は胸元に押し当てていた顔を上げた。青藍はどこか懐かしそうに遠くを見つめていた。

「俺がまだ皇子と呼ばれ皇帝でも皇太子でもなかった頃、浩然とその妹と一緒に後宮を抜け出したことがあった」
「それは大丈夫なのですか?」
「まあ大丈夫ではなかったな。でも、あの時の俺は外の世界を見ることが楽しく、後のことなど考えていなかった」

 その口調がどこかもの悲しく聞こえて、春麗は「それで、どうなったんですか?」と思わず尋ねた。

 願わくば、幼い青藍と浩然たちが叱られずに済みますように、と祈ってしまう。

 青藍は春麗の髪を優しく撫でながら、話を続けた。

「市で色々なものを買って食べていたら、子供が金を持っているってことでたちの悪い奴らに絡まれた。相手にしていなかったのだが、一人が浩然の妹に手を出そうとしてな。カッとなって手を出したら奴ら刃物を出してきた」
「そ、そんなっ」

 当時を思い出すように、青藍は悲痛な表情を浮かべて目を閉じる。春麗の身体を抱きしめる腕に力を込めると、再び口を開いた。

「思いっきり振り上げられた刃物に俺が気付いたのは、俺を庇った浩然が切りつけられてからだった。止まらない血を見て、俺は自分がしたことの重大さにようやく気付いた。後宮にいた時はなんだって言えば叶えてもらえた。誰だって俺の言うことを聞いた。けれど一歩外に出てみたら、俺はちっぽけな()()でしかなかったんだ」

 悔しそうに言う青藍は、今でもその日のことを悔やんでいるのだろう。自分が我が儘を言って外に出なければ浩然が怪我をすることもなかったのに、と。

「浩然を背負ってなんとか帰ることができ、浩然は一命を取り留め俺はこってり叱られたってわけだ。その時背負っていた浩然の心臓の音が、今の春麗の音と同じぐらい早かった。今もあいつの背中にはあの時の傷が残っているはずだ」
「そうだったの、ですか」

 春麗は青藍の浩然への想いを聞いて胸の奥が苦しくなるのを感じた。こんなにも信頼されている浩然が裏切るはずがない。裏切らないであげて欲しい。
この人をこれ以上傷つけないで欲しい。

 春麗は青藍の背中にそっと腕を回した。規則正しい心臓の音が先程よりも伝わってくる。青藍が生きているという証しの音が。

 どこか心地のよいその音に、気付けば春麗は微(まどろ)んでいた。



 目が覚めたのは、日が昇るにはまだ随分と早い頃だった。まるで包み込むように春麗の身体を抱きしめたその腕の持ち主は、小さく寝息を立てていた。

 その頬に、春麗はそっと手を伸ばす。

 こんなふうに人と眠ることは、春麗にとっては母、鈴玉を除けば初めてのことだった。

 人と一緒に眠るというのは、その人を信頼していないとできない行為だ。本来であればこんなふうに青藍が誰かのそばで眠ることはないのかもしれないし、好ましくはないのだろう。

 青藍がこの部屋で眠ると伝えた時、浩然の表情が一瞬曇ったのを春麗は見逃さなかった。それは浩然にとって春麗が信頼に値する人物ではないから、というだけでなく、青藍が誰かと眠りを共にすることがあまり好ましくないからであろう。

 警備のことを考えても、ここではなく自分の宮に戻った方が安全に違いない。そして、それをわかっていない青藍ではない。

 つまり、これは全て春麗のためなのだ。

 春麗はふいに泣きそうになった。目の前にいるこの人が愛しくて、愛しくて仕方がない。青藍が再び一人になり、冷たい臥牀で眠るところを想像すると、胸が苦しくて涙が溢れてくる。

 思い上がるなと笑われるかもしれないが、今この人は春麗を求めている。そう思うと、今まで感じたことのない感情が身体を駆け巡った。

 この感情を人は、何と呼ぶのだろう。胸の奥が熱くて苦しくて切なくて愛しくて涙がこぼれそうで、好きよりももっと深いこの感情を――。

「泣くな」
「っ……しゅ、じょ……」
「泣くな、春麗」

 青藍の指先が春麗の瞳から溢れ出した涙を、優しく拭った。

 そして身じろぎすれば鼻先が触れ合いそうな距離で、青藍は春麗を見つめた。

「何があった」
「な、にも……」
「こんな顔で、何もないと(うそぶ)く気か」
「それは……」
「……気付いていないと思っていたのか」

 その言葉は、あまりにも優しく、あまりにも悲壮で、春麗の胸を揺さぶった。

「何があったか、話せ」
「ですが……」
「春麗」

 名を呼ばれ、真っ直ぐに瞳を見つめられ、春麗にはもう抗えなかった。

「……死の文字が見えました」
「俺に、か」
「いえ。……私に、です」

 青藍の瞳が揺れた。しかし動揺の色をすぐに隠すと、青藍は少しこわばった声で春麗に尋ねた。

「何故だ」
「刺殺とありますので、誰かが私を、殺すようです」
「いつかはわからぬのか」
「……はい」
「くそっ」

 声を荒らげた青藍に、春麗は慌てて口を開いた。

「わ、私が死んだとしても主上のせいではございません。ですので、主上の呪いなどやはり存在は――」
「そのようなことを言っているのではない!」
「え?」

 青藍は春麗の言葉を遮ると、身体を起こした。春麗も慌てて臥牀の上に身体を起こすと、春麗を見つめる青藍を恐る恐る見返した。

「で、では一体……」
「お前は! どうしてそんな大事なことを黙っていたのだ! まさか自分一人で死ぬ気だったのか?」
「い、いえ。もしも私が死んだとしても犯人の手がかり一つでも掴めたらとは思っておりましたが……」
「そんなことはどうだっていい! 犯人などどうだっていいんだ。それよりもお前が死なないことの方が大事だろ!」
「え……? 私が、死なないことの、方が……?」

 それは春麗にとって思いも寄らない言葉だった。
春麗が死ねば、青藍は自分自身を責める。自分の呪いのせいだと。だから死ねないと思っていた。青藍のことを苦しめたくなかったから。もう傷付いて欲しくなかったから。

 しかし、今の言葉はまるで……。

 戸惑いながらも、春麗は必死に言葉を紡ぐ。

「で、ですが犯人がわかれば、もしかすると今まで主上の呪いだと言われていたことの真実がわかるかもしれません」

 証拠がなかった今までの出来事への、皇太后の関与を証明できるかもしれない。そのためなら、春麗は命を賭けたとしても構わなかった。

 青藍はそんな春麗の態度に苛立ちを隠さなかった。

「だがその最中に、お前が命を落としたらどうするんだ」
「私の命など、主上の前ではたいしたことでは――」
「お前はもっと自分自身を大事にしろ!」

 声を荒らげながら発せられる青藍の言葉に、春麗は戸惑うばかりでどうしていいかわからなかった。

 そんなふうに大事に育てられてなどこなかった。それどころか、こんな命、いつなくなってもいいとその方がいいとさえ思っていた。それなら無駄死にするよりは青藍の役に立って死にたかった。

 なのに、目の前のこの人は自分の恐ろしい噂よりも春麗の命の方が大事だと言ってくれる。これは夢だろうか。都合のいい夢を見ているのではないだろうか。



 その日から、青藍は春麗の部屋で眠るようになっていた。朝が来ると、春麗の部屋から自分の宮へと戻っていく。

 朝が来る度に「今日は変わりはないか」と春麗に尋ねるのが日課となった。春麗は曖昧に頷いて見せたが、本当は鏡の中の文字はどんどんと濃くなっている。

 そろそろ最期の日が来るのも近い。春麗は、くっきりと見える文字に、一つの考えを思いついた。

「今、なんと言った?」

 青藍が春麗の部屋で眠るようになって五日が経った頃、臥牀の中で春麗は青藍に提案した。

「ですから、私は囮になろうと思います」
「囮だと? 何を馬鹿なことを!」
「ですがっ」
「そんなことさせるわけがないだろう。万が一があったらどうする」
「……でも、それしか方法はないのです」

 春麗としてもいつ襲われるかわからない状態で日々過ごすのは限界が来ていた。それよりはいっそ囮になり、片付けてしまえればと思った。

 万が一、自分の命は助からなかったとしても、それなら犯人は確実に捕まえられるだろうから。

 春麗の考えを読んだように、青藍は真っ直ぐに金色の目を見つめた。

「死ぬ気か」
「……いえ」
「嘘ではないだろうな?」

 死んでもいいと思っていた。大切な人のために死ねるのであれば本望だと。しかし。

「はい。……それに、万が一の時は、守ってくださるのでしょう? 私は――あなたの妃ですから」

 もしも大切な人と生きられる道があるのなら、その道を選べるのなら、春麗はその道を歩いてみたくなった。青藍と共に生きる、その道を。

 春麗の言葉に、青藍はあっけにとられたような表情を浮かべ、口角を上げた。

「初めて言った自身のための我が儘がこれか」
「嫌いになりましたか?」
「……いや? ますますお前を死なせたくなくなった」

 青藍は春麗の顎を上に向かせると、そっと口づけた。

「必ず死なせない。約束だ」

 そう言うと青藍はもう一度、春麗の唇に自分のそれを重ねた。頬に触れた手と同じぐらい、その唇は熱かった。


 ***


 その日、青藍は政務と来客が立て込み、珍しく春麗の部屋に顔を出すことはなかった。ここ数日、青藍が毎晩のように眠っていたはずの臥牀には、膨らみが一つだけしかなかった。

 真夜中、(しょく)(だい)の灯りが突然消え、そして――。

「死ねっ!」

 突然響いたその声と共に、臥牀へ刃物が突き立てられた。窓から漏れ入る月明かりで照らされた臥牀は、血の色に染まっていく。

 肉を貫いたような感触に男は口角を上げ、死体を確認するために衾をめくり上げようとしたが、躊躇うように手を止めた。死んだことを確認しなければいけないのはわかっているのだが。

 男の脳裏を、腹立たしい記憶がよみがえる。命じられた通り、春麗の実家を調べている最中、足がつき逆に毒殺されそうになったことを思い出す。

 みっともない失態に恥じていた最中、青藍から春麗のおかげで命拾いしたのだと聞かされた時は、情けなくてその日の夜は眠ることもできなかった。おどおどとして人の目も見ることのできないような小娘が一体どうやってと疑問に思うこともあったが、そんな春麗がいつの間にか青藍の寵愛を得ていた。

 ただの小娘であれば殺されることもなかっただろうに。そう、死に怯え後宮から逃げ出したあの桃燕のように。

 一度は帰ってきたが、少し脅すと再び後宮から出ることを選んだ。あの娘も後宮に戻ってこなければ、そして父親を使ってまで青藍に近づこうとしなければ、あのように殺されそうになることもなかったのに。

「馬鹿な女だ」

 その時、物音に気付いたのか扉の向こうから、春麗の侍女である佳蓉が声を掛けてきた。

「春麗様? どうかされましたか?」

 一瞬の躊躇いのあと、男は衾をめくることなく窓から外へと飛び出した。どうせ春麗は死んだ。あれだけの血が流れたのだ。万が一生きていたとしても、刃物には毒が塗ってある。死ぬのも時間の問題だろう。

 できれば桃燕に虐められて後宮から出て行って欲しかった。そのために嫌がらせに目を(つむ)り、さらに桃燕の仕業に見せかけて春麗の宮の前に虫を()いたこともあった。

 自分を助けてくれた春麗を、手にかけたくはなかったが、もう遅い。

「死に顔は見ずにおきましょう。あの時の礼に」

 誰に言うでもなく男は呟くと、血に染まる刃物を草むらに投げ捨て、暗闇を急いだ。



 男は慣れた様子で後宮を進むと、槐殿から華鳳池を挟んで反対の位置にある宮へと足を速めた。

 宮の門には金箔がふんだんに使われ、暗闇でもわかるほど赫々としている。男は見知った衛兵の前を通り抜けると、一番奥の部屋へと向かった。

 扉の前で跪き、頭を下げると声を掛けた。

「珠蘭様」
「……浩然か。お入り」
「はっ」

 開かれた扉の奥、臥牀に寝そべるのは先の皇帝の妻であり、現皇太后である謝珠蘭だった。

 浩然は部屋に入り拱手の礼を取る。「(めん)(れい)」という言葉に頭を上げると、息を一つ吐き、口を開いた。

「完了致しました」
「そう。死体は?」

 一瞬、浩然の脳裏に確認することなくそのままにしてきた春麗の死体と、先程の侍女の声がよみがえった。だが、確認せずともあの血の量なら確実に死んだはずだ。侍女が春麗の死体を見つけるのもこのあとすぐかもしれないが、些細な差だと思い、言葉を続けた。

「そのままに」
「よくやった。ああ、違うか。これも全て死の皇帝のせい、だろう?」

 珠蘭が(よう)(えん)な笑みを浮かべたその瞬間――部屋の扉が吹き飛んだ。


 ***


 青藍は扉を蹴破ると、勢いよく中へと入った。扉の破片があちらこちらに飛び散り、そのうちの一つが浩然の頭に当たる。青藍は蹲った浩然を見下ろした。

「なっ」
「やはり、黒幕はあなたでしたか」
「お前は……!」

 突然現れた青藍の姿に、珠蘭は一瞬戸惑いを隠せなかったが、すぐに怪訝そうな表情を浮かべ青藍を一瞥した。

「何故このようなところにあなたがいるのです? ここはあなたの来るところではございませんよ」
「申し訳ございません、母上。私の従者を追いかけておりましたら、こちらにたどり着いてしまいました」

 白々しく言う青藍に、珠蘭は肩をすくめると言い放つ。

「ああ、そう。ならその者を連れてさっさとお帰りなさい」
「いえ、そういうわけにはいかないのです」
「何?」

 珠蘭の言葉に、青藍は笑いながらそう言うと、足下で俯いたままの浩然を指さした。

「こやつは私の妃に害をなそうとしました」
「それならなおのこと早くお戻りになればよいでしょう」
「ですが、こいつが単独でそんなことをするとは思わず、こうやって跡をつけたのです。きっと黒幕の元に報告に行くと思いましたので。その先が母上、あなたのところだったのです」
「はっ、なにを。まさか私がこやつに指示を出したとでも言うのですか? それにしても妃が死んだというのに犯人を追いかけるとは。最近入った妃に入れ込んでいるという話を聞いていましたが、結局その程度だったのですね」

 珠蘭の言葉に、青藍はおかしくて仕方がないとばかりに腹を抱えて笑った。

 その姿に、珠蘭は眉をひそめ、青藍を睨みつけた。

「何を笑っているのです」
「いえね、まさか母上の元にまでそんな話が届いているとは思わず。ですが、不思議ですね。私があれに入れ込んでいることを知っているのは妃の侍女と――浩然ぐらいなのですが。ああ、それから妃を見張っている女もいましたね。もしかしてこの中のどれかが母上と繋がりでもあるのでしょうか?」
「……噂というのはどこにでも届くものですよ」

 珠蘭は青藍の言葉を聞き流すと淡々と話した。その口調に変化は見られない。そんな珠蘭を前に、青藍は話を続ける。

「そうかもしれませんね。ああ、そうだ。先程の話、一つ間違いがあるのです」
「間違い?」
「ええ。――私の妃は、死んでなどいませんよ」
「なっ……!」

 青藍の背後から、春麗はひょこっと顔を出した。
本当はこの場に来てはいけないと言わたが、自分自身も命を狙われたのだから話を聞く権利がある、と無理矢理ついてきたのだ。

 青藍は「急に我が儘が増えたな」と笑っていたけれど止めることはなかった。そばにいる方が守りやすいとそう思ったのかもしれない。

「……そうですか。ご無事で何より。ところで私はそろそろ休もうかと思います。その男を連れて下がりなさい」
「母上の元に報告に来たこの男を、連れて行ってもよろしいのですね」
「ええ。私には縁もゆかりもない者ですから」
「……そうですか」

 青藍は悔しそうに顔を歪めた。その後ろで春麗も掌を握りしめる。
証拠も何もなければ、皇太后という立場の珠蘭を裁けないことはわかっていた。わかっていたからこそ浩然と一緒にいるところに踏み込み、言い逃れができないよう自白させたかったのだ。

 全てがわかれば今まで青藍の周りで死んだ人たちが、青藍のせいではなく青藍のせいに見せかけたかった皇太后の仕業だということがはっきりするから。

 しかし、これでは……。

「わかりました。まあ黒幕がいるとすれば、こいつが全てを吐いてくれることでしょう」

 青藍は珠蘭にそう告げると、浩然の手に縄をかけた。

 そうだ、あとは浩然が全てを話してくれれば。そして何か皇太后に繋がる証拠が見つかればなんとかなるかもしれない。

「え……?」

 青藍が浩然を連れ珠蘭に背を向けたその瞬間、浩然の顔に真っ黒の文字で『刺殺』と浮かび上がったのが見えた。と、同時に春麗の身体が動いた。

 そして――。

「春麗!」

 痛みなのか熱さなのかわからない衝撃が春麗の腹に走る。勢いよく引き抜かれると、今度こそ春麗の血が飛び散った。

「あっ……ああぁっ!」
「春麗!」

 溢れ出る血を、青藍は自身が着ていた黄袍を脱ぎ、春麗の赤く染まった腹に当てた。

「何故……」

 止まることのない血に、青藍は春麗の身体をそっと抱きかかえた。
何か言いたいのに、何も口から出てこない。必死に腕を上げ、青藍の目尻から溢れる涙をそっと拭った。

「浩然様が、いなくなったら……主上が、悲しむ、から……」

 途切れ途切れに話す春麗の身体を、青藍は抱きしめ続ける。その耳元に届くように、春麗は必死で言葉を紡いだ。

「これ、で……皇太后様に、繋がる、証拠……が」
「死ぬな! 春麗! 春麗!!」

 薄れゆく意識の向こうで、青藍が自分の名前を叫び続ける声が聞こえた気がした。