本格的に眠り始めた凛を見つめながら、そばのベンチに並んで座って、しばらくどちらも無言でいた。数分後、沈黙を打ち破ったのはみづほの方だった。
「話って、何?」
「え、ああ──戻ってから話そうかと」
「気になるから、今言ってくれる?」
悩むような間を置いた後、わかった、と尚隆はうなずく。
「実は、来年早々に、転勤することになって」
「転勤? どこに」
「本社。向こうの営業部から、直々に呼ばれたらしくて」
「え、すごいじゃない」
本社営業部と言えば、各支社の営業部員からすれば憧れの部署だと聞く。売上額トップである分ノルマも厳しいらしいが、そこから声がかかったということは普段の実績が認められてのことに違いないし、名誉と言っていいのではなかろうか。
難があるとすれば、この町からはさらに、遠い場所になること。時間的に、今のように日帰りで行き来するのは難しくなるだろう。
「それで、……引っ越しが年末とかになるから慌ただしいけど。付いてきてもらえないか」
「────え?」
「凛も1歳になったし、これからはいろいろわかるようになるだろ。いい機会だと思うんだけど」
尚隆の言う通りである。彼も、みづほと同じように考えていたのだ。凛のためを思うなら、いつまでも今のまま、両親が離れて暮らす状態でいるのは良くない。
しいて問題を言うなら、仕事を世話してくれた叔父たちへの義理であった。今は凛を連れての出勤も認めてくれている彼らに対し、申し訳ない思いもあって仕事を続けているが、事情を知る叔父や従兄は事あるごとに「何かあるならいつでも辞めていい、管理はまた外注に出すから」と言ってくれている。
母もおそらく、事情を話せば同じことを言うだろう。
尚隆にもらったお茶のペットボトルは、まだほんのりと冷たい。開けて一口、二口飲んでから再び、ベビーカーで眠る凛を見つめた。息を吸い込む。
「この子、最近、まあまって呼んでくれるようになったの。まだだいぶ片言だけど。母のことは、ばあばって」
「へえ、そうか。聞きたいな」
「……ぱあぱって、呼ばれたい?」
「えっ?」
「一緒に暮らしたら、そういうことになるでしょ」
「──それって」
若干の不安混じりの、期待をこめた目で見てくる尚隆に、みづほはうなずいた。視線をそらさずに。
直後、尚隆が笑み崩れる。左手をぎゅっと握られた。
「ありがとう」
「ううん、そう言うのは私の方よ。ほんとうにありがとう」
久しぶりに感じる彼の熱に、目頭が熱くなってくる。ぽろりと落ちた涙を、尚隆の指がぬぐった。
そのまま、どちらからともなく顔を近づけ、唇を重ねる。
──と。
「ちゅー!」
上がった抗議の声に、二人そろってびくりとした。見るといつの間にか目を覚ましたらしい凛が、こちらに手を伸ばしてじたばたしている。抱っこをせがんでいるらしい。
「ごめんね凛、はい抱っこ抱っこ」
「ちゅーっ!」
いくぶん焦ってベビーカーから降ろすと、先ほどと同じ言葉を凛は繰り返した。今まで言ったことなどなかったのに。
「ちゅー、って」
尚隆と顔を見合わせ、照れ臭さでいっぱいの気分になる。自分にもしろということなのか。
「……はいはい、わかったから。ちゅーね」
言って、小さく柔らかい頬に、みづほは唇を寄せた。だが凛は満足しなかったようで、今度は尚隆に手を伸ばす。
もう一度顔を見合わせ、まばたきをお互い何度か繰り返した後、ふっと笑い合う。抱っこの腕が尚隆に変わると、凛はにこにこと笑い、父親の頬にちゅっと、可愛らしいキスをする。
驚きで目を見開いた後、尚隆は娘に笑いかけた。二人の笑顔に、みづほは幸せを実感して、笑みをこぼす。
涼しさの混ざり始めた風が、3人の周りを吹き抜けていった。
- 終 -
「話って、何?」
「え、ああ──戻ってから話そうかと」
「気になるから、今言ってくれる?」
悩むような間を置いた後、わかった、と尚隆はうなずく。
「実は、来年早々に、転勤することになって」
「転勤? どこに」
「本社。向こうの営業部から、直々に呼ばれたらしくて」
「え、すごいじゃない」
本社営業部と言えば、各支社の営業部員からすれば憧れの部署だと聞く。売上額トップである分ノルマも厳しいらしいが、そこから声がかかったということは普段の実績が認められてのことに違いないし、名誉と言っていいのではなかろうか。
難があるとすれば、この町からはさらに、遠い場所になること。時間的に、今のように日帰りで行き来するのは難しくなるだろう。
「それで、……引っ越しが年末とかになるから慌ただしいけど。付いてきてもらえないか」
「────え?」
「凛も1歳になったし、これからはいろいろわかるようになるだろ。いい機会だと思うんだけど」
尚隆の言う通りである。彼も、みづほと同じように考えていたのだ。凛のためを思うなら、いつまでも今のまま、両親が離れて暮らす状態でいるのは良くない。
しいて問題を言うなら、仕事を世話してくれた叔父たちへの義理であった。今は凛を連れての出勤も認めてくれている彼らに対し、申し訳ない思いもあって仕事を続けているが、事情を知る叔父や従兄は事あるごとに「何かあるならいつでも辞めていい、管理はまた外注に出すから」と言ってくれている。
母もおそらく、事情を話せば同じことを言うだろう。
尚隆にもらったお茶のペットボトルは、まだほんのりと冷たい。開けて一口、二口飲んでから再び、ベビーカーで眠る凛を見つめた。息を吸い込む。
「この子、最近、まあまって呼んでくれるようになったの。まだだいぶ片言だけど。母のことは、ばあばって」
「へえ、そうか。聞きたいな」
「……ぱあぱって、呼ばれたい?」
「えっ?」
「一緒に暮らしたら、そういうことになるでしょ」
「──それって」
若干の不安混じりの、期待をこめた目で見てくる尚隆に、みづほはうなずいた。視線をそらさずに。
直後、尚隆が笑み崩れる。左手をぎゅっと握られた。
「ありがとう」
「ううん、そう言うのは私の方よ。ほんとうにありがとう」
久しぶりに感じる彼の熱に、目頭が熱くなってくる。ぽろりと落ちた涙を、尚隆の指がぬぐった。
そのまま、どちらからともなく顔を近づけ、唇を重ねる。
──と。
「ちゅー!」
上がった抗議の声に、二人そろってびくりとした。見るといつの間にか目を覚ましたらしい凛が、こちらに手を伸ばしてじたばたしている。抱っこをせがんでいるらしい。
「ごめんね凛、はい抱っこ抱っこ」
「ちゅーっ!」
いくぶん焦ってベビーカーから降ろすと、先ほどと同じ言葉を凛は繰り返した。今まで言ったことなどなかったのに。
「ちゅー、って」
尚隆と顔を見合わせ、照れ臭さでいっぱいの気分になる。自分にもしろということなのか。
「……はいはい、わかったから。ちゅーね」
言って、小さく柔らかい頬に、みづほは唇を寄せた。だが凛は満足しなかったようで、今度は尚隆に手を伸ばす。
もう一度顔を見合わせ、まばたきをお互い何度か繰り返した後、ふっと笑い合う。抱っこの腕が尚隆に変わると、凛はにこにこと笑い、父親の頬にちゅっと、可愛らしいキスをする。
驚きで目を見開いた後、尚隆は娘に笑いかけた。二人の笑顔に、みづほは幸せを実感して、笑みをこぼす。
涼しさの混ざり始めた風が、3人の周りを吹き抜けていった。
- 終 -