4月が近づいても今年は気候がしつこく冬から変わらなかったが、ここ数日やっと春めいてきた。風に混じる冷たさが暖かさに取って代わり、道に残っていた雪もすっかり溶けている。昼休みが終わる5分前に、みづほは職場に戻った。
「ただいま戻りました」
「あ、みづほちゃん。ちょうどいい所に。受注メール来たみたいなんだけど見られなくて」
「わかりました社長、すぐチェックします」
「叔父さんでいいって言ってるのに」
「そういうわけにはいきません。仕事ですから」
みづほはきっぱりと言う。相手は勤め先の社長に違いないのだから当然だ。当の社長は「みづほちゃんは真面目だなあ昔から」と、もはや決まり文句になった一言を今日も繰り返している。
実家がある町中の、カトラリーやその他ステンレス製品を作る工場に併設された、事務所兼販売所。そこがみづほの、現在の職場である。叔父、みづほの父の弟が、妻(叔母)の実家を継ぐ形で今は社長を務めている。跡取り修行を兼ねて販売部長をやっている従兄弟の一人が、みづほの直接の上司だった。といっても2歳しか違わないし、昔から兄妹のように接していた相手である。
実家に戻ってきてすぐ、叔父と従兄が訪ねてきて、もし仕事が決まっていないならうちで働かないか、と打診された。みづほが前職でシステム管理をしていたことを聞いていたらしい。外注に出している、会社のサイト作りやサーバ管理を任せたいということだった。実家とはいえタダ飯食いの立場では気が引ける、けど仕事はどうしよう、と思っていたところだったので、二つ返事で引き受けた。
ちなみに、みづほの父親は隣接の市に支社がある大手機械メーカーで工場長の役職に就いていたが、みづほが大学を出た翌年、急な病で亡くなった。今、実家にいるのは母親と、みづほの二人だ。兄弟はいない。
母親は、介護施設のケアマネージャーである程度の収入は得ているものの、生活するには精一杯の金銭状態であるのをみづほは知っていた。なにしろ実家の建物が、もとは一族の本家だった家屋敷であるため、メンテナンスやら税金やらにやたらとお金がかかる代物なのだ。
だから、叔父たちが仕事を世話してくれたのは、向こうの都合が大きいとはいえ、本当に有り難かった。
叔父に代わってメールをダブルクリックすると、ちゃんと表示された。どうやらまた、クリックとダブルクリックを間違えたらしい。叔父は仕事に関しては優秀で有能な人だが、パソコンやネットについては何度勉強しても苦手意識が抜けないという。そして実際、何度教えても初心者並のミスを繰り返してしまう。そういう人もいるってあきらめとくのが賢いよ、と上司の従兄に言われてからは、みづほもそう思うようにしている。
メールに書かれた得意先名、受注品目と数量を確認して、販売部のフォルダに入っている受注一覧表に赤字で書き込むとともに、メールと一覧表を印刷して社長の叔父に渡した。それから、会社サイト宛に届いている問い合わせがないかをチェックして、更新作業を行う。トップページが冬仕様のままなので、春らしい写真と背景を選び、見栄えの良いように配置してPCとスマートフォンでの動作確認をする。問題はなさそうだ。
そんなふうにいつもの仕事をこなしていた午後──時刻は3時過ぎ。いくつかの得意先へ納品に出かけていた販売部長が、戻ってくると同時にみづほに声をかけた。
「みいちゃん、お客さん来てるよ」
「部長、私は須田ですよ」
そのやりとりに事務所内の人間全員、総務と経理を担当する義理の叔母と、営業担当の男性二人が吹き出した。ほぼ毎日1回は同じようなやりとりをしている、従兄妹同士なのだった。
「だからさ、おれも母さんも親父も名字一緒なんだから、わかりにくいし呼びにくいだろって。それよりお客さん」
「お客さんて、販売所に?」
みづほは首を傾げた。隣の販売所にはちゃんと、応対する女子社員がいるはずだ。
「違うよ、みいちゃんいますかって、男の人が来てる」
「……誰?」
「広野って言ってたよ」
キーボードの関係ないキーを叩いた拍子に、なぜだか耳障りなアラート音が響いてしまった。慌てて止めた後も、動揺がおさまらない。