仮に会うことを承諾して、話が進んだならば、半井専務は将来の義父ということになる。見る限り、人当たりは柔和だし物言いにも無理強いする調子はないが、尚隆に対する調査からすると隙のない人物だ。そこに、若干の畏れを感じはする。見方を変えれば、だからこそ尊敬できる人物とも考えられるのだが。
 ……しかし、今この場での承諾はしかねる心境だった。
 「あの、大変有難い話だと思います。ですが、しばらく考えさせていただいてもよろしいでしょうか」
 間違っても失礼に聞こえないよう、言葉と語調を恐る恐る選択しつつ、尚隆はそう答えた。
 専務の眉がピクリと上がる。気分を害されただろうか?
 尚隆が内心びくついていると、半井専務は笑みを絶やさずに「もちろんだ。人生の大事だからね」と応じた。
 「だが、週明けまでには返事をくれよ。私がいつ、娘に口を滑らせてしまうかわからない。そうなってから断られてしまうと、話がややこしいからね」
 「……承知しました」
 「始業前にすまなかったね。業務に戻りなさい」
 「はい。失礼します」
 最大限の会釈をし、支社長室を辞去する。まっすぐ席に戻る気にはなれず、フロアを突っ切り、化粧室へと向かった。
 洗面台に手をつき、やっと大きく息を吐く。
 ……緊張した。仕事前から疲れた。
 できることならこのまま帰宅してベッドに倒れ込みたい気分だったが、そうはいかない。今日は午前も午後も顧客と会う約束があるし、見積書を何件か仕上げなくてはいけない。始業時間が過ぎているのをスマホで確認し、化粧室を出る。
 ため息が止まらないまま席に戻り、課長に声をかけると、相手は訳知り顔でうなずいた。……課長も話の内容を、もしかしたら知っているのだろうか。そう思わせるような。
 今日の午前中の外回りは、森宮と二人で行くことになっている。絶対に何か聞かれるな、と思っていたら案の定、会社の営業車に乗り込むなり「おい、朝どこ行ってたんだよ」と問われた。
 「ちょっと、手洗いに」
 「ふーん?」
 尚隆の答えに、口の端を曲げて意味ありげな相槌を打った後、森宮は言った。
 「違うだろ、半井専務のとこだろ。課長に聞いた」
 知っていたのか。午前中の予定が一緒だから、出社した際に課長に居場所を確認したのだろう。だったらわざわざ聞くこともないだろうに。
 若干もやっとしつつ、尚隆は言葉を返す。
 「手洗いにも行きましたよ、その後」
 「後でどこに行こうが別にいいんだよ。問題は専務の話。
 ……ひょっとして、見合いの話とか」
 図星を指されて、喉が詰まる。変な音が出るのを抑えられなかった。
 「当たりかよ。わかりやすいな、おまえ」
 「…………なんで」
 「知らないのか? けっこう有名なんだぞ、専務の一人娘。美人で頭が良くて性格もいい、おまけに将来の社長か副社長候補の娘ってんで、大学卒業した時にはうちに入るんじゃないかって、しばらく噂になったし」
 「そうなんですか」
 「結局、うちには入らずによその企業に行ったけど、入社試験ではダントツの1位だったっていうし、留学経験買われて秘書課にいるらしいから、まさに才色兼備、高嶺の花ってやつだよ。
 どうなんだよ、専務が話、持ってきたってことはその子、じゃなくてお嬢さんなんだろ」
 ここまでの台詞を、森宮は運転しながら言っている。おまけに最後の質問部分を言い終えると同時に、ハンドルを握ったまま顔を近づけてきた。非常に危ない。
 「森宮さん危ないです」
 至極当然の忠告を、曲解して肯定の返事とでも受け取ったのか、森宮は前方に戻した顔を悔しそうに歪めた。
 「なんだよもー。何でおまえばっかりに美味しい話が回ってくんだ。主任さんといいお嬢さんといい」
 「主任さん?」
 「大学ん時の知り合いなんだろ。そんでちょっと付き合ってたって聞いたぞ、こないだだっていいカッコして」
 「いや、付き合ってたわけじゃ。単なるサークル仲間で」
 「どっちだっていいんだよ。おまえばっかり美人とお近づきになるチャンスが回ってくんのが問題なの。俺だって、おまえが来る前はしょっちゅう、売り上げ1位取ってたんだぞ。ずっと営業一筋だし、顔だって負けてねーと思うぞ?」
 途中まではともかく、最後の部分は何と言っていいかわからなかったが、また前方不注意をされると困るので全部まとめての相槌として「はあ」と返す。
 「なのにさあ……ったく、不公平だよなー。新卒で入社した俺より、中途の奴の方が目立つんだもんな。くっそう」
 ぶつぶつと、こちらに言うというよりはもはや勝手につぶやき続けている様子に、不安が湧いてきた。
 「…………あの、専務の話、確かにそういう話題は出ましたけど、まだ話、されただけですから。会うのOKしたとか、そういうことにはなってないんで、他には言わないでくださいよ」
 わかってるよ、と森宮は言ったが、本当に大丈夫なのかは若干疑わしい。社内の噂を網羅している彼の性質からして、この話題、自分で言うのもなんだが「特ダネ」を、広められずにいられるかどうか。現状では「頼みますよ」と念押しするしか、尚隆にできることはないのであったが。
 それ以上に今、悩むべきなのは専務の話そのものである。自分はいったい、どう答えるべきなのか──どう答えたいのか。