翌日、尚隆は少し寝坊し、いつもより1本遅い電車での通勤になった。出社すると、いや正確には会社にたどり着く前から、自分を見てはこそこそと話す人がちらほらいることに気づいた。会社のあるビルに入るとそれは顕著になり、エレベーターを待っている時からそういう連中に囲まれて、自分だけが浮き上がっている感覚にとらわれる。
 訳のわからない居心地の悪さとともに8階で下り、自分の席に向かう。と、営業エリアに入ろうとしたところで森宮が駆け寄ってきた。からかいとも失笑ともつかない、妙な笑みを浮かべて「おいおいおい」と言う。正直不気味である。
 「…………おはようございます、何かあったんですか」
 「何かあったのはおまえだろ。タメ口にしろってのに」
 「それは、じゃなくて、俺がなにか」
 「なにかじゃねーよ。昨日、例の彼女と一緒に帰ったって?」
 「例の彼女、って」
 「主任さんだよ、決まってんだろ。どういうことだよ」


 「何なんですか朝から。どいてください」
 システム課の扉の前から去ろうとしない本庄に、みづほは脇をすり抜けようとしながら言うが、相手は押し戻して譲らなかった。
 「話を聞かないうちは駄目だよ、いったいどういうつもりなのか聞かせてくれないと」
 「どういうって」
 「なんで僕とは付き合えなくて、あいつならいいのさ。理由言ってくんないかな」
 「──だから、言ったじゃないですか。広野くんは大学の同期で、昨日はたまたま退社が同じ時間になったって。それで駅まで一緒に行っただけって」
 「嘘つくなよ、家まで一緒に行っただろ」
 「────どうして知ってるんです」
 「家に入れたの? 朝まであいつと仲良くやってたのか」
 「そんなことしてません!」
 「じゃあなんで家までついてこさせたんだよ、理由言ってみろよ」
 「それは…………」
 あなたがつきまとうから、と本人に言ってしまっていいものか。昨夜みづほを家までつけてきたことは間違いないが、それをあえて指摘しては逆上するのではないか。相手の言葉尻の変化にみづほは、危うい空気を感じ取っていた。
 言いよどむみづほを前に、本庄はもはや苛立つ様子を隠していない。なおも答えないみづほの手首をやおらつかみ、低い声で言った。
 「ふざけるなよ」
 その力と目の色に、みづほの背筋に冷たい汗がつたった。不穏すぎる空気に、周りの誰も声をかけられずにいる。と、離れた場所でざわつく様子があった。その気配がだんだん近づいてきて、周囲にまで届く。
 その源が、走り寄ってきてみづほと本庄の間に割って入った。
 「やめてください、迷惑じゃないですか」
 「広野くん」
 「引っ込んでろ、今話してるのはこっちだ」
 押しのけようとする本庄の手を押しとどめ、尚隆は言う。
 「昨夜のことでしょう、あれは俺が言って送っていったんです。つきまとう人がいるからって」
 最後の部分で尚隆が指さすと、本庄はにらみつけた。だが事実には違いない。みづほに手を上げようとしたのも周りが見ている。
 「ここは社内恋愛まずいんでしょ、それに彼女はとっくに断ってるって聞きましたよ。なのにしつこくするの、本庄さんにとっても良いこととは思えませんけど。上に伝わったら面倒なんじゃないですか」
 立て板に水、といった勢いで尚隆がまくしたてると、本庄は返す言葉に詰まったようだった。上に伝わったら、の部分が効いたのだろうか。
 頃合いだと思い、みづほは、尚隆がかばうようにしていた位置からすっと踏みだし、息を吸い込んで言った。
 「本庄さん、申し訳ないですけど、私はあなたと付き合う気はないんです。もうこれきりにしてください」
 きっぱりとした言葉に、周囲にいる誰かが「おお」と聞こえる声でつぶやいた。本庄がそちらを向いた途端に静まったので、誰だかはわからないが。
 こちらに向き直り、みづほを、そして尚隆を睨みつける。非常に何か言いたげではあったが、周囲の雰囲気と増えてくる人数に、争うのは得策ではないと判断したのか実際には何も言わなかった。しつこいほどに睨んできた後、ぼそぼそとなにごとか、悪態にも聞こえるようなことをつぶやきつつ、いまいましげな視線を最後に投げて去っていった。
 充満していた緊張の空気が、ふうっとほどける。
 ざわめきも、先ほどよりは開放感と明るさをともなっていて、何人かはみづほに近づいてきた。
 「大丈夫だった?」
 「何なんだろうな、あいつ」
 「よくはっきり言ったね」
 それぞれに適当な声をかけては「じゃ」と離れていく。決して広くはない廊下に残ったのは、みづほと尚隆だけになった。
 どちらからともなく顔を見合わせる。視線がまともにぶつかって、どきりとした。
 「──ごめんなさい」
 気づくと、謝っていた。
 「なんで?」
 「私が、余計なこと頼んだから」
 迷惑をかけるつもりはなかった。しかし、昨夜あの時に遭遇したのが尚隆ではなかったら、駅までついて来てとは頼まなかっただろう。当然、家まで送られることにもならなかったはずだ。
 尚隆は首を横に振った。
 「余計なことなんて思ってない、あの時は必要だっただろ。それに送ってったのは俺が言い出したことだし」
 「でも、それだって私が言ったから、広野くんにまで迷惑」
 「だから、迷惑なんて思ってないから」
 たまりかねたような調子で尚隆が言う。その、予想を超えた強い口調に、みづほは目を見張った。
 こちらの反応に、尚隆は一転、気まずそうに目をそらす。自分でも今の言葉、というか言い方は予想外だったのだろうか。なんだか、耳が赤くなってきている気までする。
 「広野くん?」
 「……とにかく、俺は迷惑とか思ってないから。もしあいつがまたなんかしてきたら、すぐ知らせて」
 そう繰り返し、付け加えて、踵を返した。かなりの早足でエレベーターホールへと去っていく。
 その背中が消えるまで、つい、見送ってしまった。はっと気づいた時には始業のチャイムが鳴る直前だった。まずい。今日の朝礼で訓辞を述べるのはみづほの役目なのに。
 慌てて扉を開けてシステム課に入ると、中にいた全員の目が一斉に集まった。それで当然ではあるし──見に出てくる人がいなかったことがむしろ不思議だ──居心地悪さは半端なかったが、あえて何でもない顔をして、少なくともみづほ自身は精一杯そのつもりで、自分の席に着く。
 「遅くなってすみません。おはようございます」
 毅然としたみづほの態度に、誰もが呆気にとられた顔をした。挨拶を返すことも忘れるほどに。
 「昨夜、ある本を読んだんですが──」
 みづほは気にならなかったふりを貫き、訓辞を述べるための前振り話を始めた。