「河野先生、具合悪いです。」

 停学明け最初の授業のあと、隠れるように声をかけてきた山崎は明らかに顔色が悪かった。経験的に精神的なものだろう。だが、あいにく今日は養護教諭が出張中だ。

 「悪い、今日、伊藤先生は出張だ。」

 予想通り、彼女は引かない。山崎は次の授業に出る気などないのだ。私に声をかけたときの隠れたような雰囲気とは逆に、強く意地を張っているように見えた。

 「だから、俺が開けてやる。ただし、次の授業の先生には自分で言いに行け。保健室で待っている。」

 彼女は少し表情が柔らかくなり、そしてまた顔をしかめた。職員室で2年B組の時間割を確認すると、2時間目は現代文だった。担任の高戸先生の授業だ。
 彼女の表情を思い出し、臨時の職員会議で感じた思いをぶつけるべきだったと後悔した。

 一週間前の臨時職員会議の時、私は違和感を覚えた。山崎が2回も染髪したのは事実。しかも最初は認めなかったらしい。
 たしかに染髪が認められないわが校では停学になっても仕方がない。ただ、担任の高戸先生の話は「今まで問題がなかったので残念だが、規則なので仕方がない」というようなもので、なんというか、生徒を守ろうとする熱が感じられなかった。
 規則はどうあれ、担任なら生徒を守る、つまり停学を回避する道を探すのが筋なのではないか。
 違和感があったのに、私は会議で質問をしなかった。質問がなかったのではなく、しなかったのだ。

 洋書を片手に保健室で待っていたが、山崎はなかなか来ない。やっと来たのは授業が始まって5分くらいしたころだった。ノックは一度しか聞こえない。面接練習なら指導対象だ。もう1回、または2回は消えてしまったのだろう。彼女は足を踏み入れるなり、大声で泣きだした。薬棚の前にあったティッシュだけさし出して、放っておくことにした。泣いている人間に何を話してもこちらが空しくなるだけだ。
 ただ、この泣き方。きっと停学が原因ではない。

 放っておいて、洋書を読んでいるふりをしていると、彼女の方から勝手に話し始めた。
つまるところ、彼女は一緒に髪を染めた彼氏に振られ、もう次の彼女ができていることに悲しくなっている。
 こういう場合に必要なことは、とにかく話を聞くこと、そして、学校生活に戻すこと。教員として後悔をしないためには、ためらっている時間はなかった。

 2時間目が終了して、保健室をのんびり出たように見せかけて、駆け足で職員室に戻った。パソコンを開き、時間割を調整する。次の3年A組を英語から現代文に変更する。想定通りだ。高戸先生には事後報告だ。

 「高戸先生、次の時間3年A組、お願いします。6時間目と交換します。」

 高戸はずいぶんと顔をしかめた。当然だ。開始5分前に時間割変更など通常あり得ない。

 「保健室対応があるので、2B山崎の。」

 半ば会釈をし、半ばにらみつけて、駆け足で保健室に戻った。職員室に長居してもいい気がしない。
 この時間割変更は無茶ぶりだ。教務部長命令だ。高戸本人はもちろん、他の教員も見ていていい気はしないだろう。ただ、私は、私は同じ後悔をしたくないのだ。
 本当なら、保健室対応は担任の高戸先生に任せて私は授業に行くのが順当だろうが、まったくうまくいく気がしない。今日の時間割を思い返し、交換可能な先生を洗い出した。最悪、ほかの英語科の先生に行ってもらえばいい。ただ、この上ない変更案を思いついてしまったのだ。
 山崎の対応をきちんとするべき高戸が空いている。6時間目と入れ替えれば他の先生には迷惑がかからない。

 今、山崎の話をきちんと聞かなければ一生後悔すると思った。
 根拠はない。直観だ。