令和5年3月11日。
 あれからもう12回目の「3月11日」だそうだ。母さんが逝ったのはそんな「3月11日」を迎える直前だった。コロナがおさまりつつあったから、最期に立ち会うことができた。葬式も家族だけだが、全員で見送ることができた。きっとこれは幸せなのだろう。

 私が教える高校生は震災の記憶がおぼろげらしい。あの恐怖が、不安が、リアルに伝わるのもあと数年か。記憶がないのではちっとも現実味がない。あと数年もすると、震災以後に産まれた生徒が入学してくるらしい。まったく、時代が過ぎるのは「功」より「罪」のほうが大きいのではないか、と感じる私は、歳をとったということだろうか?

 きっとそのうち、コロナを知らない高校生が出てくる。その子たちに私たちの思いは伝わるのだろうか?

 実は仙台に来てから新しく始めた習慣がある。最後の授業で生徒全員に手紙を渡すことだ。
 私が南風館を去ってから2か月後、手紙の束が学校に届いた。差出人は「佐藤智佳先生」。私の後任として入った新採用の若い先生だ。

 「生徒たちが最後に伝えたかったこと。遅れてしまいましたが受け取ってください!」

 そう書かれていた。どの生徒も心を込めて一生懸命書いたのが伝わってくる。つたない英語でも、日本語でも一生懸命書いている。
 人間の心を戻した私には熱すぎる手紙だった。この気持ちにこたえるために、私は教師を辞めてはいけないと思った。ありがとうを受け続け、頑張りますを応援するために、私も走り続けなくてはいけないと思った。

 さて、もうコロナ禍も4回目の春だ。まだマスクは手放せないが、ある程度勝手がわかってきてもいる。
 春といえば、この大学附属高校では、大学3年生が教員研修のためにインターンを始める時期でもある。しかし、仙台学園大学というところは、東北出身者が多くて、彼らの方が東北の学校事情には詳しいのでやりづらい。

 「河野先生!」

 懐かしい声がした。

 私が南風館で一番救いたかった卒業生は、やりたいことを見つけたらしい。

 いままで生きてきて、一番熱い春が来た。