河野孝志(こうのたかし)

 毎月11日には仙台の実家に連絡を取っている。最初は電話をしていたが、母がスマホを持ち始めた5年前からは、ラインになっている。あの震災があった日、臨時教員という身分ではあったが、既に北海道で教員生活を始めていた。当時は北海道と宮城県の教員採用試験を併願して5回目、やっと北海道だけ受かった年だった。
 そして今年の3.11。私はこの日を初めて、故郷で迎えた。
 3日前に妹から呼び出されたのだ。入試のため一年で一番忙しいこの時期に。

 母にがんが見つかった。
 ステージⅣ。

 医師が父と妹、それから私に直接説明したいとのことだった。

 医師から言われたのは、もう手術はできないこと、根治は望めないこと、治療法は存在すること、余命は見通せないこと。

 私の夢は故郷仙台で教員になることだった。そして働くうちに、幸せな家庭をつくることになった。
 私は「仙台で暮らすこと」より、「教員になること」のほうが叶えたい夢だった。
 大学生で採用試験を落ち、新たな自分を探して北海道の大学院へ進学した。採用試験も北海道と仙台のどちらも受けることにした。最初、両親は反対していた。「やはり、地元に居てほしい」と。「北海道は遠すぎる」と。反対する両親をなんとか説得し、やっと合格がもらえたのが、ちょうど震災の頃だった。

 たぶん昔から、言葉にはなっていなかったが、いつか巡り合う妻と私、家族みんなの中に子どもがいる、そんな家庭をつくりたいと思っていたのだろう。それが最近、言語化されてきた。いつか、母を孫に会わせたいというのが、ありきたりでささやかだけれど、ここ数年意識してきた夢だった。

 夢がかなえられないかもしれないと思ったとき、私はある約束を思い出した。

 「北海道さ必要とされたんだから、35歳になるまでは帰ってくるな! きちんと恩返ししてこい。」

 震災の後、「教員になること」より「仙台で暮らすこと」が大事になった私は、「仙台に帰りたい」母に言った。母はこんなふうに厳しく叱ったのだった。それ以来、なんとなく「35歳までは」と思っていた。
 「35歳」というのは、故郷に帰りたくなる絶妙なタイミングで、今の仕事を離れるわけにはいかないと思うタイミングでもある。悩ましい決断だった。
 現在34歳。2か月後に誕生日が来たら35歳になる。
 残念と言うべきか、未だ独身。彼女もいない。

 私は年度末に、次の年度をもって北海道を去ることを決意した。

 3週間後、春休みの職員室。文字にしただけで身震いしてしまうくらい忙しい。
 今日から新しい一年が始まる。私にとっては最後の、勝負の一年。今年度は新しい先生が7人着任する。みな遠方で、まだ到着はしていないようだ。私が部長を務める学習指導部には2人の先生が加わる予定だ。一年で一番忙しいこの時期に新人教育も並行しなければならないのは少々荷が重い。また上司となる新教頭も行政職から採用された人で、今までとは勝手が違う、また一からやり直しになることもあるだろう。

 この先起こることをすべて見通して、絶望して、私はコーヒーを飲む。始業時間の8時10分ちょうどに飲むのがマイルールだ。今日もいつもと同じ豆のはずなのに苦い。そうか、コーヒー係も変わったのだ。

 なんでもない、いつもどおりの春休みだった。