彩~清か色の日常、言葉のリボン

(千冬side)

冷え込んだ空気の中を歩く。

たしか、詠夏がオープンしたという喫茶店はこの辺の筈だ。
当の昔に住所をメールでもらっただけで、実は初めて店を訪れる。

大学を出たばかりの私はオーディションを受けたり、レッスンに邁進したりしていた。
だから、まったく出かける余裕もないまま時が過ぎていった。

私は前だけを向いていた。

もちろん彼女のことが嫌いになったわけではない。
どのように表現すればよいか分からなかったから、行くつもりになれなかった。
時間がないから、こんな言い訳をしていたからだと思うんだ。

今日は仕事の予定がない日だ。
曲の歌詞を書かないといけないけれど、たまには休日を味わいたい。

レポート用紙には私が生み出した言の葉がたくさん踊るようになった。
パソコンを使えば簡単だけど。
手で書くことで歌詞がバレエを踊るような、そんなリズム感が生まれるような気がする。
私のこだわりのやり方だ。

ヘッドホンに手を触れて、少し考えを巡らせてみた。

デビューした私は新人気鋭の、という触れ込みがある訳ではないけれど。
それでもマネージャーは私を色んな形で売り出してくれた。
たくさんの人と巡り合うから、日々楽しいって思うんだ。

これがご縁というやつだろう。

それでも、たまにはふとした寂しさを感じる時がある。
良い波は来ているのに、踏み出せないサーファーみたいに。
でも、その理由が分からないんだ。

久しぶりに彼女に会ってみたくなった。
それが今日行く理由だ。

もしかしたら、人恋しさの理由も分かるかもしれない。

歩いていると、視界の先に面白い光景が目に入った。
十字路の真ん中にリボンの指輪をした猫が丸まって寝ていた。
辺りには自動車が通ったりしないのだろうか。
なんだか、無防備で可愛かった。

しばらく見つめてしまう。

そういえば、この街は不思議だ。
都心の郊外にあるとはいえ、栄えているのは駅の周りやバス通りだけだ。
そこから一歩離れると静寂に包まれた住宅街がある。
子供たちは穏やかに成長しそうな気がした。

優しさに触れる場所。
それがこの街の空気感なんだろう。

猫は不機嫌そうに目を開けると、私の方をじっと見てきた。
しばらく目を合わせる。
すると、猫はむくりと起き上がり路地の方へ歩いていってしまった。

なんだか興味をそそられた私は、ゆっくりと付いていってみる。
猫は近くの民家にするりと入って行った。

「あ、ここか」

なんてことだろうか、喫茶店まで猫に案内されてもらった。

 ・・・

お店の中は薄暗かった。

思わずドアノブに手を添えてみる。
それは簡単に動いてしまった、鍵は開いているということだ。

ちょっとだけ扉を押してみる。

そこにはピアノにうつぶせになるように寝ている詠夏がいた。
少しだけ寝息のようなものが聞こえる。
ひとつだけ灯っている照明に照らされて。
まるで、スポットライトを浴びる舞台女優のように美しい姿だった。

お邪魔しちゃ悪いだろう。
すぐに立ち去ろうとしたけれど、外から入ってきた冷気に彼女は目を覚ましてしまう。

「ああ、華ちゃんご飯ね……」

そう呟く彼女と目が合った。
彼女はピアノの椅子から立ち上がって驚いていた。

「千冬、どうしたの?」

私はため息をつきながら答えるしかなかった。

「客としてきたのよ。
営業していないのかな。
淹れてちょうだい、自慢のコーヒーを」

彼女は切なくはにかんで、私をテーブル席のひとつに通した。

「それと、これお土産」

「こんなに一杯。
……ありがとう」

なんてことはない、ただのバウムクーヘンだけど。
彼女は洋菓子ならなんでも好きだから、無難に駅ビルで買っただけだ。

店内の照明が付き、お店の姿になってきた。
やがて、キッチンからコーヒーの香りが漂ってくる。
私はその様子をずっと眺めていた。

「……どうぞ」

私の前に一杯のコーヒーが運ばれた。
その所作は店員そのものだけど、表情は自然体の彼女を映し出していた。
憂いを帯びたように、愁眉をつくっている。

私はテーブルに頬杖を付いて彼女に提案してみる。
なんとなく楽しく思えてきた。

「何か困っている層が出ているよ、聞いてあげようか」

彼女はその場に立ち尽くしたまましばらく動かなかった。
そして、私の前の席に座って話しはじめた。

「私、春の女の子に会ったんだ。でも……」

空が時雨の心地になるように、その表情は少しずつ影を抱いていった。

 ・・・

私はため息をつくしかなかった。

春の女の子は私たちが出会いたい、希望の星みたいな存在だった。
それがあろうことかこんな出会いになるなんて。

一瞬の出来事が優しい彼女を追い込んで。
私たちの関係にも波紋を広げて。
偶然な出会いは必然とでも、いたずらとでも言うのだろうか。

すべての想いはここに帰結して、砕いていった。

私は少し考えを巡らせて、彼女にコーヒーを淹れるよう勧めた。
温かい飲みものを飲むと落ち着くものだ。

「まあまあ、まずは君も一杯飲むと良いよ」

彼女は素直にキッチンに向かっていった。
そして、テーブル席で改めて向かい合うと彼女に話し出した。

「その子はお店に来ることはないのかな」

「そんなの、分からないよ……」

彼女は首を小さく横に振った。

「いつか来るかもしれない。
その希望を抱いていればいいさ」

彼女はさらに眉毛を曲げた。

「機会があれば手を差し伸べてあげると良いな。
謝罪の言葉なんか要らないよ」

「そうかなあ」

「そうさ、大切なのはこれからだよ」

困ったような表情をする彼女に私は話を続けた。

「君は昔から頭が良いからね。
自分がどんなに頑張っても追い越せなかったな。
……君が久しぶりに登校した日、あのカフェでは申し訳なかったよ」

「……そんな、昔のことじゃん」

「君の言ったことが正しいと思っていた。
それどころか、疎遠な関係を取り戻すことができなかった自分を責めたいわ。
いい、これは約束だよ」

君は素敵だよ、と話を締めくくった。

コーヒーを一口飲んだ。
黒い液体は、とても深い底の見えない川のような感じががした。
もちろんほろ苦いけれど、彼女の性格を思わせるような優しい味。

コーヒー一杯分のお代を払い、ドアの前で詠夏に振り返った。

「私、歌手デビューしたの。
ローカルラジオでときどき歌うの。せめて聴いてよ」

ドアを出るときに、後ろ向きに手を振った。

私は来た道をゆっくりと帰る。
この街に来たときに感じた印象、それは彼女が作り出しているんじゃないだろうか。
<セプトクルール>の優しさに触れれば。
虹の彼方で仲直りできるだろう。

……詠夏なら、きっと上手くやり直せる。