(詠夏side)

私は天を見上げた。
夏の空は高く澄んでいるのに、視界の縁では桜吹雪が舞っている。
着ているのは高校の制服である半袖のワンピースだ。

不思議な空間だった。

少し歩いてみることにした。
広い公園の中に居るのだろうか。
辺りには誰も居なくて、音という音がまったくしない。
わずかなそよ風が流れているだけだった。

桜の木の下には死体が埋まっているという逸話を授業で聞いたことがある。
そんなことを思い出していると、私の視界はある光景を映し出した。

とある桜の木のところに、ひとりの女の子が立っている。
それは幼稚園くらいの年頃だろうか。
白いワンピースを着ているのが愛らしかった。

私は急いで彼女のところに駆け寄って、力いっぱい抱きしめた。

「怪我はない?」

私は彼女の様子を伺う。
どうして聞くのだろうか、はじめて会った筈なのに。

よかった、無事なんだな。
どうして気になるのだろうか、知らない人なのに。

……その答えは、彼女の姿が教えてくれた。
彼女の左腕が大きく傷ついている。

そこから流れているのは、一筋の川のごとく。

私は体を離した。
恐る恐る手のひらを開いてみる。
彼女の血が私にべったりと沁みついていた。

その生ぬるい温かさは。
絵具で出したような真っ赤な色は。

夢だというのに、リアリティを感じさせた……。


私はここで目を覚ました。

心臓が強く鳴って、涙を流している。
長らく私を悩ませる夢を久しぶりに見た。

疲れているのだろうか。
それとも、今までの出会いを思い出したからだろうか。

気分を落ち着かせようと紅茶を淹れてみた。
甘い香りがするであろうアップルティーは、散漫気味な私の注意力のせいで味が濃くなってしまった。
出し過ぎた紅茶のほろ苦さといったら説明のしようがない。
それでも仕方なく飲み流した。

そして、処方箋を飲んで出掛けて行った。

 ・・・

私の細い指がピアノの鍵盤の上を走る。
イタリア映画のような物悲しい旋律はまるで、今の気持ちみたいだ。
哀愁物語みたいな気持ちが私の心を泳ぐ。

無性にピアノを弾きたくなって、<セプトクルール>まで足を運んだ。
やはりこうしていると気分が落ち着くな。

ゆっくりとピアノを弾きながら、高校時代のことを思い返してみた……。


私は中高一貫の女子高に通っていた。
理由は単純で、小学生の時に見たセーラー服のワンピースが可愛かったからだ。
私立の学費なんてつゆ知れず、母に何度も行きたいと頼み込んでいた。

はじめて制服を着れた喜びは今のように覚えている。
姿見の前でターンしたときに舞い上がるスカートの裾はとても可愛かった。

中学生の頃から秋華と千冬とは仲が良かった。
きっかけはお互いの名前だったかもしれないけど、自然と話す間柄ではよく覚えていないものだ。

秋華は毎日テニスのラケットを抱えて登校していた。
何事も彼女の元気一杯な一声から物事が始まっていたなあ。
千冬の大人びた魅力は素敵だった。
口数は少ないけど、透き通るような声は本物の歌手を思わせた。

だから、もうひとり。
春の女の子と出会うこと、それは私たちみんなの夢だった。

ふたりはよく私のカフェ巡りに付き合ってくれた。
たわいもない話をしたり、紅茶やパンケーキを評価するレポートを作ったりした。
テスト後に行った高級パン屋が5つ☆でベストだよね、という結論だったっけ。

「それだけ紅茶が好きなら、自分でお店作ってみませんか」

紅茶を運んできたウェイトレスがこう言ってくれた。
ウインクをする制服のお姉さんがきれいに見えた瞬間だった。

 ・・・

私たちの関係に異変があったのは、もちろんあの事故のせいだ。

幸い私は入院をしなかったものの、数日は気分が悪くて学校を休んでしまった。
久しぶりに登校をした日は、クラスのみんなが心配してくれた。
代わる代わる贈ってくれる言葉はとても暖かかった。

「大丈夫だよ」

私はお決まりのように返事をしていた。
でも、本当は大丈夫ではないのに。
ふたりだけには、私の心の重荷を話しておきたかった。

だから、帰りにとあるカフェに行って自分から話を切り出した。

「ねえ、ふたりとも悪夢って見たことある……」

桜の木の下で私は少女を抱きしめる。
彼女のワンピースが、私たちの姿が、血で彩られてしまう。
まるでビデオテープを繰り返すように、私の夢の中に現れる。

その度に目が覚めてしまう。

恐ろしくて、睡眠剤を飲まないと眠れなかった。
相手の女の子のことが忘れられないんだと告げたのだ。

「よしよし。いつか見れなくなるよ」

ふたりはこう言ってくれた。
確かにそうかもしれない。

「温かい飲みものを飲むと落ち着くってテレビでやって……」

千冬の提案の横で、秋華は思いもよらないことを口にした。

「あなた、まさか女の子を見捨ててしまったの?」

明らかに口を滑らせていた……。
本人は慌てて口を両手でふさいでいた。
千冬は彼女のことを注意するも、私にも驚きの目を向けていた。

怪我人を助けるのは救急隊のやることだけど。
私も彼女の助けになることをしたかったのに、引き離されてしまう。

ふたりに返した返答は、やり遂げることができない自分へのブーメランみたいだった。

「助けたかったよ。
でも、私だってすぐに運ばれてさ……」

こんなこと言っても、無駄だと言うのに。


帰り道はだれも、一声も発しなかった。

あんなに一緒だったのに、ひょんなことから離れてしまう……。
みんなで喫茶店を開く夢はすぐに冷めてしまった。

 ・・・

私はピアノを弾き終わった。
どこか遠い目をしている自分がいた。

秋も冬も、それどころか、春の女の子すら私から遠ざかっていく。
夏の強い日差しは誰もが嫌うだろう。
私が全部悪いんだ、そうなんだと思う。

飼い猫がドアをくぐってきて、私の足元で丸くなる。

それに合わせて、左腕に視線を落としてみる。
簪を押し当てた痕が未だに赤く残っていた。


私は一人で生きていくのがいいんだ、そうなんだと思う。