(ナギサside)

冷たいプールに身体が浮かび上がる。

私はこの瞬間がたまらなく好きなんだ。
瞑想に近いような、何も考えない時間が過ごせるから。

 ・・・

水泳部。

早く泳ぐことが何よりも大切だ。
それはきれいなフォームや日頃の入念なトレーニングの結果なんだとも思う。

だけど、水と無心に戯れる時間だとも思う。
暑い日差しに対する清涼感みたいなものを感じるんだ。


そのとき、プールサイドに上がってくる足音に気づいた。
顧問だと思っていたら、なんと春ちゃんだった。

プールに浮かび上がったままで首を彼女の方に向ける。

「おや、どったの?」

彼女は半袖のブラウスにスカート、素足だった。
その姿のまま頭を下げてくる。

「さっき、先生に呼び出されて……。
このままじゃ授業のポイントがもらえないって」

……うん。

「水泳部に手伝ってあげるよう話しておくからって」

私は思わず右手を目の上に当て、大きな口を開けて叫んだ。

「忘れてた、顧問がそんなこと言ってたっけー!」

そうだ、春ちゃんは水泳の授業をほとんど見学してたなあ。

 ・・・

水着に着替えた彼女が恐る恐るプールに入る。
私は手を差し伸べて招き入れてあげた。

「……冷たい」

「ふふ、これが良いんじゃないか」

私はそう言うと、彼女の手を離して少し距離を取った。

「少し水に慣れるまで縁に摑まってな~」

プールの端から端まで泳いで見せる、一番得意なバタフライだ。

春ちゃんは縁に手をついたまま、こちらを見つめてくる。
気を良くした私は勢いよくターンして戻ってきた。

上手く決まったハズだ、ひゅーひゅーカッコいいなんて言われてみたい。

「泳げるようになると面白いよ」

さあ、やってみよう!

 ・・・

私は腕を伸ばしながら呼び掛けた。

「もうちょっとこっちおいでよ」

「え、でも……。
待って……」

春ちゃんは小さく呟いた。
しっかりと梯子を掴んでしまい、そのまま動こうとしない。

そっか、この辺深いもんね。

ならば仕方ない。
不敵な笑みを浮かべた私は、彼女の手を無理やり梯子から離して連れて行った。

「ちょっと、深いよう……」

近くで見る春ちゃんの不安そうな表情。
それはなんだかいじらしくて、それだけに特訓のし甲斐があるなって感じさせるんだ。


この辺でいいだろうか。
私の両手を掴ませたまま、浮かんでもらうことにした。

「ほら、水に水平になるように、身体を浮かべるんだよ」

春ちゃんは必死に身体を伸ばそうとしている。
だけど少し浮いたと思ったらすぐに沈んでしまった。

私の手首を必死に掴んでいて、全身に力を入れて強張っているのが伝わってきた。

仕方ないか……。
私は彼女のお腹に手を入れて、下から支えてあげることにした。
春ちゃんはひゃっ、という小さな悲鳴を上げていた。

私は彼女を支えた姿勢のまま床を蹴って浮かびあがった。
春ちゃんの顔がすぐ近くにある、その耳元に静かに語りかけた。

「そのままでいいよ、少しずつ力を抜いて……。
今、私も立ってないよ」

ホントに?
彼女は目線だけで驚いていた。

「……そう、そのまま足を泳がせてごらん」

彼女が静かにバタ足を始めると、私たちは少しずつ進みだした。
まるで、イルカがふたり揃って寄り添うように。

春ちゃんは少しずつ顔を綻ばせてきた……。

 ・・・

あと少しで端にたどり着くタイミングで、彼女が水を飲んでしまった。
急に慌ててしまう。

私は咄嗟の判断で、彼女の身体を引き寄せた。
彼女は必死に私に身を寄せてくる。

「……お母さん」

母親に助けを求める声、慌てた彼女は確かにそう呟いた。
それは私の空耳じゃないと思うんだ。

「よしよし、ここは立てるから落ち着いて」

深呼吸しようか、そう告げると彼女は呼吸を整えはじめる。

抱きしめ合っているのは何だか気にならなかった。
私が彼女の背中をさする度に、彼女の鼓動が伝わってきた。

 ・・・

今日は疲れたけど楽しい一日だった。

スタバの丸いテーブルでお互いの飲み物を掲げて乾杯し合う。
私は最近ハマっているコーヒーフラペチーノを、彼女は店舗限定のいちごみるくフロートを頼んだ。

おごると言ったのが失敗して、財布の中身は空になった。

「そのぅ、ありがとう……」

春ちゃんはほとんど消え入りそうな声で言った。

彼女はとても優しい。
だけども、たまに硬い表情を見せるときがある。

自分では気づいてないと思うけど、放っておけないと思わせる<何か>がある。

今日見せてくれたのは自然体の表情だった。
プールに入った時の不安な顔も、浮かび上がった時の微笑みも、ちょっとドキドキしたのは秘密にしておこう。

それは、写真が好きな<彼>と一緒の空気がするんだ。