「早々にありがとう」
と言ってにこやかに契約書を受取る。
「早速なんだけど、パスポートを持ってきてくれるかな。ビザはいらないが、航空券を手配しなければならないんで・・・パスポートはコピーでもいいんだけど・・・ようするに旅券番号がわかればいいんだよ」
と頭の後ろではちきれそうな指を組んで、背もたれにもたれかかってストレッチをするようにして言う。
「すいません。はずかしながら、これまで、一度も外国に行ったことがないんで、パスポートを持っていないんです」
 土岐には自費で外国に行くことなど想像もできなかった。母と土岐の二人の家計で、隔月の母の年金と土岐の月給を合計しても、手取りで月平均二十万円をわずかに超える程度で、海外旅行など夢物語だった。
「それじゃ、すぐにでも申請してもらえるかな。用意しなきゃならない必要書類がいろいろあるから、明日にでも・・・」
「そうします」
「ところで、新設学科の方はどうなってるの?」
と鈴村は話題を変えてきた。

 新設学科の名称は国際協力学科で、国際経済学部の中に増設される予定になっている。声をかけてくれたのは大学と大学院で指導教授だった岩槻だった。岩槻も二年後に現在の大学で定年を迎えるので、新設学科で一期生が三年生になり、専門教育科目の講義の始まるのにあわせて移籍する予定になっている。岩槻が土岐を誘ってくれた理由は、子飼いの専任教員を二年先行させて新設学科に送り込み、自分が赴任するまでの間に内部情報を偵察させ、地ならしをさせようということだろうと土岐は推察している。現在その学部で、土岐は春学期だけ週一度、土曜日に非常勤講師を務めている。講座名は、国際協力論で、もともと金井が担当していた科目だった。今年の四月に、その講座を土岐に譲ってくれた。譲ってくれた理由は、講師料がばかばかしいほど安いということと土日はアジアからの来訪者の接待が多く、休講の多いことを大学から注意されたからということだった。