翌朝、起床すると洗面を後回しにして、パソコンを立ち上げた。ディスプレイの時計を見ると十時を過ぎていた。傍らの携帯電話で運転手の武井孝に連絡をとることにした。携帯電話の電話帳から掛けた。疲労のせいか親指に力が入らない。呼び出し音が五回以上した。背中を丸めて相手の様子を伺うような中年過ぎの女の声だった。武井は不在だという。
 土岐はその電話を切ると、そのまま双葉智子に掛けた。呼び出し音が四回して、留守番電話に繋がった。土岐は昼食の誘いを伝言に録音した。
 パソコンの時計を見ると、十一時になるところだった。急いで、電気かみそりで鬚をそると、柑橘系の香りの強いシェーブローションをたっぷり塗って、自宅事務所を出た。
 茅場町駅を出て、東京証券取引所脇の路地裏の〈インサイダー〉についたのは十二時少し前だった。十ほどあるボックス席の半分ほどが勤め人の背広で埋まっていた。
 土岐は中ほどの四人掛けのテーブルにつき、首をのばせば出入り口の見える椅子の方に腰掛けた。座ってから周囲の二人掛けの小さなテーブルの方が先に埋まっている理由が分かった。土岐がついたテーブルはトイレの出入り口だった。別のテーブルに移ろうとしたら、あとから入ってきたサラリーマンに席をとられた。
 見回すと客は男ばかりだった。いずれも同年輩の者同士でホットコーヒーを飲んでいる。仕事の話や上司や同僚の噂話や愚痴が飛び交っている。
 土岐が黄ばんだメニューをながめているとチャコールグレーのニットカーデガンを肩に掛けた中年のウエイトレスが疲れた足を引きずりながら注文を取りに来た。
 とりあえずホットコーヒーを注文した。
 双葉智子が現れたのは、十二時十分過ぎだった。七分袖の衿ぐりがスクエアカットのブラウスに灰白色のまきスカートで丸い腰を包み、赤茶色の手提げバッグを持っていた。半分笑いかけようとしているが、ぎこちない。どことなく戸惑っている表情だった。
 土岐は座ったまま、向かいの椅子に座るよう手のひらを向けた。
「すいません。わざわざ呼び出しまして・・・オフィスはこの近くですか?」
「永代通りと新大橋通りの交差点の角から二つ目のビルにあります。三光ビルの五階です」
と言いながら、智子は土岐の顔をまっすぐ見る。なんとなくうれしそうな情感が目元に漂っている。土岐は目のやり場に困った。すぐ、視線をテーブルの上にはずした。