土岐は図書館の検索用パソコンで、〈開示情報〉というキーワードで雑誌の所蔵バックナンバーを確認した。昭和三十五年に第3種郵便物認可を得ているから、創刊はそのころだが、図書館所蔵は平成九年からだった。平成九年は総会屋関連の二度目の商法改正のあった年だ。
 次に土岐は日本経済新聞の縮刷版を見ることにした。レファレンス・ルームの棚を探したが、見当たらない。先刻のカウンターの女性に聞くと、スペースを取るので全てCDとDVDになったという話だった。CDとDVDの棚の場所を教えてもらい、パソコンで閲覧することにした。昭和四十年代と五十年代のCDで、〈廣川弘毅〉を検索してみた。ヒット件数はゼロだった。
 次に、〈開示情報〉で検索してみた。かなりの数がヒットしたが、平成八年までは正確に一年につき十二件で、すべて新刊雑誌の発刊広告だった。場所は、朝刊一面の下の右から四番目に決まっていた。平成九年以降は一年に四件しかヒットしなくなった。月刊から季刊になった。それ以外に、検索するキーワードが浮かんでこなかった。肩すかしをくらったようで、夕方前に土岐は奥沢図書館をあとにした。
 
目撃者コケティッシュ(九月二十六日日曜日)

 翌朝、朝から晴れていた。日差しが部屋中にあふれ、下着のままでも暖かく、蛍光灯をつけなくても明るい。
 土岐はインターネットで〈見城仁美〉を検索した。ヒットが五件あった。二件はテニスのドロー表で江東区テニス協会主催のものだった。あと二つはピアノの発表会で名古屋市になっていた。もう一つは通信教育の絵画教室の入選者名簿だった。
 土岐は〈見城仁美・東陽町〉というメモを見ながら、江東区テニス協会主催のドロー表のものが海野が言っていた目撃者らしいとあたりをつけた。それ以外の見城仁美は同姓同名と断定した。