***
終電の一つ前の電車に乗って帰っていた。身体が痛い。片方だけの真珠のピアスを握る手に力が入る。
なんで持ってきてしまったのかな。
駅に着くとどっと疲れて、握りしめていた手を開いた。コツンと音を立てて真珠のピアスがホームに転がる。拾う気はなかった。
「お姉さん。落とし物ですよ」
昼間の少年の声がして私は驚いて振り返った。
「真珠のピアス。落としました」
少年が指差している。
こんな時間までここに?
私は怪訝そうに少年を見ながら、
「……いいの。それは私の物じゃないから」
と答えた。
「え?」
少年の戸惑うような声。
「貴方も早く帰らないとご両親心配するわよ?」
私はそれだけ言うと、改札口の方へ行こうとする。
「あの、お姉さん」
少年の声に私は少しだけ苛立ちを覚える。頭が痛い。お尻も痛い。早く家に帰りたかった。
「頭にたんこぶができてませんか?」
私はどきりとした。
昼、雅也の会社に行ったけれどやはり間に合わず、彼の機嫌はすこぶる悪かった。私は自分の会社にも当然ながら遅刻して、仕事が終わらず残業することになった。
会社帰り、雅也の夕飯を作りに行く約束だったため、クタクタになりながらも彼の家に行った。
彼は私の作った食事には手をつけずに、私の後頭部を殴った。頭だけでない。彼は目立たないところを執拗に殴り、蹴った。
彼は機嫌が悪いと私に暴力を振るう。いつものことだ。今回は私が原因だし。
「お前のせいでプレゼン上手くいかなかったんだよ! ふざけんな! ムカつく!」
お腹を蹴られた。
私はたまらず床に倒れ込んだ。その時ベッドの近くに真珠のピアスが落ちているのを見つけた。
私のではなかった。
「お姉さん。違っていたらすみません。それは彼氏さんが殴ったんじゃないですか?」
「……」
私は答えに窮した。
「お姉さん。僕、お姉さん、大事なものを落としている気がします」
「大事なもの?」
「そう。今朝言いましたよね。落としちゃいけないもの」
私には少年の言葉が理解できなかった。私が落とした物はUSBメモリと真珠のピアスだけだ。
「お姉さん、今、幸せですか?」
「え?」
急に話が変わって私はついていけず、少年の言葉を反芻する。
幸せ?
私は即答できなかった。幸せ、なはずなのに、なぜか口が開かなかった。
幸せ? 私、本当に幸せだっけ?
「僕は殴るような人と一緒にいるのは幸せじゃなくて、辛いと思います」
胸にヒビが入ったように私は一瞬呼吸ができなくなった。
確かに殴られるのは蹴られるのは痛い。嫌だ。でも、雅也はその後はちゃんと謝ってくれる。優しくしてくれる。
「分かったようなこと言わないで。私が悪いから雅也は怒っただけよ」
「悪いって何をしたんですか?」
少年の目は真剣で、どこか憐みも帯びていた。
「USBメモリ落として、持っていくのに間に合わなかったでしょう?」
「それはお姉さんの部屋に大事なUSBメモリを忘れる彼氏さんが悪いんじゃないの? それなのにお姉さんのせいにして暴力を振るうなんて」
私だって心のどこかで思っていたことだ。でも、他人から言われると、苦しい。
「雅也は……悪くない。私が、悪いんだから」
「本当にそう思っていますか? それがお姉さんの本音なの?」
胸がざわざわする。
本音。そうよ、そうに決まってるじゃない。いつも私が悪いの。雅也の要望にちゃんと応えられない私が。
なのに、なぜ涙が出てくるんだろう。
私は慌てて涙を拭った。
「涙は落としていいものですよ」
少年の声は優しかった。
「僕、お姉さんのこと、ある日気付いてから気になって見てたんです。いつもスマホで誰かから怒られている感じでした。相手は彼氏さんだったんですね」
少年の目は悲しみで満ちていた。
「だったら何なの? そんな目で見ないで。私に同情しないで。私は同情されるようなことは何も……」
自分で言っていて、途中で言葉に詰まった。
本当に何もないって言えるのだろうか。
「その彼氏さん、お姉さんに本当に必要な人ですか? 浮気も……されてたのでしょう?」
少年は触れられたくないところに踏み込んでくる。
私は長い髪が好きだという彼のために伸ばしているロングの髪をかきむしった。たんこぶに爪があたって痛い。
痛い。
痛い。
心が痛い。
雅也の前では泣かなかったのに、涙が後から後から溢れてくる。
「でも、雅也しかいないの。私のことを必要としてくれるのは雅也だけなの。雅也がいないと一人ぼっちになるの。雅也と別れたらどうしていいか分からない!」
「本当にそうですか? お姉さんには両親はいないの? 友達も一人もいないの?」
「両親とは疎遠になってる。友達はいることはいるけど、最近会ってない。雅也が嫌がるし」
私は久しぶりに両親や友人の顔を思い出しながら答えた。
「彼氏さんが嫌がる? 自分は浮気してるのに? 僕、その彼氏さん、やっぱり問題あると思います。お姉さんは、彼氏さんという落としていいものを大事にとっておいて、落としてはいけない『自分』を落としていませんか?」
「自分……?」
「そうです。お姉さん、最近、ちゃんと思ってること口にできてますか? 彼氏さんの顔色ばかり窺って、自分の思ってることややりたいことを我慢してませんか?」
ドクっと心臓が鳴って、私はそんな自分を落ち着かせようと息を吐いた。
まずい。これは、まずい。少年の言葉には思い当たることが多すぎる。
私は否定の言葉を言おうとするのに、言葉にならなかった。それはきっと真実じゃないから。実際少年の言う通りなのだ。雅也の好む髪型、服装、化粧を心がけている。雅也のために野球も勉強して、カープファンにもなった。苦手な焼酎も無理して飲むようになったし、お金をねだられれば渡しもした。
自分がやりたいこと、と言われるとそこまでは浮かばないけれど、やりたくないことを雅也のためにしているのは事実だ。言っても無駄だからと言葉を飲み込む時も増えた。全ては雅也と別れたくないから。
終電の一つ前の電車に乗って帰っていた。身体が痛い。片方だけの真珠のピアスを握る手に力が入る。
なんで持ってきてしまったのかな。
駅に着くとどっと疲れて、握りしめていた手を開いた。コツンと音を立てて真珠のピアスがホームに転がる。拾う気はなかった。
「お姉さん。落とし物ですよ」
昼間の少年の声がして私は驚いて振り返った。
「真珠のピアス。落としました」
少年が指差している。
こんな時間までここに?
私は怪訝そうに少年を見ながら、
「……いいの。それは私の物じゃないから」
と答えた。
「え?」
少年の戸惑うような声。
「貴方も早く帰らないとご両親心配するわよ?」
私はそれだけ言うと、改札口の方へ行こうとする。
「あの、お姉さん」
少年の声に私は少しだけ苛立ちを覚える。頭が痛い。お尻も痛い。早く家に帰りたかった。
「頭にたんこぶができてませんか?」
私はどきりとした。
昼、雅也の会社に行ったけれどやはり間に合わず、彼の機嫌はすこぶる悪かった。私は自分の会社にも当然ながら遅刻して、仕事が終わらず残業することになった。
会社帰り、雅也の夕飯を作りに行く約束だったため、クタクタになりながらも彼の家に行った。
彼は私の作った食事には手をつけずに、私の後頭部を殴った。頭だけでない。彼は目立たないところを執拗に殴り、蹴った。
彼は機嫌が悪いと私に暴力を振るう。いつものことだ。今回は私が原因だし。
「お前のせいでプレゼン上手くいかなかったんだよ! ふざけんな! ムカつく!」
お腹を蹴られた。
私はたまらず床に倒れ込んだ。その時ベッドの近くに真珠のピアスが落ちているのを見つけた。
私のではなかった。
「お姉さん。違っていたらすみません。それは彼氏さんが殴ったんじゃないですか?」
「……」
私は答えに窮した。
「お姉さん。僕、お姉さん、大事なものを落としている気がします」
「大事なもの?」
「そう。今朝言いましたよね。落としちゃいけないもの」
私には少年の言葉が理解できなかった。私が落とした物はUSBメモリと真珠のピアスだけだ。
「お姉さん、今、幸せですか?」
「え?」
急に話が変わって私はついていけず、少年の言葉を反芻する。
幸せ?
私は即答できなかった。幸せ、なはずなのに、なぜか口が開かなかった。
幸せ? 私、本当に幸せだっけ?
「僕は殴るような人と一緒にいるのは幸せじゃなくて、辛いと思います」
胸にヒビが入ったように私は一瞬呼吸ができなくなった。
確かに殴られるのは蹴られるのは痛い。嫌だ。でも、雅也はその後はちゃんと謝ってくれる。優しくしてくれる。
「分かったようなこと言わないで。私が悪いから雅也は怒っただけよ」
「悪いって何をしたんですか?」
少年の目は真剣で、どこか憐みも帯びていた。
「USBメモリ落として、持っていくのに間に合わなかったでしょう?」
「それはお姉さんの部屋に大事なUSBメモリを忘れる彼氏さんが悪いんじゃないの? それなのにお姉さんのせいにして暴力を振るうなんて」
私だって心のどこかで思っていたことだ。でも、他人から言われると、苦しい。
「雅也は……悪くない。私が、悪いんだから」
「本当にそう思っていますか? それがお姉さんの本音なの?」
胸がざわざわする。
本音。そうよ、そうに決まってるじゃない。いつも私が悪いの。雅也の要望にちゃんと応えられない私が。
なのに、なぜ涙が出てくるんだろう。
私は慌てて涙を拭った。
「涙は落としていいものですよ」
少年の声は優しかった。
「僕、お姉さんのこと、ある日気付いてから気になって見てたんです。いつもスマホで誰かから怒られている感じでした。相手は彼氏さんだったんですね」
少年の目は悲しみで満ちていた。
「だったら何なの? そんな目で見ないで。私に同情しないで。私は同情されるようなことは何も……」
自分で言っていて、途中で言葉に詰まった。
本当に何もないって言えるのだろうか。
「その彼氏さん、お姉さんに本当に必要な人ですか? 浮気も……されてたのでしょう?」
少年は触れられたくないところに踏み込んでくる。
私は長い髪が好きだという彼のために伸ばしているロングの髪をかきむしった。たんこぶに爪があたって痛い。
痛い。
痛い。
心が痛い。
雅也の前では泣かなかったのに、涙が後から後から溢れてくる。
「でも、雅也しかいないの。私のことを必要としてくれるのは雅也だけなの。雅也がいないと一人ぼっちになるの。雅也と別れたらどうしていいか分からない!」
「本当にそうですか? お姉さんには両親はいないの? 友達も一人もいないの?」
「両親とは疎遠になってる。友達はいることはいるけど、最近会ってない。雅也が嫌がるし」
私は久しぶりに両親や友人の顔を思い出しながら答えた。
「彼氏さんが嫌がる? 自分は浮気してるのに? 僕、その彼氏さん、やっぱり問題あると思います。お姉さんは、彼氏さんという落としていいものを大事にとっておいて、落としてはいけない『自分』を落としていませんか?」
「自分……?」
「そうです。お姉さん、最近、ちゃんと思ってること口にできてますか? 彼氏さんの顔色ばかり窺って、自分の思ってることややりたいことを我慢してませんか?」
ドクっと心臓が鳴って、私はそんな自分を落ち着かせようと息を吐いた。
まずい。これは、まずい。少年の言葉には思い当たることが多すぎる。
私は否定の言葉を言おうとするのに、言葉にならなかった。それはきっと真実じゃないから。実際少年の言う通りなのだ。雅也の好む髪型、服装、化粧を心がけている。雅也のために野球も勉強して、カープファンにもなった。苦手な焼酎も無理して飲むようになったし、お金をねだられれば渡しもした。
自分がやりたいこと、と言われるとそこまでは浮かばないけれど、やりたくないことを雅也のためにしているのは事実だ。言っても無駄だからと言葉を飲み込む時も増えた。全ては雅也と別れたくないから。