と亜衣子が南條の横顔をのぞき込むようにして念を押した。
「署はそうしたい雰囲気だ」
と南條は豊齢線に深い皺を刻む。
「どういう意味?」
と土岐がわざと幼稚っぽく媚びるように聞いた。
「検視官の見立てじゃ、いたずらされた痕跡もないし、家族からも格別の不審の申し立てもないし。これが有力者の子弟なら話は別だろうけど。他にも未解決の事件をたんまり抱えているし。まあ、俺と新米の若造の担当になったということは」
「一件落着ということですか」
と亜衣子が尖った目つきで詰問した。
「そう。警察は全ての国民に対して平等というのは建前だけで実際は扱いの不平等がまかり通っている。昔程ではないが、その筋からの依頼があれば交通違反の揉み消しもねえこたあねえし。参考迄に言うと彼女の指紋は簡易鑑定だが、この手摺から検出されなかった。この高さだから、一気に飛び越えることはそれ程容易ではねえが、この手摺に足をかけたという痕跡も見当たらなかった」
と南條は重心を踵に移して、非常階段をけだるそうに降り始めた。
「手摺に指紋を残さないで、どうやって乗り越えられるんですか?」
と亜衣子が南條の野球帽の上から聞いた。
「転落しようとする人間が手摺につかまる必要はねえだろう」
「そんな馬鹿な。自殺にしたくって、そう解釈するって感じじゃないですか。指紋がないということは誰かが拭いたということでしょ。自殺なら指紋が残ってるはずだからこれは事件ということじゃ?」
「まあ、おれもそう思うがな。新聞配達が拭いたかも知れねえ」
「新聞配達がなんで拭かなければならないんですか?」
「新聞配達が非常階段を上り下りするときに、手摺を拭くような感じで指紋を消したんじゃないかと言う奴がいる」
「新聞配達の指紋か掌紋が残るんじゃ?」
「新聞配達は寒いんで軍手をはめている。その手で手摺につかまりながら非常階段を上下すればついた指紋が消えねえことはねえ」
「そんな。雑巾がけをするように手摺を触るわけがないでしょ。多少は軍手で触れないところが残るんじゃないですか?かりに完全な隆線は消えるにしても、隆線のかけらは残るんじゃないですか」