そう言ってティントを唇に乗せている。私が想像したとおりに彼女の顔に合っていて、可愛かった。鏡を見て喜ぶ彼女を見て、私も自然に頬が緩んだ。
その後は、二人でお菓子とジュースを口にしながらぺちゃくちゃ喋った。いつの間にか恋バナに変わっていた。
「伊代は気になる人いないの?」
何故だか真っ先に彼の顔が浮かんだ。でもそれを認めたくない自分がいた。
「さ、紗香こそいないの?」
そして必死に話を逸らす。
「私は…」
紗香はいるんだ。同じクラスの子かな。
「上村君」
「へぇ…え?」
上村?上村龍也…。私の学校で知る限り上村は一人だ。
「龍也くんカッコ良くない?」
え…。
「う、うん。」
何とか声を絞り出した。ここでようやく、私の気持ちが明らかとなって、もう誤魔化しが効かなくなっていた。私は彼に恋をしている。
帰り際、彼に貰った手袋を付け帰り支度をする。
「その手袋可愛い!」
誰かに貰ったの?と尋ねてくる。紗香に彼のことは言っていなくて、面倒なことになりたくなかったから、
「お母さんに貰ったの。」
紗香は、信じ切っていて疑う様子がなかったからほっと息を下ろした。
自分の気持ちに気づいてしまってから、何となく基地に行かなくなっていたし、図書室でもあの純文コーナーに行くと彼に会ってしまう気がしたのでさりげなく理由をつけて紗香の好きな青春もののコーナーにいるようにしていた。
結果的に言うと、私はこの恋を諦める。そして、紗香を応援する。
地味な私か、オシャレで愛想のいい紗香か、どちらを選ぶかと言われたらどんな男子も迷わず紗香を選ぶだろうから。無謀な恋を必死に追い掛けるより、親友を応援するのが私の務めだ。
今日、紗香に純文コーナーに行ってみないかという提案をした。さりげなく彼に合わせる為だ。
「やだよー、私そういうの読めないもん。」
と断ってきた彼女を無理矢理連れて行く。彼がいる隙を狙って。私は一緒にいると行けないから「たまには、趣味交換」と言って青春ものの方へ向かった。
本棚の影から二人の様子を見る。今二人の他には人が居なくて、話しかけるには絶好の時間だ。彼の方は全然意識していないが、紗香は隣に並んだだけで頬を赤くしている。
彼が何か話しかけた。遠くてここからじゃ聞き取ることが出来ない。
紗香は案外普通に話している。傍から見ればそれが恋人同士の会話に見える。それが私の心を濁らせた。
暫くして紗香が戻ってくる。
「今!上村君と話しちゃった。」
どうしようと、困りながらもめちゃくちゃ嬉しそうな彼女を見てこの作戦は成功だと踏んだ。
「私、上村君本気で好きだから、アピールしなきゃ。」
「紗香なら大丈夫だよ、頑張れ!」
そう、ありきたりな答え方しか出来なかった。
紗香を応援すると決めてから、私が彼と会っていたら何となく行けない気がして、学校内で私達は全く話さなくなった。
ある日、彼からどうして最近会ってくれないのかとメッセージが来た。
私だって本当は会いたい、それに気付いて欲しい。
何を思っているんだ、私は。もう紗香を応援すると決めた。その理由は話さない方がいい。
『最近少し忙しくて。』
そうなんだ、と返ってきた。少し寂しい気がした。
『そういえばさ、紗香がこの間龍也と話したらしくて、龍也はどう思った?』
直球過ぎたかもしれない。これで私が二人をくっつけようとしているのがバレたら元の子もない。
『鈴木さん?明るくていい子だなって思ったよ。』
そうなの。良かったね。私よりも紗香の方が話しやすいもんね。
彼は間違っていた。初めから面白そうと思った私よりも、紗香に話しかけていれば良かったのに。
『そっか。』
私は本当にこれでいいのか。日々自問自答を繰り返している。脳裏に私と彼が手を繋ぐ姿と、彼と紗香が仲睦まじく歩く姿が浮かぶ。
どっちがいいか。それは考えるまでも無かった。家の中でストーブの音だけが響いている。ふと、あの時の彼の言葉を思い返して耳を澄ませる。カラスの鳴き声、外で子供が遊ぶ声。時々少しだけ聴こえる風の音。こんなに世界には音が溢れている。
耳を澄ませれば、彼の心の声も聴こえるかな。そんなしょうもない考えに嫌気がさした。
この状況だと、彼の隣に席があるというのも気まずくて休み時間は席を立ち、授業中も反対方向を見るようにしていた。小説の授業はやはり、一番楽しい。自分の世界を描くことは安らぎを感じさせた。
五十分が物凄く早く過ぎていくのだ。
キーンコーンカーンコーン…
チャイムがなって席を立とうとすると彼の視線を感じた。何となくそちらを向いてしまうと、彼が私を見ていた。にっこり笑って原稿の束を差し出す。
「僕の小説。良かったら読んで」
そういえばお互いに読みたいと言っていた小説も結局交換せずに終わっていた。
「ありがと」
冷たく出来たか不安だった。彼はわらっただけった。
家に帰って彼の小説を読んだ。男女二人が森の中を冒険する物語だった。様々な困難を乗り越えてたどり着いた先には、幻想的な森の世界が待っているというような話で、彼の作風も独特なものだった。男子目線で描かれていたのだが、相手の心情も森の世界観も、情景も自然に伝わった。こんな物語が書けるなんて正直プロになれるんじゃないかと思った。読み終わったら日が暮れていたというくらいに、私はその中に入り込んでいたのだから。悔しい気持ちがどこかにあったけど、やはり虜にされてしまった。
母が一階から私を呼ぶ声が聞こえたので、原稿をカバンに閉まって下へ降りた。今日の夕食はトンカツだった。隣にはキャベツの千切りとレモンが盛られていて、炊きたてのご飯と熱々の味噌汁が用意されていた。ドラマに出てきそうなトンカツセットだ。
「いただきます。」
「ん」
母の返事が冷たいのはいつもの事だ。受験に受かった時すら騒がなかったのだから本当に素直じゃないと思う。でもずっと私のことを見てくれている。感情を表に出すことが少ないだけで。だから話す時も殆ど棒読みのように喋る。それが私たちの日常だ。お互いにトンカツをほうばっている時も、終始無言でいた。その間、私は彼の小説の余韻に使っていた。あの繊細すぎる文字の扱い方。見事に引き込まれていた。ぼうっとしながら、味噌汁を飲む。
「…あんたさ、好きなやつでも出来た?」
「は?」
なんで分かるの、って言葉が出ないように飲み込んだ。恋すると人は変わってしまうということをよく聞くが、本当に変わってしまうのだろうか。だから、母にもそれが分かった。
お母様。今、失恋しそうな勢いです。
「何年一緒にいたと思ってんの。父さんだって気づいてるだろうに」
まるで気が付かなかったのが私一人だけだと言うように、母は言った。
どうも、恥ずかしさが抑えられない。親にこの気持ちが見透かされるってこんなに恥ずかしい事なんだと悟った。顔が紅潮していくのが分かる。
「あ、当たったみたい」
母はひとり、嬉しそうに破顔した。
で、どんな人なの。と聞かれた。本当に答えたくない気持ちでいっぱいだったけれど、嫌と嘆いて叶う相手でもないから仕方なく、
「完璧人間T」
と言った。母は笑った。
「せいぜい頑張れよ」
私らは男友達か。でも、少し勇気は出た。なんの勇気かは分からないけど。紗香を心底応援する勇気か、彼を追う勇気か。どちらでも良かった。
その後も無言でトンカツを食べ進めた。
自室に戻ると、ケータイが受信を知らせた。紗香だった。
『私、上村君に告白する、ことにした。』
体全身が一気に震えるのを感じた。いくら何でも早過ぎないかと。
『いいんじゃない?応援するよ。』
気付いたらそんなことを打っていた。指が勝手に動いていた。
何でこう言っちゃったんだろ。溜め息が出る。
紗香曰く、明日の放課後に彼を呼び出して手紙と一緒に告白するという。どこかで、失敗を願っている自分がいることに愕然とした。
その日は、風呂に入らず寝てしまった。
「お、おはよう。伊代」
「おはよ」
紗香は朝からガチガチに緊張していた。何度階段で転びそうになっていたことか。
「私、大丈夫かな。」
そして本気で心配している。先程の授業だって先生に当てられて取り敢えず立ったものの、椅子が倒れてパニックになって筆箱も大胆に落としていた。正直、そんな紗香を見るのが辛かった。紗香は本気で彼に向き合っているんだってことを理解した。好きで堪らなくて、その気持ちを実現させるために一生懸命なんだ。
私はどうだろうか。ライバルが出現しただけで、プライドが邪魔して諦める。そんな恋でいいのか。自分がもう、一生恋ができないような衝動に駆られて心が痛い。紗香に比べて私は、って脳が私に囁いているようで気持ちが悪い。頭痛に耐えながら終えた授業は何倍もの長さがあるように感じた。
でも、二人とも図書室へ寄ることは違わなくて何も話さなくても自然と、その方向に進んで行った。
「じゃ、二十分後ね」
紗香は純文コーナーに、私は青春物語のコーナーに向かう。
「よっ、伊代」
嫌な予感がして振り向く。今一番会いたくない相手だ。今日紗香に告白されることを知らない彼が呑気に立っている。
「小説読んでくれた?」
でも、その話題になってから体が急に軽くなった気がした。
「うん、悔しいけど虜になっちゃったかも。君の繊細な作風には勝てないよ。」
「それは良かった。花と優介も喜んでいるよ。」
花と優介というのは、あの冒険物語の主人公だ。私ってやっぱり情熱が足りないのか。紗香は自分の恋に向かって、彼は小説の主人公に向かって情熱を注いでいる。私が受験の年に小説にかけたエネルギーはどこに行ってしまったのだろう。すぐにでも取り返したい気分だ。
「伊代の小説も読ませてよ。僕凄く楽しみなんだ。」
紗香が待ってるからという理由で、上手く話を逸らしてその場を後にした。その後もずっと彼の笑顔が脳にこびりついて離れなかった。
そしてついに、放課後。紗香の邪魔はしたくないし、こそこそ見ているのも悪趣味だと思って先に下校することにした。結果は連絡してくれるだろう。一人でいつもの帰路をなぞる。晴天、雲ひとつない空を見上げて深呼吸。自分が何を望んでいるのか、いくら思考を巡らせても分からなかった。母の言葉が蘇る。頑張りたくてもどう頑張ればいいか分からないのだ。もういくら考えたってどうもならない事に気づいて思考を停止させた。なんとなく、落ち着かない。
自室に帰って机の引き出しを開けてみる。中には、今まで書いた原稿がびっしり入っている。ノートパソコンを持っていないために私は、ずっとアナログ派だった。原稿用紙に鉛筆かシャーペンで文字を入れる。時々安い万年筆を用いることもあったけど、間違えた時のインクが消せなくて結局鉛筆が一番便利ということに気がついた。それからはメモをするときに使うようにしている。原稿用紙の束の中から、一つの束を取り出す。それは受験で使用したものではなく、一番新しく完成した物語でまだ誰にも見せていないものだ。幸せとは何か、生きるとはどういうことなのかを問い続けてきた主人公の生き様を描いた長編で、『哲学の神様』というタイトルをつけた。自分で言うのもなんだが、良作だと思う。彼にこの原稿を渡したらどんな顔をするだろう。この物語はこれから先、私が死ぬまで誰にも披露されないものかと考えていたが、もう彼にだったら見せてもいいんじゃないかと思う。そして、今度この小説を彼に渡すことを決めた。
その原稿を鞄にしまった時、スマホが鳴った。紗香だった。
「…断られちゃった。」
彼女の声は涙が出そうなのをグッと堪えているように聞こえる。もしかしたらもう泣いた後かもしれない。私は、そんな彼女の状況を知って少し安堵していた。最低なやつだ。応援するって言ったのに。
私は、何も言うことができなかった。しばらく沈黙して、気がつけば通信は途絶えていた。
その日は放心状態で、そのまま眠りについた。
翌日紗香と顔を合わせるのが辛くて、いや、昨夜あんなことになってしまったから決まりが悪くて無意識に避けていた。授業の時も、休み時間も時折視線を感じたけれど知らないふりをして無視し続けた。心が痛かった。
でも、もう耐えきれなくなったのか紗香がこちらに歩み寄ってきた。それを交わそうと横にずれる。でも彼女は鋭い目つきで私を見て、私の右手首を掴んだ。その力が想像以上に弱くて、彼女が無理して私に鋭い目つきを向けていると悟る。場所が教室だったために、話しづらいと思ったのだろう。彼女は私の右手首を掴んだまま、教室を出た。辿り着く先は人目につかない階段の隅。まだ昼間なのに妙に薄暗い。
「ごめん。伊代。」
すぐさま掴んでいた手を離し、そういった。その声はとても細く途切れそうだった。それより私は、なぜ彼女が謝ったのかが疑問だった。
「なんで…謝るの。」
「私、伊代が上村くんとよく話してたの見て伊代も上村君のこと好きなんだって薄々気がついてた。」
言うか、言わまいか悩んだ果てにそう口にしたと感じられた。私は彼のことが好きになったと言うことを一体何人の人に見破られていたのか。紗香がそのことを隠していたと言うことよりも、あまりにも自分がわかりやすい性格だと言うことの方がショックを受けていた。
私はまたもや返事に困って、「そっか」と軽く言うことしかできなかった。
「もちろん今でも上村君の事本気で好きだから、承諾してもらえるまで告白し続けようって思ってる。でも、伊代も彼の事が好きなら……私に遠慮して欲しくない、かな。」
そうか、私は彼女に遠慮していたのか。その表現が一番今までの私の行動にあっていた。
「二人とも上村君が好きなら、それでいいって私は思うから。私のせいで伊代が苦しい顔を見せるのは、違うから。」
そう言われると、困った。なぜなら私には紗香とライバルになってまで彼を追い続けられる自信がなかったからである。ふと、彼と基地であっていた日々を思い出した。まだ半年もたっていないはずなのにひどく昔のように感じられる。でも、思い返してみるとやはり私は彼が好きだ。気軽に会話できて、尚且つそれに楽しみを感じられる。そんな人は今までいなかっただろう。私にとっての彼はこれからもずっと、特別な存在であり続ける。どうにも、複雑な感情だ。気持ちと感情が胸の中でごっちゃに混ざり合っている感覚だ。
「そうだね。私も、好きなのかもしれない。」
主語が無かったのは、危うく龍也と呼んでしまうところだったからである。私が彼を名前で呼んでいることを知ったら、もっと厄介なことになりそうだった。紗香に基地でのことは話していないから怪しがられてしまう。
彼女は何も不思議に思った様子は見せなかった。
「私の中学時代、知らないでしょ。」
彼女は唐突にそんなことを話し始めた。
「私は、中学の頃クラスの中でもカースト上位の五人グループに所属していました。ま、それなりにいい立場だったと思うよ。私が仲間外れにされることはなかったし、ワイワイ話して馬鹿なことするのが楽しかったのは事実。でも、友達は毎日お互いに大好きだよ、って言い合ってたんだよね。その度に私もそう返していたんだけど。毎日毎日大好きだよ、うん。私も大好き、って会話が多くて、なんか表面的な友情を確かめ合っている気がしたんだ。大好きって言って、相手が自分のことが好きなのを毎日確かめるの。そうすれば安心するって、そう言う雰囲気が私には合わなかった。仕方なく、その空気に合わせていたんだけど。」
彼女は中学時代の思い出に浸りながら、まるで独り言のように呟いた。
「でも、伊代にこうして出会ってから自分の感覚は間違ってなかったって思ったんだよね。本当の友情って一緒にいれば感じるものなんだって。毎日大好きって言わなくても、私は伊代と繋がってるって自信を持って言えるから。」
私は素直に嬉しいと思った。紗香がそう思ってくれていたこと、過去を打ち明けてくれたこと、全てにおいて。
「うん。」
その一言で、紗香には私の全ての想いが伝わる気がした。満足感と幸福感の中、時間を確認して教室に戻った。そこに気まずさは微塵も残っていなくて、昨日の青空のようだった。
私はあの後も、彼に想いを伝えようとは思わなかった。誰にも見られない隙を狙って小説を手渡しして、少し雑談もした。でも、なぜだか告白の勇気は湧いてこなかった。それはそれで、良いと安心していた。あの時気持ちを伝えていればよかったと、後悔したのは紗香から着信があった後だった。
「上村君と付き合うことになったよ。」
行動の速さに驚いた。彼女に遠慮という文字はない、強い意志が感じられた。口調もはっきりとしていた。
「おめでと…」
まず、悔しかった。特別だって言ったじゃん。私にだけ教えてくれた秘密基地も、ずっと付き合ってくれてたバスケも、小説の話で盛り上がったのも、クリスマスプレゼントくれたのも、あれは何だったのだろう。全てが夢であってほしいと叶うはずもない事を願ってしまうほどに私は取り乱していた。その勢いでスマホを落としてしまう。拾う気にならなかったけれど、ここはちゃんと向き合わなければと何処かでそう思っていた静かに床に手を伸ばした。彼女の方にはすごい音が響いただろう。
「…これからも、友達でいてくれる」
緊張気味に彼女はいった。私は、無理していると分かっていながらも
「もちろん」
と声を振り絞った。もっと盛大に喜んであげれば良かったと後悔した。そんな余裕はどこにもなかった。
「…小説、戻ってこないかなー」
無理矢理笑顔を作った。涙が頬を伝った感覚を感じとったら、私は嗚咽をおさえることができなかった。とんでもなく悔しくて、悲しかった。
気が付けば二月。紗香と彼は充実した生活を送っているのが、顔を見れば一目瞭然だった。学校では、美男美女カップルと有名になり、私だったらそんな話題は出ないだろうからそれはそれでよかったと思う。それに、紗香とは今も友達で、私たちの関係は変わっていない。変わったといえば、私達の会話で『上村龍也』というワードが一切出なくなった事くらいだ。暗黙のルールのように、彼の話題を避けている気がしていたがそれで良かった。私はまだ、諦めきれたのか分からなかった。あの時真っ先に、私の方が好きだったのにって思ってしまった。ろくな努力もしてない癖に、自分は紗香よりも立場が上だと思った。情けなさがすぎる。
二月といえば一番嫌なイベントがある。その名もバレンタインデー。失恋したばかりの私にとっては、嫌でたまらない。どんなに拒否したとしても、バレンタインの話題は絶えない。まだ基地で会っていた頃、私は密かにバレンタインに告白してもいいかと考えていたのに台無しになってしまった。紗香は、彼にどんな物を贈るだろうか。きっと、私の想像を上回るくらい素敵な物なんだと推測する。
どちらにしろ、私には関係ないことでこれ以上思考を巡らせたところで気分は沈むだけだと、脳内の思考を数学に戻した。
家に帰り、ネットニュースをだらだら閲覧していると衝撃のニュースが舞い込んできた。速報だった。
『〇県〇市の森林伐採決定』
あの基地のあった森だ。全体的に伐採し、新しく店舗を立ち上げるのだとか。あの基地が無くなる。そう考えると今までの記憶が遡ってきて、無邪気に笑う私の姿に胸が押しつぶされそうな感覚に陥った。反射的に手が動いていて気が付けば彼に『基地がある森林が伐採される』とだけ送っていた。直ぐに既読がつく。丁度彼も見ていたのかもしれない。
『もう決定した。僕らが帰ることは出来ない。』
彼にしては珍しく、諦めが文章に透けて出ていた。確かに高校生二人で行政に説得を試みたところで、失敗に終わることは目に見えていた。せめて、二人で無くなるまでは大切にして行きたかった。今の状況下でも可能だろうか。
『一度、基地に行ってみないか。』
そのメッセージを見て、当然のように承諾の返事を出した。
今からでもいいと言った彼と林の前で集合する。ニュースによると、この林のような部分が森の入口で、私たちの基地は森のだいぶ浅い部分だったらしい。この奥に深く壮大な森が広がっていると思うと、またあの時の冒険心が湧き出てきそうだ。
「…伊代。」
声がした方に振り向くと気まずそうな彼の姿があった。このまま気まずい雰囲気のままなのは気が引けるため「紗香をよろしくね。」と元気な口調を意識して伝えた。この表情を見る限り、彼は私の気持ちに気がついていたのだろうと察した。
「行こうか。」
彼の後に続いて歩いていく。基地の前に看板が置かれ、関係者以外立ち入り禁止という看板がでかでかと立っていたが、それを無視して中に進んだ。まだ工事は始まっていなく、森は静かだった。
基地も何も変わっていなかった。でも、雑草が伸びきっているわけでもなく、彼が時々整備してくれていたことを悟る。久々の基地はやはり、安心感があった。日光が差し込む感じから、木々が風に揺れる景色から全てが懐かしく思えた。あの大きな樹木だって立派に立っていた。私が苗で編み込んで作ったゴールも残っていた。
「懐かしい。」
「そうだな。僕も伊代と訪れると感じ方が全然違う。この場所は最高だ。」
自然に話せていることに安堵した。私が避けていただけか。思わず紗香のことを聞きたくなったけど辞めておいた。
「この場所が無くなるまで、何したらいいのかな」
「毎日来てこの森にお礼をすることが一番だと思う。無理にここを片付ける必要はないよ。」
この空き地は何度も私達が出入りしているが、ここを自然だけの空間にしておきたくて、私物はおいていかなかった。だから片付けなくたって神聖な場所としての存在感がある。
「じゃあ、残り一週間だけど僕は毎日ここに来るよ。伊代は無理しなくていいよ。」
「勿論私も行くよ。毎日。」
噛み締めるように言った言葉は、酷く掠れていた。
それから一週間、私達は放課後に基地に集うようになった。移動は別々で帰りは一緒。過ごす時間は三十分くらいの時もあれば一時間を超えることもあった。まだ肌寒いので、私は日が暮れる前には帰るようにしている。
過ごす間は時々言葉を交わすこともあれば終始無言でそれぞれしたいことをする時もある。大概二人とも読書だが。
この日ももう日が暮れ出していて、私は帰る支度をした。
「その手袋…」
彼がくれたものだ。いつも付けている。
「うん、これ気に入ってるんだ。」
彼は、使ってくれてるんだと、安堵の表情を見せた。ありがとう、と彼は笑った。
そして、折角だから一緒に帰ろうかなと、支度を始めた。帰りにはしっかりと森林に礼を言って頭を下げた。スマホの画面を確認すると森林伐採の工事が開始されるまで、残り二日となっていた。
お互いに口を開かないが、気まずさはまるで存在しない帰り道。ただ、聞きたいことがあって沈黙を破った。
「紗香と、どうなの。」
親友の話を聞くだけだが、妙に緊張していた。
「楽しいよ。紗香は優しい子だなって毎日感じる。」
いつも、肯定しかしない彼の言葉は時々嘘をついているように感じる。やはり、人間はネガティブな考えが嫌でも浮かぶ生き物だ。その感情を丸出しにしていては論争が耐えないけれど、彼はまた別な気がするのだ。自分でもよく分からなかった。そもそも、彼女がいる彼と私が二人きりで帰るというのは傍から見れば相当危ない気がする。クラスの誰かに見られていたら、紗香との間柄を破壊する恐れがある。
「…これからは帰りも別で帰らない?」
「どうして?」
「龍也には紗香がいるでしょ。邪魔したらまずいし、誰に見つかったら変な話、浮気だって騒がれる。」
そうかもね、とまた肯定した。そればかりは仕方ないかもしれない。でも、私より紗香なんだと思うとよく分からない感情が湧き上がってくる。あれから、何度も紗香の努力を認めようとしていたのになかなか自分を説得するのは難しいみたいだ。大した勇気を出せないくせに嫉妬ばかりしている自分に嫌気がさす。まだ私は彼を諦めきれていはいないということだ。
気づけば家路に近づき、お休みと手を振って別れた。
森林伐採の工事が始まる前日。今日ばかりは二人共に緊張が走っていた。今日で全部終わりだと思うと目が潤む。
「今日でこの基地ともお別れだ。」
「うん。」
この基地は、私にたくさんのことを教えてくれた。自然の恵みを注がれて、日光の気持ちよさを味わった。そして、バスケの練習をしながら彼との交流の機会を作ってくれた。目の前に生えている大きな樹木は無言でも、私を見守っているような雰囲気を纏わせている。今日で君ともお別れかもしれない。だって、もう会う理由などなくなってしまうのだから。
『ありがとう。』
自然の空気をめいっぱい吸って、吐き出す。
これで、もう、悔いはない。
「ありがとう、伊代」
唐突に言われて、彼の方を見たがわざとこちらへ目を向けていないような気がして目線をずらした。
「ありがとう、龍也」
もう、日が暮れ始めていた。
「あんた、失恋した?」
朝、朝食を食べていると母に言われた。図星である。
「しとらんわ。」
思わず方言が出てしまった。何故こんなにも分かるのだ。
「まあ、あんたの事だからどうせ誰かに取られたんでしょ。本当に好きなら取り返しなよ。完璧人間T」
「はいはい。」
何故誰か(紗香)に彼を取られたことまで知っているのだ。推測しただけか、それにしては正答率が高すぎる。これが、母親の力か。
ご馳走様、と手を合わせて席をたち、身支度をして家を出た。もう彼と関わることはないのだから安心してくれたまえ、私。基地は大切な場所であったことに変わりはないけれど、基地がなくなってしまったら、何故か胸がすっきりした。
学校につくと、一番に紗香がやってくる。
「龍也君と別れちゃった。」
紗香にしてはあまりにも平然とした表情だったので驚いてしまう。
「この前喧嘩したから、そのまま…」
私から彼を奪ったくせにそんな早くしかも、喧嘩で別れるなんてと、自分でもよく分からない怒りが湧いてくる。そこは意地でも抑えてやろうと努力した。
「じゃ、カフェにでも行って盛り上がろう!」
元気に言うことに全力をかけている自分がいた。放課後はあの、個性的なカフェで新メニューを食べた。不思議だが、美味しかった。
もう進級シーズン。隣の席の彼とはもう、話さない。
それから高校二年、三年と時は過ぎたがこれも何かの運命なのか、紗香とは三年間一生のクラスだが、彼とはそれきり一度も同じクラスにはならなかった。
私達は、大人になった。
その後は、二人でお菓子とジュースを口にしながらぺちゃくちゃ喋った。いつの間にか恋バナに変わっていた。
「伊代は気になる人いないの?」
何故だか真っ先に彼の顔が浮かんだ。でもそれを認めたくない自分がいた。
「さ、紗香こそいないの?」
そして必死に話を逸らす。
「私は…」
紗香はいるんだ。同じクラスの子かな。
「上村君」
「へぇ…え?」
上村?上村龍也…。私の学校で知る限り上村は一人だ。
「龍也くんカッコ良くない?」
え…。
「う、うん。」
何とか声を絞り出した。ここでようやく、私の気持ちが明らかとなって、もう誤魔化しが効かなくなっていた。私は彼に恋をしている。
帰り際、彼に貰った手袋を付け帰り支度をする。
「その手袋可愛い!」
誰かに貰ったの?と尋ねてくる。紗香に彼のことは言っていなくて、面倒なことになりたくなかったから、
「お母さんに貰ったの。」
紗香は、信じ切っていて疑う様子がなかったからほっと息を下ろした。
自分の気持ちに気づいてしまってから、何となく基地に行かなくなっていたし、図書室でもあの純文コーナーに行くと彼に会ってしまう気がしたのでさりげなく理由をつけて紗香の好きな青春もののコーナーにいるようにしていた。
結果的に言うと、私はこの恋を諦める。そして、紗香を応援する。
地味な私か、オシャレで愛想のいい紗香か、どちらを選ぶかと言われたらどんな男子も迷わず紗香を選ぶだろうから。無謀な恋を必死に追い掛けるより、親友を応援するのが私の務めだ。
今日、紗香に純文コーナーに行ってみないかという提案をした。さりげなく彼に合わせる為だ。
「やだよー、私そういうの読めないもん。」
と断ってきた彼女を無理矢理連れて行く。彼がいる隙を狙って。私は一緒にいると行けないから「たまには、趣味交換」と言って青春ものの方へ向かった。
本棚の影から二人の様子を見る。今二人の他には人が居なくて、話しかけるには絶好の時間だ。彼の方は全然意識していないが、紗香は隣に並んだだけで頬を赤くしている。
彼が何か話しかけた。遠くてここからじゃ聞き取ることが出来ない。
紗香は案外普通に話している。傍から見ればそれが恋人同士の会話に見える。それが私の心を濁らせた。
暫くして紗香が戻ってくる。
「今!上村君と話しちゃった。」
どうしようと、困りながらもめちゃくちゃ嬉しそうな彼女を見てこの作戦は成功だと踏んだ。
「私、上村君本気で好きだから、アピールしなきゃ。」
「紗香なら大丈夫だよ、頑張れ!」
そう、ありきたりな答え方しか出来なかった。
紗香を応援すると決めてから、私が彼と会っていたら何となく行けない気がして、学校内で私達は全く話さなくなった。
ある日、彼からどうして最近会ってくれないのかとメッセージが来た。
私だって本当は会いたい、それに気付いて欲しい。
何を思っているんだ、私は。もう紗香を応援すると決めた。その理由は話さない方がいい。
『最近少し忙しくて。』
そうなんだ、と返ってきた。少し寂しい気がした。
『そういえばさ、紗香がこの間龍也と話したらしくて、龍也はどう思った?』
直球過ぎたかもしれない。これで私が二人をくっつけようとしているのがバレたら元の子もない。
『鈴木さん?明るくていい子だなって思ったよ。』
そうなの。良かったね。私よりも紗香の方が話しやすいもんね。
彼は間違っていた。初めから面白そうと思った私よりも、紗香に話しかけていれば良かったのに。
『そっか。』
私は本当にこれでいいのか。日々自問自答を繰り返している。脳裏に私と彼が手を繋ぐ姿と、彼と紗香が仲睦まじく歩く姿が浮かぶ。
どっちがいいか。それは考えるまでも無かった。家の中でストーブの音だけが響いている。ふと、あの時の彼の言葉を思い返して耳を澄ませる。カラスの鳴き声、外で子供が遊ぶ声。時々少しだけ聴こえる風の音。こんなに世界には音が溢れている。
耳を澄ませれば、彼の心の声も聴こえるかな。そんなしょうもない考えに嫌気がさした。
この状況だと、彼の隣に席があるというのも気まずくて休み時間は席を立ち、授業中も反対方向を見るようにしていた。小説の授業はやはり、一番楽しい。自分の世界を描くことは安らぎを感じさせた。
五十分が物凄く早く過ぎていくのだ。
キーンコーンカーンコーン…
チャイムがなって席を立とうとすると彼の視線を感じた。何となくそちらを向いてしまうと、彼が私を見ていた。にっこり笑って原稿の束を差し出す。
「僕の小説。良かったら読んで」
そういえばお互いに読みたいと言っていた小説も結局交換せずに終わっていた。
「ありがと」
冷たく出来たか不安だった。彼はわらっただけった。
家に帰って彼の小説を読んだ。男女二人が森の中を冒険する物語だった。様々な困難を乗り越えてたどり着いた先には、幻想的な森の世界が待っているというような話で、彼の作風も独特なものだった。男子目線で描かれていたのだが、相手の心情も森の世界観も、情景も自然に伝わった。こんな物語が書けるなんて正直プロになれるんじゃないかと思った。読み終わったら日が暮れていたというくらいに、私はその中に入り込んでいたのだから。悔しい気持ちがどこかにあったけど、やはり虜にされてしまった。
母が一階から私を呼ぶ声が聞こえたので、原稿をカバンに閉まって下へ降りた。今日の夕食はトンカツだった。隣にはキャベツの千切りとレモンが盛られていて、炊きたてのご飯と熱々の味噌汁が用意されていた。ドラマに出てきそうなトンカツセットだ。
「いただきます。」
「ん」
母の返事が冷たいのはいつもの事だ。受験に受かった時すら騒がなかったのだから本当に素直じゃないと思う。でもずっと私のことを見てくれている。感情を表に出すことが少ないだけで。だから話す時も殆ど棒読みのように喋る。それが私たちの日常だ。お互いにトンカツをほうばっている時も、終始無言でいた。その間、私は彼の小説の余韻に使っていた。あの繊細すぎる文字の扱い方。見事に引き込まれていた。ぼうっとしながら、味噌汁を飲む。
「…あんたさ、好きなやつでも出来た?」
「は?」
なんで分かるの、って言葉が出ないように飲み込んだ。恋すると人は変わってしまうということをよく聞くが、本当に変わってしまうのだろうか。だから、母にもそれが分かった。
お母様。今、失恋しそうな勢いです。
「何年一緒にいたと思ってんの。父さんだって気づいてるだろうに」
まるで気が付かなかったのが私一人だけだと言うように、母は言った。
どうも、恥ずかしさが抑えられない。親にこの気持ちが見透かされるってこんなに恥ずかしい事なんだと悟った。顔が紅潮していくのが分かる。
「あ、当たったみたい」
母はひとり、嬉しそうに破顔した。
で、どんな人なの。と聞かれた。本当に答えたくない気持ちでいっぱいだったけれど、嫌と嘆いて叶う相手でもないから仕方なく、
「完璧人間T」
と言った。母は笑った。
「せいぜい頑張れよ」
私らは男友達か。でも、少し勇気は出た。なんの勇気かは分からないけど。紗香を心底応援する勇気か、彼を追う勇気か。どちらでも良かった。
その後も無言でトンカツを食べ進めた。
自室に戻ると、ケータイが受信を知らせた。紗香だった。
『私、上村君に告白する、ことにした。』
体全身が一気に震えるのを感じた。いくら何でも早過ぎないかと。
『いいんじゃない?応援するよ。』
気付いたらそんなことを打っていた。指が勝手に動いていた。
何でこう言っちゃったんだろ。溜め息が出る。
紗香曰く、明日の放課後に彼を呼び出して手紙と一緒に告白するという。どこかで、失敗を願っている自分がいることに愕然とした。
その日は、風呂に入らず寝てしまった。
「お、おはよう。伊代」
「おはよ」
紗香は朝からガチガチに緊張していた。何度階段で転びそうになっていたことか。
「私、大丈夫かな。」
そして本気で心配している。先程の授業だって先生に当てられて取り敢えず立ったものの、椅子が倒れてパニックになって筆箱も大胆に落としていた。正直、そんな紗香を見るのが辛かった。紗香は本気で彼に向き合っているんだってことを理解した。好きで堪らなくて、その気持ちを実現させるために一生懸命なんだ。
私はどうだろうか。ライバルが出現しただけで、プライドが邪魔して諦める。そんな恋でいいのか。自分がもう、一生恋ができないような衝動に駆られて心が痛い。紗香に比べて私は、って脳が私に囁いているようで気持ちが悪い。頭痛に耐えながら終えた授業は何倍もの長さがあるように感じた。
でも、二人とも図書室へ寄ることは違わなくて何も話さなくても自然と、その方向に進んで行った。
「じゃ、二十分後ね」
紗香は純文コーナーに、私は青春物語のコーナーに向かう。
「よっ、伊代」
嫌な予感がして振り向く。今一番会いたくない相手だ。今日紗香に告白されることを知らない彼が呑気に立っている。
「小説読んでくれた?」
でも、その話題になってから体が急に軽くなった気がした。
「うん、悔しいけど虜になっちゃったかも。君の繊細な作風には勝てないよ。」
「それは良かった。花と優介も喜んでいるよ。」
花と優介というのは、あの冒険物語の主人公だ。私ってやっぱり情熱が足りないのか。紗香は自分の恋に向かって、彼は小説の主人公に向かって情熱を注いでいる。私が受験の年に小説にかけたエネルギーはどこに行ってしまったのだろう。すぐにでも取り返したい気分だ。
「伊代の小説も読ませてよ。僕凄く楽しみなんだ。」
紗香が待ってるからという理由で、上手く話を逸らしてその場を後にした。その後もずっと彼の笑顔が脳にこびりついて離れなかった。
そしてついに、放課後。紗香の邪魔はしたくないし、こそこそ見ているのも悪趣味だと思って先に下校することにした。結果は連絡してくれるだろう。一人でいつもの帰路をなぞる。晴天、雲ひとつない空を見上げて深呼吸。自分が何を望んでいるのか、いくら思考を巡らせても分からなかった。母の言葉が蘇る。頑張りたくてもどう頑張ればいいか分からないのだ。もういくら考えたってどうもならない事に気づいて思考を停止させた。なんとなく、落ち着かない。
自室に帰って机の引き出しを開けてみる。中には、今まで書いた原稿がびっしり入っている。ノートパソコンを持っていないために私は、ずっとアナログ派だった。原稿用紙に鉛筆かシャーペンで文字を入れる。時々安い万年筆を用いることもあったけど、間違えた時のインクが消せなくて結局鉛筆が一番便利ということに気がついた。それからはメモをするときに使うようにしている。原稿用紙の束の中から、一つの束を取り出す。それは受験で使用したものではなく、一番新しく完成した物語でまだ誰にも見せていないものだ。幸せとは何か、生きるとはどういうことなのかを問い続けてきた主人公の生き様を描いた長編で、『哲学の神様』というタイトルをつけた。自分で言うのもなんだが、良作だと思う。彼にこの原稿を渡したらどんな顔をするだろう。この物語はこれから先、私が死ぬまで誰にも披露されないものかと考えていたが、もう彼にだったら見せてもいいんじゃないかと思う。そして、今度この小説を彼に渡すことを決めた。
その原稿を鞄にしまった時、スマホが鳴った。紗香だった。
「…断られちゃった。」
彼女の声は涙が出そうなのをグッと堪えているように聞こえる。もしかしたらもう泣いた後かもしれない。私は、そんな彼女の状況を知って少し安堵していた。最低なやつだ。応援するって言ったのに。
私は、何も言うことができなかった。しばらく沈黙して、気がつけば通信は途絶えていた。
その日は放心状態で、そのまま眠りについた。
翌日紗香と顔を合わせるのが辛くて、いや、昨夜あんなことになってしまったから決まりが悪くて無意識に避けていた。授業の時も、休み時間も時折視線を感じたけれど知らないふりをして無視し続けた。心が痛かった。
でも、もう耐えきれなくなったのか紗香がこちらに歩み寄ってきた。それを交わそうと横にずれる。でも彼女は鋭い目つきで私を見て、私の右手首を掴んだ。その力が想像以上に弱くて、彼女が無理して私に鋭い目つきを向けていると悟る。場所が教室だったために、話しづらいと思ったのだろう。彼女は私の右手首を掴んだまま、教室を出た。辿り着く先は人目につかない階段の隅。まだ昼間なのに妙に薄暗い。
「ごめん。伊代。」
すぐさま掴んでいた手を離し、そういった。その声はとても細く途切れそうだった。それより私は、なぜ彼女が謝ったのかが疑問だった。
「なんで…謝るの。」
「私、伊代が上村くんとよく話してたの見て伊代も上村君のこと好きなんだって薄々気がついてた。」
言うか、言わまいか悩んだ果てにそう口にしたと感じられた。私は彼のことが好きになったと言うことを一体何人の人に見破られていたのか。紗香がそのことを隠していたと言うことよりも、あまりにも自分がわかりやすい性格だと言うことの方がショックを受けていた。
私はまたもや返事に困って、「そっか」と軽く言うことしかできなかった。
「もちろん今でも上村君の事本気で好きだから、承諾してもらえるまで告白し続けようって思ってる。でも、伊代も彼の事が好きなら……私に遠慮して欲しくない、かな。」
そうか、私は彼女に遠慮していたのか。その表現が一番今までの私の行動にあっていた。
「二人とも上村君が好きなら、それでいいって私は思うから。私のせいで伊代が苦しい顔を見せるのは、違うから。」
そう言われると、困った。なぜなら私には紗香とライバルになってまで彼を追い続けられる自信がなかったからである。ふと、彼と基地であっていた日々を思い出した。まだ半年もたっていないはずなのにひどく昔のように感じられる。でも、思い返してみるとやはり私は彼が好きだ。気軽に会話できて、尚且つそれに楽しみを感じられる。そんな人は今までいなかっただろう。私にとっての彼はこれからもずっと、特別な存在であり続ける。どうにも、複雑な感情だ。気持ちと感情が胸の中でごっちゃに混ざり合っている感覚だ。
「そうだね。私も、好きなのかもしれない。」
主語が無かったのは、危うく龍也と呼んでしまうところだったからである。私が彼を名前で呼んでいることを知ったら、もっと厄介なことになりそうだった。紗香に基地でのことは話していないから怪しがられてしまう。
彼女は何も不思議に思った様子は見せなかった。
「私の中学時代、知らないでしょ。」
彼女は唐突にそんなことを話し始めた。
「私は、中学の頃クラスの中でもカースト上位の五人グループに所属していました。ま、それなりにいい立場だったと思うよ。私が仲間外れにされることはなかったし、ワイワイ話して馬鹿なことするのが楽しかったのは事実。でも、友達は毎日お互いに大好きだよ、って言い合ってたんだよね。その度に私もそう返していたんだけど。毎日毎日大好きだよ、うん。私も大好き、って会話が多くて、なんか表面的な友情を確かめ合っている気がしたんだ。大好きって言って、相手が自分のことが好きなのを毎日確かめるの。そうすれば安心するって、そう言う雰囲気が私には合わなかった。仕方なく、その空気に合わせていたんだけど。」
彼女は中学時代の思い出に浸りながら、まるで独り言のように呟いた。
「でも、伊代にこうして出会ってから自分の感覚は間違ってなかったって思ったんだよね。本当の友情って一緒にいれば感じるものなんだって。毎日大好きって言わなくても、私は伊代と繋がってるって自信を持って言えるから。」
私は素直に嬉しいと思った。紗香がそう思ってくれていたこと、過去を打ち明けてくれたこと、全てにおいて。
「うん。」
その一言で、紗香には私の全ての想いが伝わる気がした。満足感と幸福感の中、時間を確認して教室に戻った。そこに気まずさは微塵も残っていなくて、昨日の青空のようだった。
私はあの後も、彼に想いを伝えようとは思わなかった。誰にも見られない隙を狙って小説を手渡しして、少し雑談もした。でも、なぜだか告白の勇気は湧いてこなかった。それはそれで、良いと安心していた。あの時気持ちを伝えていればよかったと、後悔したのは紗香から着信があった後だった。
「上村君と付き合うことになったよ。」
行動の速さに驚いた。彼女に遠慮という文字はない、強い意志が感じられた。口調もはっきりとしていた。
「おめでと…」
まず、悔しかった。特別だって言ったじゃん。私にだけ教えてくれた秘密基地も、ずっと付き合ってくれてたバスケも、小説の話で盛り上がったのも、クリスマスプレゼントくれたのも、あれは何だったのだろう。全てが夢であってほしいと叶うはずもない事を願ってしまうほどに私は取り乱していた。その勢いでスマホを落としてしまう。拾う気にならなかったけれど、ここはちゃんと向き合わなければと何処かでそう思っていた静かに床に手を伸ばした。彼女の方にはすごい音が響いただろう。
「…これからも、友達でいてくれる」
緊張気味に彼女はいった。私は、無理していると分かっていながらも
「もちろん」
と声を振り絞った。もっと盛大に喜んであげれば良かったと後悔した。そんな余裕はどこにもなかった。
「…小説、戻ってこないかなー」
無理矢理笑顔を作った。涙が頬を伝った感覚を感じとったら、私は嗚咽をおさえることができなかった。とんでもなく悔しくて、悲しかった。
気が付けば二月。紗香と彼は充実した生活を送っているのが、顔を見れば一目瞭然だった。学校では、美男美女カップルと有名になり、私だったらそんな話題は出ないだろうからそれはそれでよかったと思う。それに、紗香とは今も友達で、私たちの関係は変わっていない。変わったといえば、私達の会話で『上村龍也』というワードが一切出なくなった事くらいだ。暗黙のルールのように、彼の話題を避けている気がしていたがそれで良かった。私はまだ、諦めきれたのか分からなかった。あの時真っ先に、私の方が好きだったのにって思ってしまった。ろくな努力もしてない癖に、自分は紗香よりも立場が上だと思った。情けなさがすぎる。
二月といえば一番嫌なイベントがある。その名もバレンタインデー。失恋したばかりの私にとっては、嫌でたまらない。どんなに拒否したとしても、バレンタインの話題は絶えない。まだ基地で会っていた頃、私は密かにバレンタインに告白してもいいかと考えていたのに台無しになってしまった。紗香は、彼にどんな物を贈るだろうか。きっと、私の想像を上回るくらい素敵な物なんだと推測する。
どちらにしろ、私には関係ないことでこれ以上思考を巡らせたところで気分は沈むだけだと、脳内の思考を数学に戻した。
家に帰り、ネットニュースをだらだら閲覧していると衝撃のニュースが舞い込んできた。速報だった。
『〇県〇市の森林伐採決定』
あの基地のあった森だ。全体的に伐採し、新しく店舗を立ち上げるのだとか。あの基地が無くなる。そう考えると今までの記憶が遡ってきて、無邪気に笑う私の姿に胸が押しつぶされそうな感覚に陥った。反射的に手が動いていて気が付けば彼に『基地がある森林が伐採される』とだけ送っていた。直ぐに既読がつく。丁度彼も見ていたのかもしれない。
『もう決定した。僕らが帰ることは出来ない。』
彼にしては珍しく、諦めが文章に透けて出ていた。確かに高校生二人で行政に説得を試みたところで、失敗に終わることは目に見えていた。せめて、二人で無くなるまでは大切にして行きたかった。今の状況下でも可能だろうか。
『一度、基地に行ってみないか。』
そのメッセージを見て、当然のように承諾の返事を出した。
今からでもいいと言った彼と林の前で集合する。ニュースによると、この林のような部分が森の入口で、私たちの基地は森のだいぶ浅い部分だったらしい。この奥に深く壮大な森が広がっていると思うと、またあの時の冒険心が湧き出てきそうだ。
「…伊代。」
声がした方に振り向くと気まずそうな彼の姿があった。このまま気まずい雰囲気のままなのは気が引けるため「紗香をよろしくね。」と元気な口調を意識して伝えた。この表情を見る限り、彼は私の気持ちに気がついていたのだろうと察した。
「行こうか。」
彼の後に続いて歩いていく。基地の前に看板が置かれ、関係者以外立ち入り禁止という看板がでかでかと立っていたが、それを無視して中に進んだ。まだ工事は始まっていなく、森は静かだった。
基地も何も変わっていなかった。でも、雑草が伸びきっているわけでもなく、彼が時々整備してくれていたことを悟る。久々の基地はやはり、安心感があった。日光が差し込む感じから、木々が風に揺れる景色から全てが懐かしく思えた。あの大きな樹木だって立派に立っていた。私が苗で編み込んで作ったゴールも残っていた。
「懐かしい。」
「そうだな。僕も伊代と訪れると感じ方が全然違う。この場所は最高だ。」
自然に話せていることに安堵した。私が避けていただけか。思わず紗香のことを聞きたくなったけど辞めておいた。
「この場所が無くなるまで、何したらいいのかな」
「毎日来てこの森にお礼をすることが一番だと思う。無理にここを片付ける必要はないよ。」
この空き地は何度も私達が出入りしているが、ここを自然だけの空間にしておきたくて、私物はおいていかなかった。だから片付けなくたって神聖な場所としての存在感がある。
「じゃあ、残り一週間だけど僕は毎日ここに来るよ。伊代は無理しなくていいよ。」
「勿論私も行くよ。毎日。」
噛み締めるように言った言葉は、酷く掠れていた。
それから一週間、私達は放課後に基地に集うようになった。移動は別々で帰りは一緒。過ごす時間は三十分くらいの時もあれば一時間を超えることもあった。まだ肌寒いので、私は日が暮れる前には帰るようにしている。
過ごす間は時々言葉を交わすこともあれば終始無言でそれぞれしたいことをする時もある。大概二人とも読書だが。
この日ももう日が暮れ出していて、私は帰る支度をした。
「その手袋…」
彼がくれたものだ。いつも付けている。
「うん、これ気に入ってるんだ。」
彼は、使ってくれてるんだと、安堵の表情を見せた。ありがとう、と彼は笑った。
そして、折角だから一緒に帰ろうかなと、支度を始めた。帰りにはしっかりと森林に礼を言って頭を下げた。スマホの画面を確認すると森林伐採の工事が開始されるまで、残り二日となっていた。
お互いに口を開かないが、気まずさはまるで存在しない帰り道。ただ、聞きたいことがあって沈黙を破った。
「紗香と、どうなの。」
親友の話を聞くだけだが、妙に緊張していた。
「楽しいよ。紗香は優しい子だなって毎日感じる。」
いつも、肯定しかしない彼の言葉は時々嘘をついているように感じる。やはり、人間はネガティブな考えが嫌でも浮かぶ生き物だ。その感情を丸出しにしていては論争が耐えないけれど、彼はまた別な気がするのだ。自分でもよく分からなかった。そもそも、彼女がいる彼と私が二人きりで帰るというのは傍から見れば相当危ない気がする。クラスの誰かに見られていたら、紗香との間柄を破壊する恐れがある。
「…これからは帰りも別で帰らない?」
「どうして?」
「龍也には紗香がいるでしょ。邪魔したらまずいし、誰に見つかったら変な話、浮気だって騒がれる。」
そうかもね、とまた肯定した。そればかりは仕方ないかもしれない。でも、私より紗香なんだと思うとよく分からない感情が湧き上がってくる。あれから、何度も紗香の努力を認めようとしていたのになかなか自分を説得するのは難しいみたいだ。大した勇気を出せないくせに嫉妬ばかりしている自分に嫌気がさす。まだ私は彼を諦めきれていはいないということだ。
気づけば家路に近づき、お休みと手を振って別れた。
森林伐採の工事が始まる前日。今日ばかりは二人共に緊張が走っていた。今日で全部終わりだと思うと目が潤む。
「今日でこの基地ともお別れだ。」
「うん。」
この基地は、私にたくさんのことを教えてくれた。自然の恵みを注がれて、日光の気持ちよさを味わった。そして、バスケの練習をしながら彼との交流の機会を作ってくれた。目の前に生えている大きな樹木は無言でも、私を見守っているような雰囲気を纏わせている。今日で君ともお別れかもしれない。だって、もう会う理由などなくなってしまうのだから。
『ありがとう。』
自然の空気をめいっぱい吸って、吐き出す。
これで、もう、悔いはない。
「ありがとう、伊代」
唐突に言われて、彼の方を見たがわざとこちらへ目を向けていないような気がして目線をずらした。
「ありがとう、龍也」
もう、日が暮れ始めていた。
「あんた、失恋した?」
朝、朝食を食べていると母に言われた。図星である。
「しとらんわ。」
思わず方言が出てしまった。何故こんなにも分かるのだ。
「まあ、あんたの事だからどうせ誰かに取られたんでしょ。本当に好きなら取り返しなよ。完璧人間T」
「はいはい。」
何故誰か(紗香)に彼を取られたことまで知っているのだ。推測しただけか、それにしては正答率が高すぎる。これが、母親の力か。
ご馳走様、と手を合わせて席をたち、身支度をして家を出た。もう彼と関わることはないのだから安心してくれたまえ、私。基地は大切な場所であったことに変わりはないけれど、基地がなくなってしまったら、何故か胸がすっきりした。
学校につくと、一番に紗香がやってくる。
「龍也君と別れちゃった。」
紗香にしてはあまりにも平然とした表情だったので驚いてしまう。
「この前喧嘩したから、そのまま…」
私から彼を奪ったくせにそんな早くしかも、喧嘩で別れるなんてと、自分でもよく分からない怒りが湧いてくる。そこは意地でも抑えてやろうと努力した。
「じゃ、カフェにでも行って盛り上がろう!」
元気に言うことに全力をかけている自分がいた。放課後はあの、個性的なカフェで新メニューを食べた。不思議だが、美味しかった。
もう進級シーズン。隣の席の彼とはもう、話さない。
それから高校二年、三年と時は過ぎたがこれも何かの運命なのか、紗香とは三年間一生のクラスだが、彼とはそれきり一度も同じクラスにはならなかった。
私達は、大人になった。