夏休みに入った。

 日射しが突き刺ささる猛暑日。
 受験勉強は依然として捗っていなかった。高校生には夏期講習というものがある。それに加えて受験生には補習があるため、在校生よりも長い間学校に通う。受験生にとって夏休みなど存在していないも同然だ。

 蝉の声をききながら、先生の講義を受ける。窓際の席に座ると太陽を浴びて、ヒリヒリとする肌。思わず目を細めた。それはまるで夏のグラウンドを想起させた。

 「エイタ君、答えてください」教師が言った。
 以前のような失態はしない。そのつもりだったが、俺には答えることが出来なそうな問題だった。またしても「分かりません」と答えた。
 教師は「はぁ、そうですか」と呆れ気味に返答し、振り返って授業に戻った。板書を写すことは作業だ。自分にとって身にならないだろうことも、一応ノートに写しておく。これのどこが受験勉強になるのか、自分には分からなかった。
 周りの生徒は、必死にノートをとっている。馬鹿らしくはあるが、体裁的な受験勉強としてノートをとることは大事なのかもしれない。一応俺も受験生なのだから。
 
 
 
 補習は午前のみで終わる。
 放課後は半分くらいの生徒が学校に残り、自主的に受験勉強をする。学校には先生がいるため、いつでも質問できるから、学校に残っての受験勉強を学校側が推奨している。例にもれず俺も、学校に残っていた。しかしいるだけである。
 
 1時間ほど机に向かっていたものの、集中できないとの口実で教室を出た。気分転換とは言うものの、集中など初めからしていなかった。机に向かっていただけだった。
 教室を出て廊下に立つ。ふと、空が目に入った。入道雲がもくもくと積み重なっている、夏らしい晴天だった。
 あの日もこんな天気だった。
 
 懐かしい思いを抱いて、俺は校舎と旧校舎を接続する屋外連絡通路へと向かった。
 
 
 ここからはグラウンドが見えた。
 今日は野球部の姿が見えない。こんな晴れた日に部活を行わないと言うことはあり得ないので、恐らくは山へランニングをしにいったのだろう。
 真夏のグラウンドを外から見るのは、少し違和感があった。いつもそこにいたから。
 柵に腕をのせ、灼熱のグラウンドを見つめていた。
 
 「あ、エイタさんじゃないですか」遠くで俺を呼ぶ声が聞こえた。
 振り向くと、連絡通路の入口に佐々木が立っていた。
 
 「あれ? おまえ部活行かねぇの?」
 「いやー、成績悪くて補習があったんですよ……」
 「何してんの……」顧問から怒られること間違いなしだ。現役時代であれば三年生が注意する姿が思い浮かんだ。自分なら真っ先に注意していたかもしれない。今も注意をしかけたが、もう引退していることを思い出して、伸びかけた手を戻した。

 佐々木は俺の隣に、俺と同じ姿勢を取って、グラウンドを見つめる。
 「……なんか、久しぶりですね」
 「もう二週間も経ったからな、早いよな、ほんと」
 「ほんとです」
 内容の無い会話を積み重ねた。部活へ向かわない佐々木を気になったが、妙に先輩面をするのもなんだか嫌になって、やめた。
 しばらくして、佐々木が神妙な面持ちで語りだした。

 「俺たちの代、新チームになってからまだ一勝もしてないんですよ。接戦もあるんですけど、なんか勝てないんですよね……」
 「大変だな。そいやぁ、おまえキャプテンなんだってな」
 「はい、色々思い通りにならないですけど……まぁ、それなりに頑張ってますよ」
 俺はキャプテンではなかったのでその重さを理解できなかったが、しかし佐々木が苦しんでいることだけは理解できた。理由は分からないけれど。

 「……ほんとは、俺たちが甲子園に行くはずだったんですよね……」
 佐々木のその言葉に、先輩の俺は「お前たちが甲子園を目指すんだ」とか言えればよかったのだが、そう言えなかった。「そうだな……」と、ただ同意をした。

 「……ねぇ、エイタさん」肘を柵にもたれかけるのをやめて、少し改まって俺に言った。その真剣さに、思わず俺も背を伸ばしてしまった。
 ふぅと一つ、呼吸をして佐々木はいった。
 「勝負、しましょうよ」
 勝負、つまり一打席勝負。ヒットを打つか、打ち取るか。それを佐々木はしようという。佐々木の目的が分からなかったが、しかし断る理由もないので、少し考えてから「やろう」といった。
 グローブは部室から借りて、俺たちはいつも練習していたグラウンドへと向かった。



 俺はマウンドに立った。
 ブランクは二週間。しかし毎日ボールに触れている俺は、そのブランクもきっとない。軽く佐々木とキャッチボールをして肩慣らしをして、それから準備をした。
 勝負は本気だ。

 ヘルメットを被りながら佐々木は「負けませんよ」と、俺に向かってバットを向けた。「こっちこそ」と、ボールを持った右手を佐々木に向ける。
 それから右バッターボックスに、佐々木は入った。
 それを見て俺もマウンドのプレートに足をかけた。
 勝負の始まりだ。

 佐々木の構えは少しバットを内側に向けた、威圧感のあるいかにも『天才』という言葉が似あうバッター。どこを投げても打たれそうな雰囲気すらある。しかし俺なら打たれる自信はない。抑えられる。

 第一球。まずは様子見。しかし甘いところに投げてはいけない。少しでも内側に入れば打たれてしまうだろう。ストレートは危なそうだと、何となく感じた。変化球を投げよう。アウトコースに逃げていくスライダーだ。
 いつも通り、足を高く上げて投球モーションに入る。少しインステップ気味の自分のフォーム。相手からしてみれば打ちづらいだろう。
 右手から放たれた球は、狙った通り。真ん中あたりからアウトコースへと逃げていくスライダー。佐々木も手を出すことなく見逃した。
 まずは1ストライク。

 キャッチャーはいないので、佐々木が後ろのネットに引っかかった球を拾って、俺に返してくれる。

 次はストライクが欲しい。ここでストライクを取れば、有利になる。
 ストレート。アウトコース。先ほどと同じコースに投げ込んだ。佐々木はスイングをしたが、打ち損ねてファール。これで2ストライクだ。
 
 3球目。佐々木は今追い込まれている。恐らくは多少ボール球でも手を出してくる。
 だから誘うような球。アウトコースに外れるボール球。カーブボール。
 投げ込んだ球はこれもまた狙い通りにいった。佐々木はスイングをしそうになるも、ギリギリで堪えた。これで2ストライク1ボール。

 次で決める。
 全力で、ストレート。さっきの外に外れたカーブボールは、外に外れた印象を佐々木に植え付けただろう。ここでインコースストレートを投げ込むことで、想定していなかったボールだろうから、きっと手が出ない。
 そう思って投げた。全力で。
 しかし、白球は快音と共に空をかけた。
 打球を目線で追う。白球は大きく空を舞った。しばらく空を飛ぶ。そして野球部の敷地を通り越して、共同グラウンドのサッカーゴールまで届いた。特大ホームラン。つまり打たれたのだ。

 打たれた球は、奇しくも大会でサヨナラホームランを打たれたものと同じだった。

 「エイタさん……」話しかける佐々木の声は震えていた。
 あぁ、打たれた。そう思いながら振り返ると、佐々木は涙をこらえていた。そのために声が震えていたのだ。
 しかしなぜだろう。そう思ったが、その言葉は口から出ることは無かった。
 そっか、打たれたんだ。しっかりと、完全に。俺の完全な敗北だった。

 佐々木は俺のもとへと来て、グラウンドの土の上に腰を下ろした。それを見て俺も同じように腰を下ろす。

 「……俺、けじめをつけたかったんですよ。ずっと、ずっと、ずっと……エイタさんたちの代のことが忘れられなくて……」
 語りだした佐々木は、勝負に勝ったはずなのに寂しそうだった。そんな佐々木の様子を見て、俺は口を挟むことが出来なかった。
 その声はさらに潤んでいく。
 「負けるなんて思わなかったんです、いつまでもエイタさんたちと野球をできると思ったんです! でも、でも……それはできないって、分かっていました。俺は、負けたことを、受け入れたくなかったんです」

 その言葉にはっとした。
 俺も負けたことを受け入れられなかったのだろう。だから引退した今でも高校野球に縛られて。俺と佐々木はいつまでも後ろを向いたままだった。みんなは前を向いて立ち上がったのに。
 そう気づいた俺。いつの間に頬を涙が伝っていた。

 あぁ、やっと負けることが出来たんだ。
 俺も、佐々木も。

 「だから、ありがとうございました」佐々木は俺に頭を下げた。それは感謝だった。

 涙を流すことが敗北ではない。
 しかし負けをようやく受け入れられた俺は、悔しくて、悔しくて、悔しくてたまらなくて。自然と涙が溢れていた。
 あと一歩だった。手を伸ばせば届いた夢だった。
 しかしそれは手からするりと離れていった。

 3年間の集大成を、夢を、そう簡単には諦めることができない。夢が破れたと信じたくなくて、まだみんなと野球をしていたくて、俺は――夢を見ていたんだ。
 高校野球という夢を。

 「こっちこそ。ありがとう、今まで……」
 「はい、はい!」
 抱き合って感謝を伝えた。
 その日、俺と佐々木は周りの目もはばからずに泣き声を上げた。
 まるであの日の控室のように――。