確かにそうだと言い、それからは他愛のない会話が続いた。
 控室では涙。控室の外では、今さっき試合に敗北したとは思えない、サバサバとした会話が続いていた。



 負けてから2週間が経った。敗北したという自覚はない。
 この自覚のなさが、模試の結果にも繋がっている。

 先週の土曜日に受けた模試は、控えめに言っても酷いものだった。これならば2年生の方がいい点数が取れるのではないかとさえ思える。
 いつもよりも数段下の点数を取ってしまい、それを自己採点で突き付けられた。
 しかし何とも思うことが出来なかった。

 俺は大学に行くつもりである。
 もちろんいい大学に行くことが出来るのなら、そうしたいし、それを可能とする両親の財力もありがたいことにある。選ぶことは可能だ。
 しかし財力だけでは大学は入学できるものではない。財力はその一パーツに過ぎない。最も必要なのは本人の学力そのものだ。
 その学力を蓄えるための受験勉強が、身が入らないのだ。あまつさえ模試の最中も集中力を欠いてしまう体たらく。それではいい大学に行くことなど夢のまた夢。そう分かっているのに、それでも勉強に身体が動かない自分がいる。

 このまま時を貪るだけ貪って、堕落して。一体自分は何になるのだろう。
 そうは思っても何も行動は起こさないし、起こせない。身体と心は、いつもあの夏の球場にいる。立ち直れず、結局俺は前を向けていない。今でもマウンドに立っているのだ。
 目の前にある勉強から目を背けたくて、何かをしたかった。

 「なぁ、キャッチボールしようぜ」昼休み、野球部のセンターだった田中をキャッチボールに誘った。「ああ、いいぜ」と田中は頷いて、俺たちはグラウンドへと向かった。

 もうすぐ夏休みのわが校のグラウンドは、太陽が地面に反射して熱が噴き出していた。空と地面の二枚挟みで、物凄い暑さを感じる。立っているだけで汗が噴き出しそうだった。

 「懐かしいなぁ」そう言う田中は、感傷に浸っているようだった。
 グローブは学校に持ってきていないため、部室に置いてあった卒業生のグローブを勝手に持ち出した。革が少しくたびれてはいるが、まだまだ使えそうだった。グローブを拳でパンパン叩き、使用感を確認する。うん、いいグローブだ。
 他愛のない会話をしながら、キャッチボールを始めた。始めは軽くから。
 
 「負けてから俺、初めてボール握ったわ」
 そう言う田中に対して、俺は毎日ボールに触れていた。ピッチャーを始めた時から、枕元に野球ボールを置いて、指先の感覚を確かめていた。その習慣が今も続いている。

 「そいやぁさ、佐々木がキャプテンらしいよ」田中が教えてくれた。へぇと他人事のように返事をした。話しながらキャッチボールをする。
 「球全然衰えてないな、田中」
 「おまえこそ。なんなら速くなったんじゃないか?」
 「そうか?」とは言いつつも、気分がよくなった俺は少し力を入れて球を投げた。田中はうおっと驚いて、それでも難なく捕球する。捕球した田中は対抗するように、球に変化をつけて投げてきたが、本職はセンターのため投げ慣れておらず、数センチの変化で留まった。

 俺は投手の技を見せてやろうと、球に変化をつけて投げた。田中の変化球の数倍曲がってグローブに向かった。田中は捕球をし損ね、コロコロと地面に白球が転がった。
 その姿に、懐かしささえ覚える。ゆっくりと歩きながら、田中は地面のボールを拾った。現役時代なら、顧問の「遅い!」という声が聞こえてきそうだった。

 「あー勉強したくないなぁ!」
 切実な思いがこもった田中の球が、痛烈に俺のグローブに突き刺さった。ポトリと地面に球が落ちる。

 ……勉強、か。俺だって勉強したくない。今すぐにやらなければいけないことは分かっている。だいたい、受験勉強において、受験勉強自体を楽しむことが不可能だと思う。でもそんなことを言っていられないのが受験勉強。大学へ進学するというのなら、ある種義務的に襲い掛かるのが受験勉強だから。

 「……エイタ?」
 「ん、あぁ。わりぃな」
 腰をかがめて、落ちた球を拾い上げる。
 田中は受験勉強のストレスを発散するように球を投げるのに対して、僕は遊び感覚の中にもどこかまだマウンドに立っている気分が混じっていた。
 学校のグラウンドの柔らかな土が想起させたのだ。あの夏の球場のマウンドも、柔らかな土だったから。
 
 しばらくして、時計を見た田中がもう授業の時間だから戻ろうと言う。
 グローブとボールを部室に片付けて、教室へと戻る。もっと投げたかったが授業が始まるのなら仕方がない。
 
 教室への道中、廊下で野球部の顧問と遭遇した。
 キャッチボールを教務室から見ていたようで顧問は「まだやれるんじゃいか」と冗談のように笑ってそういった。現役時代は顧問があんなに憎くて恐ろしく見えたのに、今では優しい中年の先生のようだった。
 顧問のその言葉は自分の胸中を察して言ったのか定かではないが、俺には今の不安定な心を肯定してくれたように感じた。