忘れられない。
 責任は、誰にもないのかもしれない。あの瞬間まで、俺たちは確かに勝っていた。点差こそつかずとも、展開としては有利だった。勝つ気でいた。勝った気でいた。傲慢だったかもしれない。油断だったかもしれない。
 けれど選択は間違っていなかったと思う。


 「――イタ君、エイタ君」そう呼ばれて俺はシャキっと背筋を伸ばした。意識を現実に向ければ教室中の視線が俺に集まっていて、黒板には長々と文章が書き連ねられていた。しかし親しみのない字面。古文だった。
 その呼びかけはつまり、俺に答えろということ。知らぬ間に順が回ってきたようだった。

 しかしこれが古文だと理解したところで、何を答えればいいかさっぱりだ。仕方がないので潔く「分かりません」と、教師に伝えた。
 すると「今の時期で分からないと、正直まずいよ?」圧をかけてくる教師が、少しだけ気に障る。
 そして教師は黒板に答えを書き綴った。「大殿籠る」という古語はお休みになるという意味らしい。そして天皇が夜更かしをしたのだという。黒板に書かれたことを作業のようにノートに写す。

 まずいよと言われても正直知らなかった。そしてクラスのみんながペンを握る様子はなかった。それは俺だけが理解できていないと言うことの証明。同じクラスにいる野球部の――いや、元野球部の――仲間も皆知っていて当然と言いたげな澄まし顔をしていた。
 そんな彼らの様子を見ていると、なんだか馬鹿らしくなってノートを取るのを放棄した。まだここにはいたくないと。

 あーあ、やってられんねぇ。
 溢れかけた不満を心の中で押さえて、窓の外を見る。そこにはいつもの、いつも練習をしていたグラウンドがあった。そこに立つ自分の姿を想像する。

 この教室の中で、確実に俺だけが受験勉強の流れに遅れていた。流れにすら乗れていなかった。未だ俺は、蒸し返すように暑いあの夏の球場にいた。



 サヨナラホームランを打たれた瞬間、俺は天を仰いだ。仰いだのだけれど、それが高校野球の終わりであるとは思わなかった。思えなかったから、涙が出なかったのだと思う。
 それはキャッチャーで後輩の佐々木も同じようで、同じく涙一つ流さなかった。あいつこそ、涙を流しそうなやつであるのに。

 右バッターの内角ストレート。
 明らかに、ホームランを打たれたバッターの弱点だった。だからそこを投げた。二人ともそれは意見が一致したから、サインは手短に終わらせてすぐに投げた。
 完璧な球だった。自信しかなかった。まぐれとか、出会い頭で芯にあたったとか、打った反応を見ているとそんなものだろう。それほどまでに俺の球は精密なコントロールがされていたのだ。打たれるはずが無かった。

 けれど打たれた。
 そして負けた。

 負けた後、控室でチームメイト皆が泣いていた。
 同級生から後輩も、俺と佐々木を除いた全員が泣きわめいていて、最後までありがとうと感謝を伝える仲間もいた。それにつられてマネージャーも涙を流していた。
 窓のない暑苦しい密室で、悔しさとか悲しさとか寂しさとか感謝とか、全てを涙に乗せて伝えていた。
 そんな姿を見ても、何も思えなかった。無ではない。感情が並、だったのだ。

 控室の外で、無造作に置かれたグローブの列の中から自分の真っ赤なグローブを見つけた。左手にはめてみるとやはりぴったりだった。自分のグローブだから当たり前ではあるけれど、その時の俺には何故か新鮮に思えた。
 「……まだ投げられるんじゃないか」同じく控室の外にいた佐々木に言った。俺と同じように涙を流していない佐々木が目に入ったから、話しかけた。
 「はい、そうですね」
 佐々木は敗北の雰囲気に気を遣ってか、小声だった。そして、エイタさんが打たれるはずないんですけどね。と後に付け足した。

 その真剣さに、打たれた俺でさえ本当にホームランを打たれたかと疑問を抱く。まるでまだ戦場の、球場の上に立っているような気分だった。
 控室から聞こえる咽び泣く声、嗚咽、鼻水をすする音が混じりあって聞こえた。
 雰囲気に合わせないのもどうかと思った。そっとグローブを左手から外す。刺繍が施された赤の自分のグローブには、まだまだ試合の熱気が籠っていた。
 
 「なぁ、佐々木」
 「なんですか?」
 「とりあえず、ありがとな。2年間」
 「なんですか、急に」
 「一応言っておこうかと思ってさ、感謝の言葉の一つくらいな」
 「なんですか、それ」
 「さっきから『なんですか』しか言わねぇじゃん、おまえ」
 「エイタさんも普段はそんな事言わないじゃないですか」
 「……まぁ、そうだな。でも言うことも無いしな」
 「別にそれっぽいことなんて言わなくてもいいんですよ。いなくなるわけじゃあないんですから」