それから僕の通院が終わるまで、談話室にいる春野のもとへ通う日々が続いた。
「わかってくると、野球って面白いねえ」
 あれから春野は毎日テレビでプロ野球中継を観るようになって、すぐに細かいルールまで理解していた。
 親に野球雑誌まで買ってもらっていて、それを捲りながら楽しそうにしゃべる春野に、
「ハマった?」
「うん。楽しい!」
「描いてる漫画にも、野球要素入れてみれば」
「あ、それいいね!」

 二週間もすれば怪我は治り、その後は軽くリハビリがあった。小さな怪我だったし、治るまでの期間も短かったので、リハビリを始めて一週間後には、軽くなら野球をしてもいいという許可が出た。
「春野、野球好きになったって言ってたよね?」
「言ったけど……」
 診察を終えるなり、喜び勇んで春野のもとを訪れた僕を、春野はちょっと警戒するような表情で見ていた。
 きっと、僕の手にあるふたつのグローブに気づいたからだろう。続く言葉をだいたい予期しているような春野に、僕はおそらくそのとおりの言葉を続ける。
「じゃあ、やろう。今日はちょうど曇ってて涼しいし」
「あの、わたしいちおう病人で……」
「ちょっとキャッチボールするだけだから」
 三週間も野球ができずにいた僕は、ついさっき医師が下した許可に、もういてもたってもいられなかった。

 中庭は広々としていて、一面に芝生が敷きつめられていた。どこを見渡しても緑が深く、花壇には色とりどりのペチュニアやマリーゴールドが咲き乱れている。
 今日は朝から曇った涼しい日だったからか、ベンチには数人の入院患者らしき人たちが座っていた。
「好きって、やりたいってわけじゃないんだけどな……」
 春野はしばらくぼやいていたけれど、僕がグローブを渡すと、あきらめたように手にはめていた。

「いくよー」
「や、優しく投げてね?」
「わかってる。――はいっ」
「うわあ!」
 上投げでぽんっと放ったボールは、ちょうど春野の胸元あたりに飛んでいったのだけれど、なぜか彼女は思いきり身体をひねってそれを避けた。
「いや、取ってよ」
「無理だよ、速すぎ!」
 僕は奥の花壇のほうまで転がっていったボールを拾いにいくと、今度はそれを春野に渡した。
「じゃあ次、春野が投げて」
「ええ……投げれるかな」
「どんな球でも取るから大丈夫」
「おお、言うね」
 じゃあいきます、と真剣な顔で宣言した春野は、ぐっと身体をひねり、腕を振り上げた。
 まさかの本格的なフォームに面食らっていると、えいっ、という気の抜けた掛け声とともに、放られたボールが彼女の目の前に落ちた。
「……下じゃなくて前に投げるんだよ」
「わ、わかってます。ちょっと間違えちゃっただけ」
「はい、じゃあもう一回」
「まかせてよ、今度こそ!」

 春野にボール拾いをさせるわけにはいかないので、彼女がとんちんかんなところに投げるボールをぜんぶ僕が拾いにいっていたら、あっという間に汗だくになった。
「そろそろ終わろっか」
 けっきょく、三十分も経たないうちに、僕はそう告げていた。春野の体調が心配になったからと、単純に僕が疲れたから。いくら曇りといっても、今日も気温はそれなりに高い。

「倉木くん大丈夫? 汗すごいよ」
「春野が上手かったからね」
「え、ほんとう? やった」
 僕の皮肉が通じなかったらしい春野は、無邪気に喜んでから、
「思ったより楽しかったな、キャッチボール」
「それはよかった。僕は思ったより疲れたな」
「ね、次はいつ来る?」
 笑顔で向けられた質問に、僕はちょっと困った。「あー……」と答えに迷って口ごもっていると、
「……あ、もしかして」
 すぐに春野は察したように、笑顔を少し強張らせた。
「今日で最後だった?」
「……うん。実は」
 あとは自分でリハビリを続けるように、ということで、通院は今日で終わりだと告げられていた。
「そっか」と春野は強張った顔にまた押し出すように笑みを戻して、
「よかったね。おめでとう! じゃあ次は、九月になったら学校で……」
「あのさ」
 その笑顔に隠しきれない寂しさがにじんでいるのを見た僕は、思わず口を開いていた。
「また時間があったら来るよ」
「え」
「春野はまだしばらく入院してるんでしょ?」
「う、うん。今月いっぱいは……」
「じゃあ、また。涼しい日があったら、キャッチボール付き合ってよ」
 ぽかんと僕を見つめていた彼女の顔に、一拍置いて、弾けるような笑みが広がった。
「……うん! またね!」
 心底うれしそうな笑顔で、春野が大きく手を振る。
 それに手を振り返しながら、また来よう、と僕は思っていた。入院生活の退屈さは、もう充分すぎるほど春野に聞かされていたから。中学最後の夏休みを、退屈な入院生活で終わらせなければならない気の毒な彼女の、話し相手にぐらいなってやろうと思っていた。そのとき、僕はたしかに、そう思っていた。

 だけどそれきり、僕は一度も春野のもとを訪れなかった。
 直後にひまりの病気が発覚して、春野のことを考える余裕もなくなってしまった。